第34話 通勤
この一日で、山下は何人かの人と出会い、たくさんの会話をした。
時に相手が一方的に話すこともあれば、山下の口数が増えることもあった。
お気持ち箱には2000円ちょっと入っている。あくまでお気持ちなので、200円の人もいれば、300円の人もいる。50円の人もいるけど、不思議と一円も入れない人はいない。中のお金を全て出して、山下に渡した。
「お疲れ様。バイト代、超安いけど。」
「え?いいよ。受け取れない。」そういう山下のエプロンのポケットにコインをじゃらじゃら入れてやった。2000円分の小銭は結構な重さで、新品のエプロンが型崩れしそうだ。
「週末ににさ、美味しいコーヒーを庭で飲みたいと思って、焙煎スペースを作ったら、こんなに人が集まるようになっちゃったの。面白いよね、都会ではあり得ない。」
山下は私の言葉に深くうなづく。
「どうだった?大丈夫そうだったら、また手伝って欲しいんだけど。週末はたいてい、ここで誰かとコーヒー飲んでる。」
「分かった、また来る。」
何が効果的なのか分からない。でもこの一日で山下は少し笑顔を取り戻していた。
けだるい月曜日。帰宅途中で離れのカギをかけ忘れたことを思い出す。ま、いいか。泥棒の出る土地ではないし、盗られる物もない。そんなことを考えながら歩いていて、だんだん見えて来た自宅の離れが明るく灯されているのに気づいた時、背筋が凍った。まさか。残り僅かな距離を走る。侵入者と出くわすことの危険性にまで頭が及ばない。
敷地に入ってまず耳に飛び込んできた、おばあちゃんの笑い声。ベンチで並んで座っているのは山下だった。
「あ、メイ。お帰り。開いてたから勝手に入っちゃった。」
「いや、いいんだけどさ。家に鍵かかってんのに、トイレとか大丈夫だった?」
「さっき、おばあちゃんのお家で借りて、ご飯もごちそうになった。」
何してんだ、こいつ。
「週末って、ちゃんと聞いてたけど、すごく楽しかったから、ふらっと来ちゃったんだ。」
「たまたま、鍵をかけ忘れたんだよ?ロックしてあったらどうするつもりだったの?勝手なことして・・・。」
話ながらも手を止めない山下が、私にもコーヒーを淹れてくれた。
「さつきちゃん、こんなに一日笑って過ごしたのは久しぶりよ。」
おばあちゃんがそう言ってまた笑う。一日いたのか?
「山下、離れの合鍵渡そうか。」
勝手に入ったことを少し反省しつつ、とても楽しそうな山下に提案してみた。
かといって自宅を開放したくはない。近々トイレを増設する必要がありそうだ。それまではおばあちゃんたちを頼って何とかするだろう。ここでは山下は西園寺亘を捨て、山下清としてのびのびと過ごしている。心にも体にもいいことが明白である以上、サポートする以外の選択肢はない。
「いいの?勝手なことしてごめんな。」
そんなやりとりがあって、山下は私の家へ通勤してくることになった。
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