第30話 離れ
家の敷地に離れを作った。
私が暮らしている家を「母屋」と呼ぶならば「離れ」ということになるが、全然離れていない。限られた敷地をもみじやバイクと分け合い、残ったスペースに小さな建物を作った。正確には作ってもらった。
私がこの町で暮らすようになって、一番譲歩したのが人づきあいだった。何よりも苦手なこと。でも避けては通れない。週末の草むしり、家庭菜園で出来た野菜のおすそ分け、毎日の挨拶。寄り添って暮らす。人を助け、助けてもらって今の暮らしが成り立っている。離れも地元の大工さんに相談したら、すごい速さで、そしてすごい安さで作ってくれた。
離れというよりは、キッチンと言った方が正確だ。シンクとガスコンロ、冷蔵庫が置けるように電気も引いてもらった。使い勝手のいい棚とテーブル、そして大きめの換気扇。
結局陶芸には興味が湧かず、私はここで珈琲豆を焙煎することになる。たまたま立ち寄った自家焙煎の喫茶店で飲んだコーヒーが美味しくて、焙煎そのものに興味を持った。レストランに行っても、美味しかった時はまた来ようと思うだけで、帰って同じ物を作ってみようとは思わない。我ながら極端な性格をしていると思う。最初に見様見真似で挑戦した時は、生豆から剥がれる表皮が台所中に舞い散り、大変な事態になった。しかも出来上がったコーヒーは飲めたものではなかった。
そんなこんなで、専用の場所を作ることにした。飽きたらまた違うことに活用できる。好きなことは好きなだけやろう。
離れの外には、壁に沿うように背もたれのない木製のベンチを置いた。
自分で一から作った珈琲を外で飲むのが心地よい。楽しみが一つ増えると、憎しみや苦しみが一つ減るような気がする。ちょっと疲れている。自分を幸せにするのをおざなりにして山下に寄り添い過ぎてしまった。いいタイミングで美味しいコーヒーと出会い、趣味が出来た。
好きこそものの上手なれとは上手く言ったもので、日々の練習でどんどん焙煎のスキルは上がっていったようだ。自分では実感がないけど。喫茶店には時々行くものの、自宅用の珈琲豆はお店で買わなくなった。そして、コーヒーを飲んでいる時に人が訪ねてくるようになった。
「さつきちゃん、何始めた?いい香りがするって、みんな言ってるけど。」
近所のおばあちゃんが野菜を片手に入ってくる。そんな話になっていたのか。
「あ、おばあちゃん、いつもありがとう。ちょっと座って。」
手早くコーヒーを淹れ、クッキーと一緒にベンチに並べる。
「口に合うといいんだけど。コーヒー作ってるの。クッキーは下手くそだから、買ったやつね。」
「コーヒーって自分で作れるのかい?おばあちゃんはお茶ばかりであまりコーヒー飲まないのよ。」
と言いつつ、嬉しそうにカップに手を伸ばす。
「苦いの苦手だったら、砂糖とミルクも入れてね。」
おばあちゃんはカップに口を付ける前に深く息を吸った。
「いい香りねぇ。お砂糖入れたらもったいない。」
しばらく二人でコーヒーとおしゃべりを楽しむ。
もみじがごはんはまだかと鳴き始めた時、
わりと長い時間が経ってしまっていたことと、自分がとても心地よい時を過ごしていたことに気づく。
「また、いつでも寄ってね。」
笑顔で帰るおばあちゃんを見送ったあと、
ソーサーにこっそり置かれた200円を発見した。
人生の先輩方はスマートにこういうことをする。
喫茶店じゃないんだから。
山下から電話がかかってくる。少しだけど声に張りが戻ってきている。
「テレビ見たって、山下さんから電話きた。心配かけてる。」
「いいじゃない、心配かけても。元気になった時に安心させてあげられたらそれでいいよ。また山下さんと一緒にご飯食べに行きたいなぁ。」
「そうだね。」
声の雰囲気から察するに、まだそんな気にはなれないみたいだ。山下さんには後で連絡しておこう。テレビの情報は偏っている。
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