第27話 心の病気

朝から電話が鳴る。山下だ。


「家から出られない。」


何を言っているのか、意味が分からなかった。

鍵が壊れたのか、靴が壊れたのか。元アイドルが家に一足しか靴を置いていないはずがない。きっと鍵だ。何かの誤作動で閉じ込められたんだろう。


「は?」


「仕事に行かなきゃならないのに、外に出ようとしたら、酷い動悸がして体が動かない。理由がないのに涙がボロボロ出てくる。」


私の職場にも同じ状態の人がいる。山下の一言でようやく事態が飲み込めた。電話の向こうで何回もチャイムが鳴っているのが聞こえる。マネージャーさんがエントランスにいるんだろう。多分今この瞬間も電話をかけて、話し中であることに腹を立てているかもしれない。


「山下、正直に話したらマネージャーさん、仕事のスケジュール変えてくれそうかな。もし無理だったら今日の仕事だけ頑張ってこなして明日休ませてもらおう。お前、急病だ。」


私の口から出た「急病」という単語に動揺しつつ、いったん電話は切れた。多分、切れた途端にマネージャーからの電話が鳴っているはず。上手に説明できるだろうか。いつまでもインターホンと電話に応じなければ、合鍵でマネージャーは入ってくる。事態を正しく理解してくれなければ、引きずってでも山下を仕事の現場に連れて行ってしまう。


今から家を出たところで、私が到着する時にはきっと山下は家にいない。それでも、向かってみることにした。人づきあいが浅く少ない私がなぜ他人にこんなに振り回されているんだ。引っ越してから初めて訪ねるその場所が、電車では不便だったと思い出し、ヘルメットとグローブを手に外へ出る。


遊びに行く服装だと分かったもみじの見送りがふてくされている。

遊びじゃないんだけどね、と頭をグリグリするとふわふわっと2回尻尾を振って、部屋へ戻っていった。誰に似たのか、犬なのにクールだ。


ライムグリーンの愛車が唸る。いつもそんなスピード出さねぇだろう?と不思議そうに、それでも嬉しそうに高速道路を走る。山下の今日の仕事ってなんだろう。生放送や舞台じゃなければいいのだけど。写真撮影とかレッスンならまだいい。不特定多数の人に作り笑いをし続けるのは今の山下にはきっと大変なことだ。


エントランスでチャイムを鳴らしても、やはり応答はない。電話をかけたらすんなり出た。効率が悪い。


「山下、いまどこ?マネージャーさんと話した?」


「仕事に向かってる。何も話せてない。」

暗くて小さな声は車のエンジン音でかき消されそうだ。マネージャーは異変に気付かないのだろうか。


仕事が終わる時間と、場所を聞いて電話を切り、現場へ向かった。

近くのカフェで山下が出てくるのを待つ。


おじさんとはいえ、元アイドル。マネージャーさんだけではなく、数人のスタッフに囲まれてスタジオから出てくる。バイクで横付けした私に関係者達はあからさまに不審そうな顔をする。貴重な休暇を一日棒に振った上に、知らないおっさんに不審者扱いを受けて、私はそこそこ機嫌が悪い。


「山下、乗って。」

私の予備のヘルメットが入る。私の頭がでかいのか、山下の顔が小さいのか。

慌てるマネージャーに名刺を渡す。


「裏に携帯電話の番号書いてあるから。」

ほとんど拉致のような状態で山下を連れ去る。言われるがまま、後ろに乗った山下は何のリアクションもない。スタジオの前で私が待っていたことにも驚いていなかった。感情が死んでいる。遠くでマネージャーが何かを叫んでいるのはとりあえず聞かなかったことにする。


「病院、行くぞ。」

バイクには乗らない山下、ヘルメットに仕込まれたインカムを通して私の声が届いた時には、少しだけ驚いたようだ。それでも黙ってタンデムシートにまたがり、「病院」というワードに対しては、イエスでもノーでもない。バックミラーに映るフルフェイスのヘルメット。表情まで読み取るのが難しい。小さな女が、背の高い山下を積んで高速を走ると追い越し車線の車がチラリとこちらを見た。


祈るような気持ちで、病院の扉を開け、受付をする。

待合室で何気なく手に取ったスマホには数えきれないほどの着信。そりゃそうだよな。ため息を一つつき、マネージャーさんに折り返して、事情を説明し今いる場所を伝えた。






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