第13話 自分という存在に自信がもてないおれは

 あとは何事もなかったかのように、普段と変わらない日常が流れていくだけだった。

 森下の顔が見たくなった。あいつのクラスに行って探していると、体育祭で知り合った娘が話しかけてきた。

「琴美今日いないよ。家庭の事情らしいわ」

「いや、別に、、、」

 狼狽えるおれの顔を見て、笑っている。自分の教室に戻ってもしばらく、落ち着かなかった。『家庭の事情』って、何だろう。


 木曜日、教室に入って自分の席に着くと、机の中に手紙が入っていた。開けると書道のお手本のような字が並んでいた。

「心配してくれてたみたいで、ありがとう。話したいことがあるから、昼休み、図書館で会いましょう。琴美」

 おかげで午前中の授業に集中できなかった。弁当もそこそこに、図書館に行くと、森下は奥のテーブルで本を読んでいた。

「月と六ペンス」の対訳本。サマセット・モーム、受験英語の王道じゃないか。

「お帰り、何してた?」

「家庭のトラブルに付き合ってた」

 おれは予想外の反応に息が止まった。

「家庭の、、、」

「そう、両親が離婚するの」

 もう、言葉が出ない。

「お母さんと暮らすことになったの。神奈川でね。大学も東京か神奈川で探すわ」

 呆気に取られているおれの顔をしばらく下から覗き込むと、

「私がいない間、何かあった?」

 おれは気を取り直し、この一週間のことを思い返した。

「別に何もないよ。あ、森岡たちが停学になった。明日から来るんじゃないか。それがな、、、」

 天赦園での事件、森岡たちの打ち上げがなぜバレたか、おれが濡れ衣を着せられたことなどを森下に詳しく話した。

 図書館だったから、彼女は苦しそうに身をよじって、笑っていた。

「聞いたわ。酔っぱらって、自転車で事故起こしたんでしょ。バカね。あなたも、吸えないのにタバコなんか付き合ったりするから、そういうことになるのよ」

 だからといって、濡れ衣を着せるのはよくないだろう。あとは覚えていない。昼休み中、二人並んで話していた。

 彼女が帰ってきて、モノクロームだった世界が急に、彩を取り戻した感じがする。

 これから、用事のない限り、昼休みに図書館で会うことを約束した。させられた。


 そんな平和な日が2週間くらい過ぎたころだった。放課後、久しぶりに中島の下宿で竹下、中島の3人で密会をもった。門田と別れた竹下が呟いた一言で、騒動が始まった。

「山村、おまえ、森下とうまくいっとるんか?」

「どうなんやろな。毎日昼休みに図書館で会うとるだけじゃ」

「おまえさ、気にならんのか?」

「何が?」

「森下のことだよ。知らないわけないだろ」

「竹下、やめろ!」

 珍しく中島がすごんでいる。一体どうしたんだよ。空気が悪くなるだろ。

「竹下、何だよ。言えよ」

「1年生の時のことさ」

「知らねえよ。一体何なんだよ」

「音楽の渡辺って先生がいたろ。その先生と森下が、、、」

「竹下、やめろって言ってるだろ」

 中島は突然、左側の壁に右の拳を叩きつけた。切れかかった竹下は顔を真っ赤にして部屋を飛び出した。部屋にはおれと中島。嫌な空気が流れている。でも、知らなくてはいけないような気がした。

「中島、教えてくれよ」

「ほかの奴から聴けよ」

「嫌だ。おれはそのことがすごく気になって、他のことが手につかなくなる。今、もうそうなってる」

「やめとけ。くだらん話や」

「くだらんも何も、聴かんと、わからんやろ」

 中島が立ち上がって、窓を閉めた。

「おれも詳しく知ってるわけじゃない。だから、これから話すことは噂だ。ただの噂」

「わかったよ。それで、その噂ってなんだよ」

「1年生の時、音楽教師の渡辺と彼女が付き合ってたって噂だ。その年の移動で渡辺は転勤したから、余計噂に尾ひれがついたってわけだ。」

「その尾ひれって何だ?」

「やめとけ、山村。聴いていて気分のいいもんじゃない。やめとけ」

 それ以降、中島はそのことについて口を閉ざした。

 自分の家に帰って、部屋でボーっとしていると、どうしても森下の顔が浮かぶ。隣に背の高い男の後姿が見える。拙いな。確かめたい。でも、確かめてどうするんだよ。


 次の日も図書館で森下に会った。あいつはいつも通り、機関銃のようにしゃべり続けた。黙って聴いていればよかった。そしたら、あいつを傷つけずに済んだのに。

「どうしたの、今日はしゃべんないのね」

 森下は少し下からおれの顔を覗き込む。おれの心の中を透視されているみたいで、落ち着かなくなる。

「渡辺って先生、覚えてるか。音楽の」

「ええ、覚えてるわよ」

 森下は体を起こし、まっすぐおれの瞳を見つめている。きっと彼女の瞳には怯えたおれが映っているだろう。

「何が聴きたいの?」

「いや、何か聴きたいわけじゃない。覚えてるかなって、、、」

 彼女は身を乗り出し、少し顎を突き出すようにおれに迫った。

「はっきり聴いたらいいのに。付き合ってたのかって。臆病者!」

 彼女の体全体を覆う怒りに、おれは目を背けた。椅子を引く音がして、彼女は目の前から消えた。おれは追いかけなかった。


 それからというもの、校内で会っても彼女はおれと目を合わさない。

 竹下ともぎくしゃくした関係になってしまった。会って、挨拶くらいはするが、二人の間に冷たい水の流れる川ができた感じだ。一月前に戻れるものなら戻りたかった。だが、そんなことは叶う訳もなく、慌ただしい時の流れに流されて、11月がやってきた。


 


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