第37話 衛生管理者

「じゃじゃーん!」

山下が封筒をひらひらさせる。

そういうめんどくさい前置きが好きじゃない。


「何よ。」

離れの中がとっ散らかっている。

カウンターとトイレを作る作業が始まった。

当然一日二日で終わるはずなく、お気に入りの離れは作業場と化し、

工具や木材が置きっぱなしで埃っぽい。

それでも、コーヒー休憩は必ずここでする。


山下の封筒から出てきた紙には

「食品衛生責任者 西園寺亘」

と書かれていた。


食品衛生責任者の資格、それは飲食店を経営する場合、そこで働く誰か一人が必ず持っていなければならないと法律で定められている物だ。そして、山下には全く必要ない資格でもある。


「なんで、そんな資格とったの?」

いいことを思いついたとでも言わんばかりに資格証を見せてくる山下の本意が分からず、こちらはどちらかと言えば冷めている。何がじゃじゃーんだ?


「俺、いつでもここで働けるぞ。」

勝手にキッチンの柱に資格証を貼り付ける。今まで全く気にとめていなかったけど、飲食店には必ずこの書類が掲げてある。一枚の書類が貼られただけで、自宅の離れが急にびしっと引き締まり、喫茶店であるかのような雰囲気になる。一体何を考えているんだ?


「山下、ここを店にするつもりないよ?」

あくまでも冷めた調子の私に少しがっかりした表情を見せた。

「メイは今まで通りでいいんだ。俺がここで働く。週末だけ手伝ってくれたらそれでいい。」

世間知らずの元アイドルは何を言っているのだろう。私の家の敷地内で、私が建てた離れを使って店をやるつもりにしている。一言で言うなら「非常識」だ。店を経営したいなら、自分で場所を見つけてやりたいようにやればいい。それはここであってはならない。だって私の家だから。至極まともな話が山下にはなかなか思うように伝わらない。そして、一枚しかない資格証もべったりと貼り付けられてしまった。


「あんた、店をやりたいなら自分で場所を探してやりなさいよ。ここは私の自宅だから、そんなの認められない。療養にはいいと思って誘ったけど、私はここを店にする予定ないから。」

そう言いながら、少しずつ山下が回復していることを嬉しくも思っていた。もう一度スポットライトの下に戻るまで、そんなに時間はかからないかもしれない。今夜あたり、山下さんと山上さんにメールでも入れておこう。


「それなら、ここ買うよ。」

頑なな山下の返事に耳を疑った。

「何馬鹿なことを言ってるの?元気になったんなら、少しずつ仕事増やさないと。」

「ここで仕事する。もうステージには上がらない。」

言葉を失う私のもとに、大工さんが入ってきた。めざとく食品衛生責任者の書類を見つける。


「西園寺ってあの西園寺?」

山下の顔を覗き込んではっとする。そりゃあそうなるわなぁ。

「清って、西園寺亘なの?」

不思議そうに山下の顔をのぞき込んだ大工さんの疑問はやがて確信に変わり、

驚きへと変わっていく。ここは有名人がわざわざ来るような町じゃない。


「さつき、どういうこと?」

遅かれ早かれ訪れる時が、こんな形でやってきた。出来たら自分の口で説明して欲しい。

「隠すつもりなかったんだけど、昔からの友人なのよ。テレビ見てたら知ってると思うけど今病気療養中で、少しでも心の疲れが取れたらと思って、時々ここにきてもらってたの。だいぶ良くなったと思ったら、ここで喫茶店やりたいって言いだしてさ。ステージに戻らないって言いだしたから、親方からも言ってやってよ。」


「そうか!そりゃいい!ずっとここで働いたらいいじゃないか。それならそうと言ってくれたらよかったのに。急ピッチで仕上げるからな。」

豪快な笑い声が響く。言って欲しかったのはそういうことじゃない。


山下が西園寺亘であることを町の人全員が知るまでに半日もかからなかった。



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