第43話 適応障害
勤続約30年、一度も転勤がなかった。
その代わり、周囲の人間が入れ替わり続け、少しずつ自分でも気づかないほどゆるやかなスピードで職場環境は悪くなっていった。
気づいた時には完全に孤立していた。
一人で黙々と作業をする日々。無責任な後輩たちのやり残した仕事が全て回ってくる。注意しようものなら「ハラスメントを受けましたぁ~」と職場のトップに猫なで声で訴えかける。事実確認をせずに鼻の下を伸ばしたおっさんは、私を指導しにくる始末。何があっても、相談できる人はいない。私の話を信じて正しく理解し聞いてくれる人がいない。周りにはこんなにたくさん人がいるのに。
いつものように駅までの道を歩いて異変に気付く。
足が重い。靴底に鉄板でも入っているみたいだ。急がないと電車に乗り遅れてしまうのに、一歩が踏み出せない。やっとの思いでいつもの倍の時間をかけて駅に着いた時には、激しい動悸と息切れがして立っていられなかった。イヤホンからはお気に入りの音楽が流れているはずなのに、自分の鼓動が聞こえてくる。
「体調がすぐれないので、一日休ませてください。」
仕事がたまると思うと這ってでも出社したいところだったが、どうしようもない。会社に電話を入れたら「了解。」の一言で電話は切れた。
私に仕事を押し付ける人はたくさんいるが、困っている時に助けてくれる人はいない。明日出社したら、きっとデスクの上は昨日の晩のままだ。いや、そこへ今日の仕事も追加で積まれているのだろう。
休むと決まったら、割り切って自宅に戻る。出かけたばかりの私が戻ってきたら、きっともみじは大喜びだ。久しぶりにたくさん遊んであげよう。体が動けばの話だけど。
自宅を目指して歩いていて、不思議な感覚に陥る。
さっきあんなに時間をかけなければ歩けなかった道を、サクサク歩いている自分がいる。動悸もいつの間にか治まっているし、イヤホンからはいつもの音楽が流れている。
「これじゃあ、仮病みたい。」
騒ぎのピークは過ぎたものの、まだ報道陣がチョロチョロしているので、店は営業していない。仲間だけの休憩処に戻してある。自分だけの離れでコーヒーを淹れ、ベンチでもみじとのんびりしながら思う。さっきの動悸はなんだったんだろう。
翌日も同じことが起こった。休むわけにいかず、必死で出勤した。電車に乗るのも怖い。昼休み、行きつけの定食屋で顔なじみの大将に体の不調を打ち明けてみる。
「あー、パニック障害かな。知り合いにもいるぞ、電車に乗れないって奴。具合悪くなったらすぐに降りられるように、各駅停車しか使わないんだって。」
突然耳に飛び込んできた精神疾患の名前に驚く。でも、私はきっと違う。帰りの電車は何ともないのだから。急行にも乗れる。
異常なしと言ってもらうために、私は心療内科を訪れた。
不眠、食欲不振、動悸、呼吸の乱れ、そして会社に行く時だけ電車に乗れないことを、少しずつ話す。山下を心療内科に連れて行った時と同じだ。先生は口を挟むことなくうなづきながら話を聞き、一言も漏らさずにタイピングしていく。
「普通に外出は出来るんです。先週も日帰り温泉に行ってきました。」
笑顔でうなづく先生。
「典型的な適応障害の症状ですね。」
あっけなく病名が付いた。適応障害?男勝りだの、心臓に毛が生えているだの言われた私が?薬が処方され、次の診察の予約がシステマティックになされていく。
「ちょっと待って、先生。私が適応障害?何?適応障害って。」
涙が溢れてくる。わけのわからない病気にかかってしまった不安。そして、体調不良の原因が分かったことの安心感。
「適応障害は精神疾患の一つで、ストレスの原因がはっきりしている物を指すの。長井さんは職場環境の悪さが原因で発症したのね。出来たら2週間くらい休暇を取って欲しいところだけど。難しい?」
「2週間休んだら、職場環境が良くなるんですか?」
「休暇は本人の心を休めるためのもの。残念ながら、適応障害の患者が出たからという理由で職場環境が改善される例はすごく少ないの。あるとすれば、患者が自らの命を絶ってしまったケースね。」
先生のこの一言で、悩みや苦しみに怒りがプラスされた。
それなら、どうあがいても今の会社に職場環境の改善は求められないじゃないか。自分がお墓に入ってしまったら、働くことすらできない。
体調は改善されないままだけれど、何やら変なパワーが湧いてくる。
医師に作ってもらった診断書を、翌日上司のデスクに叩きつけるように置いた。
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