第10話 素敵なタイミング

 家に帰って、冷えた体を風呂で温め、机に向かったが、何一つ手につかなかった。数学よりは英語の方がましか。だが、集中力は10分と持たなかった。英文の行間に彼女の寂しそうな横顔が浮かぶ。あいつにしては元気がなかった。もう少し、傍にいてやればよかったかな。今さら、どうしようもない。

 読みかけたヘミングウェイの『武器よさらば』を開く。字面を目で追うが、何も心に響かない。ビートルズの青版を録音したテープを引っ張り出してきた。音楽を聴きながら、夏休みの課題の世界史の問題を解く。

 やっと集中できた。問題を解き終わった頃に、テープがA面からB面にリバースした。『レット・イット・ビー』がかかると、思わず聞きこんでしまう。あっという間に、3分52秒が過ぎてしまう。ピアノをこんな風に弾いてみたい。

 時間の感覚がおかしくなっている。今、何時なんだろう。窓を開けると、満月が南中を過ぎ、西に傾いている。時計を見る気がしなくなった。夜中の1時を過ぎているんだろう。


 聞きなれない声がおれを呼んでいる。

「聡志さん、聡志さん」

 叔母の声だ。時計を見ると9時前。寝過ごした。寝ぼけ眼で顔を洗い、叔母さんの作ってくれた朝飯を食う。卵焼きが旨い。

 予定調和の時間が過ぎ、午後2時になった。竹下から電話があった。

「中島んちに行かんか?中島も今日は一人で、退屈しとるらしい」

「わかった。先に行っといて。おれも、30分くらいしたら行くけん」


 中島の下宿に着いて、入口の戸を開けるとタバコ臭い。中島と竹下はタバコを吸うが、おれは吸わない。中学2年の時、親父のハイライトに火をつけて、吸い込んだら死にかけた。あれ以来、タバコは吸っていない。

「遅いぞ。今、お前の彼女の話をしとったところよ」

「森下のことか、、、。彼女っていうのとは、少し違うんやけどな」

「お前、昨日、山本文具の前でいちゃついとったそうやないか」

 こいつ、誰から聞いたんやろ。まあ、校門のすぐそばやけん、誰かは、見とるわな。

「あいつは何考えとるか、よう分からん」

「お前に女心が分かる日は永遠に来ん」

「確かにそうかもしれんけど、、、。」

 中島にうまいこと誘導されて、おれは昨日の出来事をあらかた話してしまった。

「お前、森下と二人っきりで2時間近く、同じ部屋におって、何もなかったんか?」

「何もないわ」

「もはや、ビョーキやな」

「竹下、お前は、門田とうまいこといっとんか?」

「分からん、向こうから近づいては来ん」

「おまえ、哀しい生き方やな」

「ほっとけ。けど、もう気持ちの通うことはないって、おれも諦めとる」

「そうなんか、女の子とうまく付き合っとるのは中島だけか」

「お前のどこがええんか、、、」

「実はおれも、昨日けんかしてな」

「なんで?」

「つまらんことよ。門田に日本史の本を借りた。どうやらなくしたらしい。1学期の終わりにな。あいつは、もう要らんから、返すんは何時でもいいよって。そこにあるやろ」

「それを見て、腹立てたんか?」

「そんなことで、、、」

「まあ、それだけやないけど。何か行き詰った気がする」

「それって、『倦怠期』って奴やないんか?」

「竹下、おまえ、そりゃ夫婦の間のことやろ」

「いいや、夫婦だけやないぞ、長い間付き合っとるとそうなるらしい」

「竹下、それは誰の意見なんか?」

「姉ちゃん」

「姉ちゃんって、年いくつな?」

「24歳。もちろん独身」

「あのな、真剣に聞いたおれがバカやった」

 ひとしきり、三人で笑った。心の底から笑ったのは久しぶりだった。


 9月になり、学校も始まり、時の流れが猛烈な勢いでおれたちを流していく。ふと気づくと、あと一週間で体育祭。義経と弁慶はそれらしいカッコになった。

 ただ、発案者の森岡は最後の仕上げに悪戦苦闘していた。応援のクライマックスで、義経が刀を持った右腕を振り下ろす。からくりをつくり、実際に動かしてみると、段ボールで作った張りぼてだから、だらんと腕が下りてくる感じになる。右手の中に鉛の重りを入れてみた。今度は勢いがつきすぎて、刀もろとも右手がすっぽ抜けてしまった。おもりの重さを調整したら、それなりの動きになったが、どこかぎこちない。人間が実際に木刀を振り下ろす動きは、振り下ろしたところでピタッと止まるので、おさまりがよく、かっこいい。ところがおれたちが作ったからくりでは棒を持った右腕を止めている綱を切り落とし、右腕が下へ落ちる。ひじの部分が伸び切ったところで反動によって右腕は上下に小刻みに動いてしまうのだ。自然な動きを再現するためには、肘の部分に右腕が伸び切ったときの反動を吸収する工夫がいるのだが、高校生の発想では解決できそうにもなく、森岡は行き詰まり、だんだん怒りっぽくなり、イライラして周りに当たり散らすようになった。

「なあ、森岡。応援が終わったときに、義経と弁慶がきちんと残っとったら、それでええんじゃないか。もう、それで勘弁してくれ。みんな疲れとるんよ。お前はイライラして、怒鳴りだすし、、、」

 天赦園で森岡は設計図を握りしめて、足元の土を蹴りながらつぶやいた。

「わかったよ。あと2日だけくれ。試してみたいことがあるんや」

 今日は土曜日。なぜか、今日授業は休みだった。毎年、この季節、休みだったらしいが、去年、一昨年の記憶がない。運動会の準備とは無縁だったからだろう。

 他のグループの立て看板もだいたい仕上がった感じ。平日はそんなに時間は取れないので、この土日で仕上げることになる。家が近い女の子たちが、握り飯を作ってきてくれて、みんなに配っている。誰が握ったのかは知らないが、形もきれいな三角形に仕上がっている。おれがもらった握り飯は中身が梅だった。汗をかくせいか、梅干しの塩気がものすごくうまく感じる。

 森下が近づいてくる。

「山村、卵焼き作ったけど食べる?」

 口の中に握り飯が残っとって返事ができん。首を縦に振ったら、手づかみで口の中に一切れ、放り込まれた。少ししょっぱかったが、ふっくらしていて旨かった。あいつの指の感触が口の周りに残っている。


 日が落ちて暗くなったが、なぜかテニスコートに灯りがついていて、その周りで作業を続けた。

 義経は手の指まできれいに色を塗られて、それっぽく見える。森岡も、完成に向けて細かい仕上げをしていた。

 離れたところから仕上がりを確かめている最中、突然明かりが消えた。もう帰れということだろう。腕時計を見ると、9時になっていた。

 暗い中、仕上げた作品を西校舎の倉庫にしまい、道具をあらかた片づけた。

 誰もいなくなったテニスコートの隅にあるベンチに座って、月のない夜空を見ていた。森下と並んで。わし座が南の空高くに羽ばたき、アルタイルの輝きは月が出ていないせいで一層増している。

 森下はコロンをつけているのか、いい匂いがする。雪叔母もこんな匂いがした。

「おにぎりが二つ、卵焼きが三つ残っています。要る人」

 めんどくさい。タッパーの中のおにぎりを取ろうとすると、器を持ち上げて抵抗する。

「わかりました。下さい」

 森下の握り飯は、中身がシーチキンやった。何で、シーチキン?文句を言うと、また何か言われそうだったので、黙って食べた。食べ終ると、二人の間に重い沈黙が漂っている。想いがおれを衝き動かした。

「一度、きちんと尋ねようって、思うとったんやけど、、、」

「何?」

「お前、誰かつきおうとる相手がおるんか?」

「おるよ、相手はいつもおるよ」

 そうなんか、そしたら、なんでおれと並んで握り飯食べとるんやろ。

「山村聡志が好きやけど、、、」

「からかうんもええ加減にせえよ」

「いいえ、まじめよ」

 そっと振り向くと、おれを見て、ない。

「おーい。そこにおったんか。みんな天赦苑に集まっとるぞ」

 なんで、このタイミングなんだよ。わからんのか。

「わかった、すぐ行く」 

 何時かおれにも「素敵なタイミング」が訪れるんかな。

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