第16話 オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ

 12月になった。原田さんのおかげもあって、数学の点数が伸び、志望校の合否判定がDからC、大学によってはCからBへとランクアップした。志望校も絞り込んだ。

 ある夜、部屋で勉強していたら親父が上がってきた。おれの机の上に封筒をポンと投げた。

 地元の大学の願書だった。理学部生物学科。ため息が出た。

「わかったよ。受けるよ。ただ、4年も勉強するんやったら、せめて、興味のある学部を受けさせてほしい」

「学部は、どこにするんだ」

「環境学部で、自然環境を守る勉強がしたい」

「合格できるんか?」

「やってみんとわからん」

 親父は部屋を出ていき、階段を下りている。普段、気にしない足音が、今日は、やけに寂しげに聴こえる。

 獣医の夢はあきらめた。学力が足りないのだから仕方ない。

 1期校は生態学を学べる生物学科のある大学を選んだ。

 時間はあっという間に過ぎていく。これからの1時間はこれまでの3時間に値するような気がする。

 16日金曜日、朝から調子が悪い。4時間目を迎えるころ、咳はひどくなるし、悪寒を感じて保健室へ行った。

 福ちゃんは相変わらず元気だった。

「熱は38度1分、咳もある。病院に行った方がいいわね。でも、今からじゃ午前中の診察に間に合わないわね。ベッドでしばらく休みなさい」

 忠告を素直に受け入れることにした。森下にどうやって連絡をつけよう。待ちぼうけを食らわすと、その後の反撃が怖い。

 ベッドに横になると睡魔が襲ってきた。最近、少し無理したのが効いたのか、いつの間にかおれは爆睡していた。

 夢の中でおれは図書館で森下を待っていた。すごく眠い。誰かの咳払いが聞こえ、おれは目が醒めた。枕元に森下がいた。椅子に座って、おれを心配げに見ている。

「おまえ、どうしてここにおるんや」

「居ちゃ悪いの?」

「そうじゃなくて、どうしてここにいるのがわかった?」

「教えてくれる人がいたの」

「誰かとは聞かんことにする。2時間ほど寝たら、楽になった。もう大丈夫や」

 おれは上体を起こした。

「必ず、医者に行くのよ」

「ああ行くよ。必ず」

 カーテンが開かれた。白衣を着た福ちゃんがやってきた。

「もう一度熱を測ろうか」

 昼休みが終わり、清掃開始の音楽が鳴っている。

「それじゃ、私は帰ります。先生ありがとう」

「どういたしまして」

 体温は37度3分だった。

「一人で帰れる?」

「ええ、大丈夫です。先生、森下のこと知ってたんですか?」

「図書館司書の松本さんとは仲良しなの。毎日昼休みに並んでおしゃべりしてたら、そりゃ目立つでしょ。それからね、森下さんは2年生の春先、よくここへ来てたの。だから、そ、お友達なの。彼女の口からあなたのことも聞いたわよ。運動会の少し後かしら。あなた、がんばったわね。渡辺先生のこと持ち出したのは拙かったけどね」

「反省しています。でも、おれなりに必死だったんです」

「そんなこと言ってもしょうがないわ。はやく病院に行きなさい」

 教室の荷物は竹下と中島が保健室に届けてくれていた。今日はおとなしく病院に行って休もう。


 病院でもらった薬を飲み、早めに休んだら、夜には大分回復していた。夕方、森下から電話があった。

「大丈夫、生きてる?」

「生きてるよ、熱も下がったし、ぴんぴんしてるよ」

「そう、安心したわ。来週の金曜日、24日だけど、その晩、空いてる?」

「終業式の日だろ。空いてるけど、どうしたの」

「確かに終業式だけど。世間ではね、クリスマス・イヴって云うのよ」

 沈黙が数秒おれを押さえつけていた。

「もし、よかったら会わないか?」

「残念ね」

「そうか、仕方ないな」

「そうじゃなくて、もう少し待ったら、私から誘ったのに」

 何で敗北感を感じるんだろう。結局、すったもんだの末、彼女の家で夜7時に会うことになった。

 受話器を置くと、体中に力が湧いてくるのを感じる。つまるところ、おれは単純なんだろう。


 月曜日、学校へ行くと、図書館に貼り紙がしてあった。来年1月から改修工事が始まり、工事終了は4月だそうだ。原田先生の話を思い出した。図書館が新しくなったそのころ、おれと森下はもうここにはいない。

 図書館に入って、奥にある職員室みたいな部屋を覗いてみる。でも、誰が松本さんかわからなかった。

 森下が来ても、もうあまり話し込むことはなかった。黙って、並んで勉強していた。ときどき、お互いの解いている問題について、教えあうくらいだった。


 終業式の日、担任の瀧さんはこう言った。

「お前たちの正月は受験が終わった時だ。」


 午後も図書館に残って、森下と並んで勉強していた。午後4時半の閉館ぎりぎりまでいたおれたちは保健室に寄り、福ちゃんに挨拶をして、校門で別れた。

 家ではお袋が用意してくれた早めの夕食を平らげると、やることがない。無いわけではないが、集中できない。

 30分ほど早いが、家を出て、森下の家を目指した。6時になるともう真っ暗だ。ライトをつけ、重いペダルを漕いだ。吐く息は白く流れ、首筋を冷気が襲い、身震いする。マフラーを巻いてこなかったことが悔やまれる。

 当然、予定の7時より30分も早く、森下の家に着いてしまった。おれは近くの公衆電話から森下の家に電話した。

「もう近くまで来ちゃった。行ってもいいか?」

「よかったわ、早く来て」

 意味が分からないが、とにかく行くことにした。

 玄関のチャイムを鳴らすと、エプロン姿の森下が出てきた。なぜか普段より女っぽく見える。

「早く上がって」

 調理中らしい。台所に行くと、から揚げの準備が出来上がっていた。

「これ着て」

 エプロンを着せられ、衣をつけた鳥もも肉を油に投入する係を仰せつかった。妄想の範疇を超えた展開に戸惑いはしたが、それはそれで楽しかった。

「油が跳ねるから、気を付けて」

「森下、油の温度が低すぎるんやけど、、。衣を入れても、浮き上がって来ん」

「じゃあ、温度上げたらいいじゃん」

「温度の選択ができるやないか。ここ見てみ」

 真新しいガステーブルの取っ手を開くと、天ぷらをする際の温度の選択ボタンがあった。180℃に設定すると火力が強まった。しばらくすると音がして、弱火になった。油温が180度になったのだろう。

 衣をまとった鳥ももを天ぷら油の中に手づかみで入れる。そっと、表面近くで手から離す。しばらくすると、沈んだもも肉が浮かび上がってくる。いい感じじゃないか。

「凄いじゃない。やったことあるんだ」

 森下!どうして客を招くときに、初めての料理に挑戦するんだよ。

 から揚げは家で何度か挑戦したことがあった。問題は油の始末である。森下はやったことあるんだろうか?

「じゃあ、から揚げは任せたね。私は、ポテトサラダ作っとくから」

 世の中の恋人はみんな、クリスマス・イヴにこんなことをやっているんだろうか。


 から揚げが出来上がり、舌がやけどしない程度にさめたころ、森下のポテトサラダが出来上がった。

 あとは皿にそれぞれの料理を盛ると、それなりの見栄えで、なかなか旨そうだった。

「いただきます」

 森下がから揚げに箸を伸ばす。

「うん、おいしいじゃん。普通においしい」

 どうやら、食える代物らしい。おれも食べてみたが、香辛料が効いていてとてもおいしかった。少なくとも、おれが今まで作ったから揚げより、はるかに旨かった。

 ポテトサラダも食べてみる。旨い。少し、酸味が効いているのがいい。

「おいしいね。二人で食べると」

 そうか、こいつは普段、一人で飯を食っているんだ。なんだか、胸を締め付けられたような気になる。そりゃ、一人より、二人の方がいいよな。相手がおれみたいな男でも、、、。

「お母さんは、やっぱり神奈川?」

「うん、お婆ちゃんの看病でね」

 おれは、箸をおいて、右手で森下の左手を握りしめた。この娘は少し体を震わせて、涙を堪えていた。

 あっという間に二人とも、から揚げとポテトサラダでご飯を平らげた。食べ終えると、食器を洗った。お袋が寝込んでいるとき、家でやっていることだが、森下と一緒にいると後片付けも楽しく、新鮮だ。油はまだ熱かったので、冷めてから油入れに入れることにした。


 森下が入れてくれたコーヒーを飲みながら、ビードルズのLPを聴いた。ソファに並んで座って。どちらからともなく手を握って。目を閉じると森下のコロンが香ってきた。視覚をシャットアウトすると、他の感覚が鋭敏になるらしい。香りに色があると感じたのは、この時が最初だった。温かい、桜の花びらのような色だ。

「ねえ、生物環境学科を受験するんでしょ」

「ああ、そのつもりだよ」

「環境の勉強して、どんな仕事に就くの」

 狼狽えたりせず、堂々とした態度で答えたかった。でも、それは今のおれにとっては、不可能なことだった。

「正直言って、分からないんだ。今のおれに云えるのは、大学へ行くなら好きな生物の勉強をしたいと思った。それだけなんだ。将来どんな職業に就くかなんて、さっぱり思いつかない」

「ごめん、立ち入ったことを聞いていいかな。山村聡志君、君は何故、大学へ行くの?」

 おれは正直に自分の思いを話すかどうか迷った。軽薄な男に見られたくなかったから。

 沈黙が二人を押さえつけていたが、彼女は沈黙を振りほどいた。

「嫌だったら答えなくていいわ」

「嫌なわけじゃない。うまく言えないけど、一生をかけてやってみたいと思えることが見つからないんだ。今までのことを思い返してみると、何か突き詰めて、必死に取り組んだってことがないんだ。最初は夢中になるんだけど、しばらくたつと、飽きるっていうか、努力を続ける自信が消えてく行くんだ。卓球もそうだった。あれほど好きだったのに、いつの間にか『わくわく』が消えちゃった。お前は、何か見つけたの?」

「自信をもって『これ』っては言えないけど、ただ、私ね、人に何かを伝える職業に就きたいの」

「具体的に云うと?」

「アナウンサーなのか、記者なのか、それはわからない。でも、マスコミの世界で働いてみたいの。中学校の時に見学した放送局の世界は凄く刺激的で、ワクワクしたわ。たくさんの人にいろんな役割があって、みんなすごく生き生きとして、輝いて見えたわ。あなたにはそんな思い出はないの?」

「小学生のころだけど、船乗りになりたいって思ったことはある。おれ、小さいころおふくろが体を壊して、金沢の婆ちゃんのところに預けられてたことがある。だから、小学校4年生のころかな、冬休みに婆ちゃんのところへ一人で顔を見せに行かされたことがある」

「一人で大丈夫なの?」

「ああ、その頃はしっかりしてたんだ、おれ」

 彼女が軽く笑うのを確認したおれは先を続けた。

「国鉄の特急で高松まで行って、宇高連絡船で宇野まで渡るんだ。一人ぼっちで、さすがに心細くてな。でも、名物のうどんを食って体を温めて、鏡のように穏やかな海を眺めてたら、なんかすごく元気が出た。でかいフェリーの船体が逞しく水面を裂くように進むし、低く唸るエンジン音が頼りがいがあるって感じで。なんか、そう、『わくわく』した。それからかな、船乗りになりたいと思ったのは。もっと大きな船で知らない外国を巡るのって、楽しいんじゃないかって。笑っちゃうよな。子どもっぽくて」

「そんなことないわ。素敵じゃない」

「でも、本当に船乗りになるのかって尋ねられると、それほどの覚悟は無いんだ。本当におれにできるのか?後悔しないのか?それがわからないんだ」

「月並みだけど、そんなこと、誰にもわからないんじゃない」

「だろうな、きっとそうだろ。それはわかってるけど、洗濯した後、後悔しないだけの自信がない」

「そうね。私にもそんな自信はないわ。でもね、わたしね、きっと、大丈夫だと思う」

「前向きだな」

「前にも話したけど、中学3年の時に見ず知らずのこの土地に転校してきて、友達もできないし、本当に嫌だった。早く神奈川に帰りたかった。でもね、香南に来て、友達もできたし、あなたにも会えたし、よかったって思ってる。もちろんいいことだけじゃないけど、とにかく毎日が楽しいわ。最近思うんだけど、それって、楽しもうとする気持ちができたから、楽しいと思えるんじゃないかなって、、、」

「お前って大人やな。すごいわ。おれも明日はきっと楽しいことが待ってると思えるかな?」

「それは、君次第だよ、山村君!」

「偉そうに!」

 ガラステーブルに置いたコースターをいじっていた森下は急に、おれに向き直った。瞳が澄み渡り、とても美しかったことを今でも覚えている。

「ねえ、泊まっていかない」

 息が止まりそうで声が出なかった。返事の代わりに彼女を思いきり抱きしめた。

「家の人には何て云って、出てきたの?」

「これから電話する」

 おれが家にかけるとおふくろが出てきた。森下との会話で気が大きくなったおれは、ありのままを正直に伝えた。答えは、

「迷惑をかけるんじゃないのよ。男なんだから」

「大丈夫や、そんなこと心配せんでええ」

 お袋の最後の一言がおれの頭の中でリフレインしている。

 おれが受話器をを置くと、彼女はおれの胸に頬をうずめてきた。

「私ね、受験が終わったら、神奈川の家に引っ越すわ」

 おれは、もう一度彼女を抱きしめた。


 翌朝、目が醒めると、コーヒーの香りと、トーストの匂いがした。二人で並んで、朝のニュースを見ながら朝食をすますと、彼女のおやじさんのパジャマを脱ぎ、自分の服に着替えた。

 外に出ると、吐く息が白い。彼女はいつ用意したのか、おれの首にマフラーを巻いてくれた。幸せだった。

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