呼び出しを待つ

青い

呼び出しを待つ

 待合室には平日だというのに若い男女が幾人も座している。私は窓口に保険証と診察券を出す。愛想の悪い看護婦が普段の愛想の悪さに輪をかけた仏頂面で受け取った。患者数の多さにうんざりしているのだろう、と想像して待合室に入る。若い女が2人、若い男が1人。既に座っている患者の真横に座る気にはなれないので、手頃な距離を保てる席を探す。細長いベンチの右端に女の2人組、左端に男が座っていた。私は彼らから適度な距離を保ちながらベンチの真ん中に座った。私たち患者は白い壁を眺めながら呼び出しを待つこととなる。


 右端の女たち2人は、こんなところでもかしましく、身のない話を繰り広げていた。私は少し閉口したが、他に逃れるところもないので大人しく座り続ける。

「……———そういうことなんで私ってマジで無理なんですよね、あの虫。」

 特に良く喋る女の方の声が私の意識を掻き分けて耳に入ってきた。ラジオやテレビように、私のアンテナがチャンネルに合ってしまったらしい。どうやらこちらの女が患者のようで、もう1人の女は数ある福祉制度の1つに基づいた付き添いのようだ。

「聞いた話ですけどすごい昔は人類を脅かすくらいの生物だったから危険だって人類は認識してて、もう小さくなって虫みたいになっちゃったけどその記憶だけ残ってて生理的に無理みたいですよ、だからほらアレ。私家中にしかけてるんです。私普段ポイ捨てとか絶対にしないんですけど家のゴミ箱に居ると思うと耐えられないから、泡のスプレーみたいので固めてそのまま外に捨てちゃいます、自然のものは自然に帰って、的な。」

 口に出すのも憚られる、というように、患者の女は正式名を言わず、早口で捲し立てた。私は彼女の言う虫をおそらく正しく推測している。私もあの虫は駄目だ。駄目だから私も正式名を書かない。得意な人間の方が少ないだろうと思うのだが、こないだ美容院で、観賞用の品種が居ると聞いて震え上がった。

 しかし、気持ちはわかるのだが処分後そのまま外に捨てるのはどうかと思う。斯く言う私はかつて、ホース状にした掃除機で対象を吸い込み掃除機のゴミパック袋を泣き叫びながらレジ袋に突っ込んで持ち手で口を結んでそのままマンションのゴミ捨て場に放り込んだことがある。同居は勿論、逃すことも殺すこともできなかったのだ。そして泣き叫ぶほど狂乱している一方で、手頃な遠さのどこかに捨てるとかコンビニのゴミ箱に押し込むとかをせず、律儀に曜日指定のない自宅マンションのゴミ捨て場を選択するあたりに自らの性格を感じる。

「私も虫は苦手ですねえ。蜘蛛とかは、ティッシュで、わ〜って窓から放っちゃう。」

 付き添いの女がおっとりと話を合わせた。私は蜘蛛は平気だ。さすがに直で触ることはないが、チラシ等に乗せて外に逃してやる。平気な虫は大抵逃してやるし目溢しする。付き添いの女もきっとそうなのだろう。

 大学生の時、往来を横断する蟷螂を助けようと四苦八苦したことがある。これは偶々友人に見つかって「お優しいことで」とにやにや笑われた。またある時は、霧雨に濡れてしまい飛べなくなったアゲハ蝶がアスファルトで狼狽えているのを、チラシに乗せて近くの公園まで運ぼうとしたが、チラシがつるつるして蝶には不快だったらしく、結局手の甲まで上がられて、大きくて精巧な指輪をした女のようになりながら歩いたこともある。この時はすれ違った車に乗る2人組に驚愕の顔をされた。なるべく私は生かして逃すのである。

 「まあそうですよね蜘蛛とかは汁とか出なさそう。甲虫とかどうですか?息子さん捕まえてきません?アレは甲羅があるしやりにくそうですよね。」

 患者の女はこれまでと同じトーンで付き添いの女に相槌をうった。一瞬私は違和感を逃しそうになったのだがしっかりと捕まえ直した。付き添いの女もきっとそうなのだろう。一瞬の間があった。

 「……そう、ですね。甲虫は……大丈夫、かな?」

 付き添いの女はゆっくりと選びながら言葉を吐いて、患者の女はそうですか、と気のない返事をした。患者の女は宙を見ていた。


 「……A山さん。どうぞ。」

 A山というのが患者の女の苗字だったらしく、彼女はぱっと立ち上がって診察室に入って行った。

 心療内科の壁は白い。私たち患者は壁を眺めながら呼び出しを待つ。左端の若い男が次で、私はその次。私は目を閉じる。私もいつか彼女になるのだろう。




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