第7話 原田さん登場

 学校は夏休みに入って一週間が過ぎた。あれから、竹下と会っていない。『義経プロジェクト』はどうなったんだろう。

 気になったおれは、昼飯を食った後、竹下の家に電話した。

「ああ、試しにやってみたら、うまくいかなくてな」

「そんなに難しいんか?」

「ああ、滑らかに動かすには、滑車でロープを引っ張らないかんらしい」

「そうなん。決まったら手伝うけん、教えてくれ」

「ああ、連絡が入ったらな」

 『門田とはどうなってる?』と聞きたかったが、うるさがられるのも嫌でヤメた。


 受験勉強が進んでいるのか、自分では測りかねた。とにかく、数学はこのままではまずい。この間の三者面談での瀧さんの話。

「来年からは共通一次試験が導入されます。理系も受験科目が増えるから、浪人はお勧めできません。現役で合格できるよう頑張りましょう」

 受験制度がどうなろうが、浪人は拙いだろう。予備校の費用だっているし。第一、浪人して、学力の上がる奴とそうでない奴もいるんじゃないか。自分は浪人したからといって、学力が上がるとは思えなかった。一日のうち、そう何時間も勉強はできん。

 何としてでも、地元の国立大学へおれを入学させたい親父は、友達の息子である原田泰正氏を家庭教師として雇いこんだ。

 久しぶりに出会った親父と腹ださんは飯を食いながら、お互いの家族の愚痴を漏らしていたらしい。受験生である息子の数学が致命的であることを話したら、酒に寄って太っ腹になった原田さんが、次男が数学が得意で、現役の大学院生で、暇を持て余しいるので、都合を聞いてやると言い出した。

 数日後に電話があり、泰正さんがOKだという。

泰正さんは小さなころからの知り合いで、何度か会ってことがあり、もし教えてもらえるならありがたいと思った。

そして、今日、原田さんはやってきた。

「こんにちは、ひさしぶりだな。話はうちのおやじから聞いた。君の数学の面倒を見に来た。しばらく頑張ってみるか」

 過去のテスト用紙などに目を通した彼は、すばり言い放った。

「かなりこじらせてるね」

 あんたは医者か?話を進めていく中で、彼が香南の先輩だということが分かり、滅茶苦茶盛り上がった。瀧さんのことも知っているし、例の体育倉庫のことも知っている。おれが、4月の『放送室』事件のあらましを話すと、原田さんは腹を抱えて笑った。

 約束の時間はあと20分しか残っていなかった。原田先生は問題を解け、というわけでもなく、授業の様子を聴いたりしてくる。

 最初の日はそれで終わった。

「これから、火曜と金曜の7時に来るから。まあ、頑張ろう」

 高圧的な感じが全くなく、飄々とした受け答え。当時のおれにとってはそれが救いだった。誰か、大人の相談相手が必要だったんだ。

 原田さんは微分、積分の基礎的な問題を繰り返し、おれにやらせた。問題に慣れるために。正解率が20%を切るような難問は諦めろと。要するに、数学でアドバンテージを稼げるわけではないのなら、解ける問題を確実に解く。傷口を広げないという考え方だった。

 なるほど、、、。これから5カ月、数学音痴が頑張ったところで、先行集団に追いつけるわけがない。

 おれは初めて、数学の問題をやっつけてやる、そんな気分で向かい合えるようになってきた。

 お袋はまだ、寝たり、起きたりの生活が続いている。今は、無理をしてほしくない。もう少ししたら、日差しが柔らかくなる。金沢育ちの母は、この土地の湿度の高い、ムッとする暑さに体力を奪われる。涼しくなったらお袋の体の調子もよくなるはずだ。

 かくして、おれの夏休み前半は、家の食事作り、火曜日と金曜日の原田さんの訪問以外に、これと云って特筆すべきこともなく、流れていった。


 原田さんとの精神的距離はどんどん、縮まってきた。問題の解き方を解説しているとき、ここぞというときに出る「だからして」という口調も真似したりした。

「話は変わるけどさ、図書館ってぼろぼろのまま?」

「ええ、昭和の建物とは思えません」

「栗山先生によるとさ、ここ何年かのうちには立て直すらしいんだよ」

「へー、そうなんですか」

「地震とか来たらさ、危ないらしいんだよ」

 地震の翌日、無残に崩壊している図書館が容易に想像できる。

「でもさ、あの面影は残してほしいよな。お気に入りの本を持ち出して、天赦円の半円形の石造りの腰掛で読むんだよ。風も通るし、最高だろ」

「そうですよね」

 嘘をついた。そんな高尚な真似はしたことがない。

 おれは、ついに『村ばあ』の退職事件について、熱く、詳しく語ってしまった。黙って聞いていた原田さんは、開口一番、

「ひでぇな。無茶苦茶じゃないか。君のやり方は、どうかと思うけど、そんなことがあるのか?」

「そうなんですよ。訴えたら、辞令取り消せるんじゃないんですか?」

「うーん。辞令の妥当性か、、。あらかじめお母さんが介護が必要な状況だということを伝えていたのなら、、、」

「無理ですか?」

「いや、勝てる可能性は高いと思うよ。でも、本人も渋々だろうけど、受け入れて、別の生活を始めたんだろ?」

「はい、でも、、、」

「それくらいにしとけよ。かえって、『村ばあ』を困らせることになるんじゃないか」

 返す言葉がない。大人やな。

「原田さんは法学部卒業して、何するんですか」

「弁護士を目指そうかと、最近思うようになったよ」

「弁護士ですか?」

「ああ、厳しい試験を突破しないといけないけどね。去年の合格率は2%くらいらしい」

 難しい試験であるのはわかるが、どれ程のものなのか、おれが重積分の問題を解くようなものなのだろうか。そもそも、原田さんが現役の数学科の学生っていう触れ込みは親父の勘違いか?

 肝心の数学の実力は少しづつ、ほんとに少しづつ成果が表れてきた。200点満点の40点とか取っていた時代とは違う。と、思う。

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