第26話 タトゥー

 家を買って引っ越してから、夜更かしになった。自分の家で過ごすのが心地いい。


ほどほどにお酒を呑んで、そろそろ寝ようとしたところに、チャイムが鳴る。こんな時間に来客などあるはずがない。でもチャイムは鳴る。鳴り続けている。恐る恐るインターホンのカメラを見るとそこに映っていたのはボロボロの山下だった。一人でどうやって来たのか、ひどく酔っているのが画面でも分かる。それは初めて会った日のことを思い出させた。慌てて服を着替えて出迎えると、焦点の合わない瞳が笑っている。


「女性一人暮らしの家に、こんな時間から連絡なしで来るなんて、非常識だろ。」

どうしたの?大丈夫?と無条件で尋ねる女らしさは私にはない。


「女と思ってないから。」わりと失礼なことを言ってゲラゲラ笑っている。もちろんそれはそうなんだろうけど、ちょっと様子がおかしい。暑いのか、無意識にシャツの袖をまくると、腕に小さなバラが描かれていた。


「何それ?タトゥー入れた?」

少し私はがっかりしていた。世の中にお洒落でそういうことをする人がいるのは理解しているし、タトゥーが入ったから人格が変わるわけでもない。でも、今まで自分の周囲にはそんな人いなかった。山下は生活している世界が違うわりに、貧乏会社員の私と話していてもあまり格差を感じなかった。だからこそ、そういうことをしない人だと勝手に思い込んでしまっていたのかもしれない。


「あぁ、これ。なんとなくね。」

なんとなくで、肌に一生とれない絵を描くものだろうか。


グループが解散しても、事務所を移籍しても、山下は変わらず自分のペースで働いていた。望んでいた舞台の仕事もあるし、望んでいないであろう、クイズ番組にも出演している。相当前に「バカがばれるから、クイズ番組だけは断っている」と言っていたのを思い出す。今頃になって世間に露呈してしまった知識の浅さは、視聴者と共演者を大いに楽しませた。それをきっかけにバラエティーやトーク番組への出演も増え、たった一人で漕ぎ出した舟は不安そうではあるけれど、しっかり前を向いて進んでいた。


 とりあえず落ち着かせようと、玄関に招き入れドアを閉めた瞬間、後ろから抱きしめてきた。想定外。「ちょっと。」という言葉を飲み込んだのも、抱きしめて来た腕を振りほどかなかったのも、さっきまでヘラヘラしていた山下が、声も出さずに泣いているのが分かったから。


 事務所の名前があり、グループの名前があって、「西園寺」は光っていた。両方を失って、一人で仕事をする厳しさに直面している。そして、行き場を見失った仲間の逮捕。心が悲鳴を上げていた。私はゆっくり体の向きを変えて山下を正面から抱きしめ、背中をさすった。結構な身長差がある。頭の上からしゃくりあげるような、それでもとても小さい泣き声が聞こえる。私は何も聞かないし、山下も何も言わない。友人というよりお母さんみたいな気持ちになった。


「遅い時間に、悪かった。」

そう言って家に上がらず帰っていくまでの30分、私と山下は黙って玄関で抱き合っていた。夜更かしをしすぎたし、気分も晴れない。明日は会社を休もう。

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