第100話 賽銭

人間関係や営業ノルマの重圧で病んでしまい、会社を辞めたHさん(33・男性)


結婚して8年目の妻と4歳の息子がいるが、体調を崩し病院通いする自分に転職を勧めたのは妻だった


「私も出来ること、頑張るから」


そう言って妻は午前中、パートに行くようになった


Hさんはそんな妻の後押しもあり、ついに辞職届を出したのだ


最後に2週間ほどの有給休暇をもらったが、都合よく新しい仕事が見つかるわけもなく


某販売会社の面接を受けてようやく採用となったのは、辞めてから2か月後のことだった


新しい職場でのメイン業務は、主に倉庫整理とルート配達だ


「10パターンほど配送ルートがあるから。とりあえずここから回って覚えてもらおうか」


教育係の上司から、100名ほどの顧客名と住所・家の目印や細道の有無などが詳細に書かれた冊子を渡された


A3用紙を縦にして、横に三分割したくらいの紙が20枚ほど綴られている


歴代の新人は皆、始めはそれを見ながら覚えるそうで、冊子は年季が入ってボロボロだ


入社して1週間が経った


午前中は倉庫の商品管理、午後は社有車の軽自動車に乗り、ひたすらルートの記憶だ


そのついでにお客様への言伝なんかも行う


"本当に、ここに転職できて良かった・・・"


転職を応援してくれた妻のためにも、頑張らねばならない


5日掛けて覚えたルート1をとりあえず終え、次は120件ほどの顧客情報が書かれた、ルート2の冊子を渡された


これを一日、4時間掛けて回りながら覚えるのだ


初めてルート2を回る途中、道路脇に神社を見つけた


Hさんは無意識にその神社の駐車場に乗り入れると、車から降りて境内に向かう


何の神様かは分からないが、自分の第二のスタートが上手くいきますようにと願をかけ、100円玉を賽銭箱に投げ入れた


それから一時間後


とある古いマンションに乗り入れると、数名おられるお客様の玄関まで、冊子を確認しながら商品カタログをポスティングしていた


会社を出発した時は寒かったのだが、そのマンションで階段を上り下がりしたため次第に汗ばんできた


ポスティングを終えたHさんはマンションの敷地を出ると自販機で缶コーヒーを買い


マンション横にある公園に入ってベンチに座り、脱いだ会社支給のブルゾンと冊子を置く


缶コーヒーを飲み干したあと、再びブルゾンを着込みながら


車にガソリンがあまり残っていなかったことを思い出した


なので続きを回る前に、ガソリンスタンドを見つけて給油することにした


幹線道路まで戻って走らせていれば、すぐ見つかるだろう


マンションから幾つか角を曲がり、幹線道路に出て5分ほど走らせると左手にGSがあったので乗り入れる


満タンになり、GSを出たHさんは、とりあえず道路脇に車を停めた


さて、次の訪問先はどこだったかな・・・助手席を向くと


ない。


助手席に置いてあるはずのルート冊子が無い。


えっ?

どこにいった?!


慌てたHさんはシートの下や後部座席を必死に探すが、ない


待って待って?!

どうして??


少し落ちついて自分の行動を振り返ってみる


ガソリンが少なかったからGSに寄った・・・


減ったから入れようと思ったのはさっきの公園だ・・・


公園横のマンションにはお客様が数名おられたから、階を確認するために、助手席に置いていた冊子を持ち出した・・・


そのあと缶コーヒー買って、公園に寄って、ベンチに座ってブルゾン脱い・・・ああっ?!


ベンチに置いたままかも?!


頭が真っ白になったHさんは直ぐに公園に戻らねばと思ったが


そもそも初めてのルートだ、あのマンションは何処にあったのか・・・マンション名すら思い出せない


それに、適当に曲がって曲がって幹線道路に出て、信号をいくつ越えたのかさえも曖昧な記憶しかない・・・


大変だ!

どうしよう?!


とりあえず車をスタートさせ、信号でUターンする


いくつ通りを越えたんだろう?!

どこで曲がったんだろう?!


【入社10日も満たない試用期間中の社員が100名以上の顧客の個人情報を紛失】


血の気が引いたままHさんは、宛てもなく道を彷徨った


焦りから信号をフライング気味に進むHさんの車にクラクションが2度ほど鳴らされたが


それどころではない


東西南北、当たりを付けた道路を縦横無尽に乗り回したが、あの公園にたどり着かない


ガソリンスタンドを出発してからかれこれ30分が経った


もう、会社に正直に報告しようか・・・


大問題になるな・・・いや、まだ諦めない


ふと、行きしなに寄った神社を思い出した


よし、あそこまで戻り、もう一度冷静に道順を思い出してみよう


それから更に10分後、あの神社にたどり着いた


一度境内に行き、財布から千円札を取り出すと賽銭箱に押し込む


「今日、初めてお賽銭を入れた"にわかもの"が大変厚かましいお願いをしますが、どうかあの公園まで、導いていただけませんでしょうか!!」


深く深く、何度も頭を下げた


よし、行こう。


再び車を出発させた。


ここを右だったかな・・・次を直進して・・・左に入ったのかな・・・


この細道で学校帰りの子供とすれ違ったような・・・


ということは右手に小学校があって・・・あ、あったあった!


ここらをぐるぐる回った後、最後はあの道に入ったんじゃなかったか・・・


で、あの先に・・・ああっ!!


道の左手に公園が見えた


行きは確か、神社から1時間ほど掛けてたどり着いたあのマンションも見える


今回は神社から、わずか10分弱でたどり着いた


いや、問題はここからだ


路肩に車を停めるとダッシュで公園に入る


先ほど座っていたベンチに振り向くと、そこに老人が座っている


慌てて駆け寄るHさんに気付いた老人が振り向き


「ああ、これでしょう。はい」


そういってルート冊子を渡された


「あっ!ああっ!!ありがとうございます!!ここにありましたか?!」


「誰かに持っていかれないようにね。持ってましたよ」


「えっ?そうなのですか?!本当に有難うございます・・・助かりました!!もう本当に、どうなることかと・・・」


受け取った冊子を大事そうに抱えながらHさんは、最後は独り言のように呟く


「あなた千百円も入れてくれたのだから、見つけてあげないとねぇ」


「・・・えっ?」


顔を上げるともう、老人は居なかった

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