ハイ・ファイ・パイ!

柊木まこと

二つの力を交えし時

 これが、最後の任務。土煙で傷んだ髪を慈しむ素振りを見せると、男は古木の杖からビビットピンクの光線を放つ。瞬きをする間に消えたそれは、獣の肉体を痺れさせていた。

紫吹しぶき!」

 のんびりとした性格を弾いた声で合図されれば、反射的に身体が動く。

「これで、終わりだ」

 何日も祈りを込めた札に息を吹き込む。この獣を倒せば、全てが叶う。出仕しゅっし階級からの脱却も、独身生活からの脱出も、平和な土地の復活も。

 ようやく、手に入れることが出来る。

 思い描く未来に頬が緩む。それがこいつとの共闘の終わりであることに僅かに悲しみを感じるが、もうこの攻撃を止めることなどできない。

 真っ赤な札を獣の額に貼り付けた瞬間、俺達の闘志が表れたような炎が俺の視界を埋め尽くす――。




 北西、北東、南東、南西にそれぞれ角が突き出る四角星の島、アンコニュ。角四つと中央の五つに国が分かれるこの島では、中央の国であるエレメンの大自然に潜む獣の討伐が主な生業とされている。

 獣といっても、それは熊や猪の類ではない。氷菓子のように温度によって形を変えるゼリー状のもの、人に似て人でない怪物、火を吐く空飛ぶトカゲに、巨大な身体であらゆる生物を食らう恐竜など、彼らは実に様々な生態をもっている。

 俺の住む南西の国フォティアでは、それをモンスターと呼んでいる。生態も構造も不明な部分が多く、食用にすることも出来ない。人間に対して常に敵対的であり、攻撃の種類も体当たりから魔法に至るまで多岐に渡る。

 俺は、その中でも悪質なものを退治する機関、神宮しんぐうに出仕として仕えている。神宮は、フォティア内の行政を担う国のトップ的機関だ。

「この程度の戦績では、権禰宜ごんねぎへの昇級は認められないな」

 いつもと変わらぬしかめっ面を更にしかめて、主事は俺に書類を突き返す。末端の施設とはいえ、この試験会場は神の社の中に位置するのだ。この振る舞いはいかがなものだろうか。

「……では、あとどの程度の戦績を収めればよろしいのでしょうか」

「知らぬ。己で確認すればよいだろう」

 心の暴れ龍を窘めて尋ねてもこれだ。一丁前に烏帽子を被った主事は俺の問いを一蹴して、後ろに並んでいた控えめな体型の女性に愛想のよい笑顔を向ける。思わず漏れ出たため息に引かれるように、俺はその場を後にした。こうして昇級を拒否されるのはもう何度目だろう。

 明らかに条件を満たしているというのに、上は己の保身ためから俺のような下位の人間の昇級を認めない。そのうえ、むさ苦しさを嫌うためか、男性の承認率が女性よりも明らかに低くなっていた。モンスターの凶暴さは、年々増していくばかり。それなのに、フォティアは色ボケジジイ共が若い女を招いてハーレムを作ることに夢中でろくな対策を講じない。これでは、出世どころの話ではない。折角イメージチェンジで陰キャラから脱出をしたというのに、なぜこうも上手くいかないのか。

「紫吹さん!」

秋月しゅうげつか。変わりないか」

 一見未成年に見えるきつね色の髪をした男が、小走りでやってくる。秋月は、俺が神宮に仕え始めて、つまりイメージチェンジをしてから仲良くなった年下の研修生だ。

「はい。紫吹さんは? 昇級は認められましたか?」

 純粋な瞳に心を痛めながら首を横に振る。小動物のような愛らしさを感じる太ったどんぐりの様な瞳が伏せられた瞬間、幼い顔が愁いを帯びる。

「……本当、理不尽ですね。紫吹さんがモンスターと戦うところを見てみればいいのに」

「きっと上にもそれほど余裕がないんだよ。ありがとう秋月」

「いえ。それでは紫吹さん、失礼します」

 少々落ち着きのない礼をして駆けていく背中に手を振る。さて、これからどう過ごそうか。

 昇級が見込めない環境に肩を落としつつ、腹ごしらえの為にいつもの定食屋に足を運ぶ。この店の季節の焼き魚と大根おろしの定食を食べれば、後ろ向きな気分もがらりと変わるのだ。

 空席に座り、定食に加え景気づけに氷菓子を注文して、窓の外や掲示板を眺める。耳に入る食事の音が、空いた腹を唸らせた。唸り声の持ち主が俺でないように装い、再び掲示板に目を向ける。すると、獣討伐の協力を求める広告が目についた。客席は八割ほど埋まり、調理場もせわしない。思い切って席から発ち、俺は掲示板に食いついた。

「『求む! 獣討伐のパートナー! 他国の勇士達と手を取り、大きな手柄を挙げよう!』……ね。マッチング会場はエレメン北西。ヴァッサー付近か……」

 ヴァッサーは、島の四つ角のうち北西に位置する国だ。獣討伐には主に銃や剣を用いている。その戦闘方法が影響してか他国に比べて体躯がたくましい者が多く、四つ角の国の中では最もソロ討伐を行っている。加えて、俺好みの女性も多い。

 そんなヴァッサー付近でマッチング会が行われるのだ。恐らく、国の奴らは仲介料で稼ぐつもりなのだろう。そう思うと参加意欲が削がれるが、これはチャンスだ。全国の討伐者を求めているということは、北東のパラムや、未知の国である南東のゼミラからも参加者が望めるということ。猛者とタッグを組めば、主事も認めざるを得ない成果を上げるのも難しくない。

「ねえ、あの人かっこいいね」

「紫の瞳が綺麗……」

「神宮に仕えてる人なのかな」

 背後の女性の声に唇がひくついてしまう。イメチェンをしてからというもの、こういった声を何回も貰っていた。だが、これに反応すればただのダサい男だ。振り向いて「ありがとう」と伝えたくなるのを必死にこらえて、マッチング会の開催日に目を縛り付ける。……すぐに休暇をもらってこよう。




 定食屋で広告を見つけてから八日。船に乗ってヴァッサーに到着した俺は、街中を観光しつつエレメンの会場に意気揚々と向かった。

 だが、結果は惨敗。細めの体格と、誇れるほどでもない身分が俺を弱気にさせ、かつ周囲も猛者が猛者を求めてハイペースで動いていくのだから当然と言えば当然だ。もっと筋肉をつけていれば善戦出来たのかもしれない。

「また出世が遠のいた……」

 このまましばらく野外でうなだれていたい。いや、ヴァッサーで好みの女性を見て元気でも出そう……。

「そこの方」

「……はい?」

 重い腰を上げて会場を後にしようとすると、凛とした声がかけられる。男性であるため目の保養にはならない。……が、流石に答えないほど無礼な人間になりたくはない。

「貴方も、討伐者マッチング会に参加された方ですか?」

 胸の上部にまで伸びる落ち着いた桃色の巻き髪。貴族のような純白のジャケットを纏いながらも、細く色素の薄い手に握られているのは、海で見かける流木の様な杖。膝が窮屈そうな白いパンツは裾に向かうごとに広がりを増していて、とても討伐者のようには見えなかった。踵の高い白いブーツも、ここに来るまでに泥まみれにしてしまっている。

「そうですけど。……貴方も、失敗したんですか?」

「ええまあ。ですが、可能性を感じました」

 深い青の瞳が爛々と輝いて俺を見つめる。……まさか。

「もしよければ、僕とタッグを組んでくれませんか」

 バラの一本でも咥えていそうな微笑みを浮かべて、男は俺に手を伸ばす。キザな奴だ。

「お誘い頂きありがとうございます。しかし、手を握るのは、お互いに討伐能力を確かめてからに致しませんか?」

 俺の提案に、男は目を丸くして手を引っ込めた。先を急いでしまう気持ちは、分からなくもない。

「そうですね。申し遅れましたが、僕はイシュマと言います。パラム出身です」

「私は紫吹と申します。フォティア出身です」

 互いに礼をして、溢れる期待に口を結ぶ。

「まずは、美味しいご飯でも食べに行きましょう。獣討伐の目的などもお伺いしたいので」

「はい。ぜひ。僕、ヴァッサーに来るのは初めてなんですけど……」

「ああ。それでしたら私のおすすめの店に向かいましょうか。ヴァッサーは海鮮と麺料理が絶品なんですよ」

 コミュニケーション面においては問題なさそうだ。エレメンからヴァッサー郊外の飲食店に向かうまで、俺とイシュマは会場に着くまでの思い出話を語り合った。




 歴史を感じる木製のテーブルの上に赤黄緑のバランスが取れたサラダとそれぞれが注文したパスタが並び、俺達はお冷を口にする。ここまで歩いて二十分。さほど暑い季節でもないが、お互い喉はカラカラだった。

「いただきます」

 フォティアでは主流の挨拶に、イシュマが目を瞬かせる。もしや、彼は今回初めて国外に出たのだろうか。討伐者にしては珍しい。新人なのかもしれない。そうすればおかしな格好にも納得がいく。

「イシュマさんは、今回初めて国外に出られたんですか?」

「観光目的以外では初めてです。どうしても、一人での獣討伐が難しくなってきたものでして」

 本人の力不足だけが理由ではない。水を一週間与え忘れた植木鉢の植物のように力のない愛想笑いに、何か深いわけがあることを悟る。生半可な気持ちで助力を求めているわけではなさそうだ。

「紫吹さんは、なぜ今回協力者をお探しになったんですか?」

 イカスミパスタを巻き取る手を止めて、イシュマはどこか幼さを感じさせる瞳をこちらに向ける。そのパスタのチョイスは一体何なのだろうか……。

「私は、仕事で昇級するための戦績を得るために今回参加しました。私欲にまみれた理由で、少しお恥ずかしいですね」

「生きていくためには必要なことですからね。……もしかして、紫吹さんは神宮に勤めていらっしゃる方ですか?」

「……はい。まだ下っ端ですが」

 期待に満ちた眼差しに肌を刺されながら答えると、イシュマは少し黒くなった口を薄く開いて上向きに弧を描いた。

「すごいですね! 僕はそんな方とお話しさせてもらっていたんだ……」

「オーバーですよ」

 笑いを含みながら返すと、イシュマはにこりと笑顔を浮かべてから料理に目を向ける。

 悪い人間ではないのだろうが、少々朗らかすぎて気持ちが落ち着かない。パラムの人間は、みなこのような性格なのだろうか。

 桃色の縦ロールをゆらゆらさせながらサラダをたいらげると、イシュマは水をこくこくと飲んでいく。少女漫画のヒロインのように長く豊かなまつ毛に、アレンジが豊かな艶のある長髪。透き通るような青い瞳に、血色のいい薄い唇。体格も細くとも細すぎず、奇抜な服装を除けば女性人気が高そうな外見に少しばかり嫉妬心を抱く。勿論、彼も努力してこの姿になったかもしれないが……。

「紫吹さんは、どの程度の獣の討伐をお考えですか? 僕は、アベリサウルスの討伐を考えているんですけど……」

 アベリサウルスの名に、俺はお冷を吹き出す。それって、神宮の討伐者階級で二番目に高い位の権宮司ごんぐうじ程度の能力を持つ人間でないと討伐が難しいモンスターの名前だよな!? 聞き間違いか?

「大丈夫ですか!?」

「……はい。すみません汚い真似をして。……それで、もう一度お伺いしたいのですが、イシュマさんは、『アベリサウルス』の討伐を目標としているということでよろしいのですか」

「はい。間違いありません」

 アベリサウルスは、肉食であることが明らかであり、凶暴性も平均以上。主な攻撃方法は、鋭い牙での噛み砕き。似たような個体と比べて身軽らしく、逃げ足も速いらしい。今のところ魔法や神術しんじゅつでの攻撃は確認されていないが、それでも多くのベテラン討伐者が手を焼いているのは事実だ。

 そんな獣を討伐目標にするくらいの人だったのか……。

「あの、イシュマさん。その目標を達成するには、私は力不足です。折角のお誘いで恐縮なのですが……」

「そんなことおっしゃらないでください! それに、僕には紫吹さんの力が必要なんです!」

 大げさだ。三人以上でパーティーを組む考えだとしても、俺が足手まといになることは目に見えている。早く断って、新しくパートナーを探しつつ、目の保養のために街中を歩こう。

「……紫吹さん。一度、僕の能力を見てください。それから今回の件を考えて頂けませんか」

 ボンゴレビアンコを巻き取ったフォークを皿に置き、立ち上がって頭を下げる真摯なイシュマを見上げる。巻き髪が空になったパスタ皿についていなければ、もっと格好つきそうなものだが。

「分かりました。では、その時に俺の討伐目標と力の程度を示します」

「はい!」

 俺の言葉を受けてすぐに、イシュマは頭を上げる。はつらつとした太陽の光を受けた水面の様な目が、俺の不安を希釈した。




 午前中まで賑わっていたマッチング会場から更に奥へ進む。エレメンは、火山を中心にして大地が広がっている。俺達は、その中で過去の噴火の影響をほとんど受けていない草原地帯に足を踏み入れた。ここから数十分南東に歩いていけば、うっそうとした森が獣達と共に人間を迎え入れるのだ。

「では、この辺りで始めましょうか」

 手に持った杖を柔らかな土に刺し、イシュマはジャケットのポケットからヘアゴムを取り出す。持ち上げられた髪から清潔感のある香りが漂い、俺の嫉妬心がまた少し燃えた。汗をかきやすい体質ゆえ、これほど髪を伸ばすとどうしても臭ってしまうのだ。

「そういえば、イシュマさんは鞄をお持ちでないですよね。もしかして、それも貴方の力が関係しているんですか?」

「はい。僕は、というか、パラムの人間は大抵魔法で荷物を携帯しています。今お見せしますね」

 いや、パラムの人間が魔法を使うことは知っている。ただ、物をワープさせるなどという技は上級者が成せることのはずで……。

 戸惑う俺をよそに、イシュマは杖を持って左手の甲を地面に向ける。空いた掌に杖の先を傾けると、彼のポニーテールが俺の顔をはたくほどの風と共に、ぼろきれを縫い合わせたようなリュックサックが現れた。杖を収める手も使ってそれを持つと、イシュマは俺に健やかな笑みを向ける。

「こんな感じです。少しお待ちくださいね……」

 力を示すのに必要な道具でもあるのだろう。イシュマは鞄と膝を地面に降ろし、俺から意識を逸らした。

 こいつ、フィクションでよく見る自分の実力の価値を知らずに生きているタイプの人間か……? 俺に勝る容姿といい、人を戦かせる能力といい、いくら嫉妬させるつもりなのだろう。

「よし。紫吹さん、少し離れて頂けますか。下級モンスターを誕生させます」

 鞄を漁って取り出したのは、深緑色の巾着袋。イシュマの手と同じサイズのそれから飴玉ほどの大きさの丸い物体を取り出すと、彼は足元にそれを置く。彼の忠告の通りに数歩後ろに下がり、唾を飲み込みながら小さな玉に視線を縫い付ける。イシュマは杖の先でそれを勢いよく突き刺し、再び強風を発生させた。

 腕で顔を防御し、風が止んでから反射で閉じた瞼を開くと、そこにはウサギとニワトリのキメラが腰を下ろしていた。あまりに早く想像を絶する展開に開いた口が塞がらない。

 こいつは、モンスターの召喚をいとも簡単にやってのけた。それもさぞ当たり前のように。そんな能力はフォティアでは見たことが無い。ヴァッサーでもだ。こんな能力を持っているのであれば、国を超えて名が通ってもおかしくない。それに、各国の獣の研究職に就いている者にとっては、喉から手が出るほど欲しくなる人材であるだろう。

 なぜ、このような人間が他の冒険者とタッグを組めないんだ。それに、俺が組んでいいわけがない。これで戦績を挙げたとしても、それは俺の成果じゃない。やはり話を断るべきなのではないか。

「紫吹さん。僕の力を見てください」

「え……」

 そうか、攻撃するんだな。ここまでくればもう好奇心が恐怖心に勝る。未知で希少な存在の攻撃を見逃さぬよう、目を凝らさねば。

 苦い顔をしたイシュマが杖から光線を発射する。すると、キメラは体を強張らせた。麻痺させたのだろう。確実に仕留める戦法を選ぶらしい。

 次に光線を発すると、キメラは辺りを見回して羽と後ろ脚をぎこちなく跳ねさせ始める。幻覚を見せているのだろうか。見た目に反してねちっこいやり方だが、俺は嫌いじゃない。

「…………」

 次の手を迷っているようだ。豊富な決め手から自身をアピールするものを漁っているのだろう。

 期待を膨らませながらイシュマの背を見つめる。しばらくすると、彼は髪を解いて振り向いた。

「……以上です」

「続きは?」

「僕は、この程度しか出来ないんです」

 晴天の元で暗中模索する背後のキメラに対して心を痛めたかのような顔。獣のコンディションを悪化させる力のみしか使えないということだろうか。疑い深い言葉だが、瞳に涙を浮かべ、唇をかみしめる姿に疑問の声が引っ込む。

「炎を吹いたり、弾丸を放ったりして獣の肉体を痛めつける攻撃が、僕には出来ないんです。神経や細胞に異常な反応を起こすことしか出来なくて、ほぼ全ての獣を確実に仕留められない。あくまで、こちらに及ぶ危険を回避する程度にしか、獣と戦えないんです」

 悔し涙が赤くなった頬を伝う。イシュマは肩を跳ねさせながらそのまま小さな滴を零し始めた。

 特異なことが出来ても、基礎が出来ないということか。それだけでここまで心を乱すことが気がかりだが……。

「イシュマさん、それって人間にも使えますか。正の効果で」

「……使えます。僕は……僕はそれがしたくて、紫吹さんに声を掛けました」

 握りこぶしを解き、イシュマは息を吐く。どうやら、取り乱して本来の目的を忘れていたらしい。

「では、力をお借りする前に俺の力をお見せします」

 頷いたイシュマは、キメラに視線を浴びせたまま後ろに下がる。攻撃が及ばない範囲に彼が下がったのを確認して、俺は装束の胸の内に手を差し込んだ。

 俺達フォティアの人間は、神の力を借りて獣を退治する。神に祈りを捧げ、授かりたい力に該当する色の札に息を吹き込むと、瞬く間に力が宿る。それを対象に貼り付ければ、札を中心に力が発揮されるという仕組みだ。神宮内での位が高くなればなるほど扱える札の枚数が増え、質も上がっていく。というのも、札は自分の所持金を納めることで授与するきまりなのだ。一部例外もあるが、その腐った仕組みのおかげで俺は昇級を望まされている。祈る力に対しての札の効力が弱いのなんの……。

 ほろりと涙をこぼしそうになりながら、緑色の効果が最も小さい札を口元に近付ける。ウサギとニワトリのキメラは、初心者でも討伐が簡単な獣だ。攻撃が弱く、防御も甘い。逃げ足が速いことと体力が多いことが特徴だ。イシュマの攻撃で目が使えなくなっていることを利用して、まずは体の自由を更に奪ってしまおう。

 札に息を吹き込み、円を描きながら走り回るキメラに駆け寄る。腰を落として長い耳の根本に札を貼り付ければ、すぐに蔦が伸び始めた。この札では獣の動きを抑えることしか出来ないが、効果の高い札であれば、蔦の棘で体力を削ることなどが可能になる。

 蔦が生い茂り、草原と手を繋いだところで、今度は黄色の札を取り出す。息を吹き込み、後方に跳びながらキメラの翼に札を投げる。すると、一瞬で晴れた上空のほんの一部に雨雲が浮かび、雷を一つ落とした。小さいながらも立派な音をたて、キメラは燃える。仕上げに浄化用の札をくべ、軽く一礼。これが、フォティアの主流な戦闘方法だ。

「こんなところです。いかがですか」

 振り返ると、イシュマは目をキラキラと輝かせていた。他国の人間の能力を見たのは初めてなのだろう。

「すごいですね! ますますお力添えしたくなりました」

「ありがとうございます。この他にも技があることもお伝えしておきますね」

 胸元から全ての色の札を取り出し、イシュマに差し出す。おずおずとそれをつまむと、彼は裏表を確認し、筆で書かれている文字に目を凝らし、匂いを嗅ぎ始めた。研究が好きなのだろう。無意識に行っているみたいだ。

 観察する俺の視線に気づき、イシュマはハッとして俺に札を返す。おかしな奴だ。

「札の色ごとに出せる技が決まるんです。昇級すれば、もっと効果の大きい札も扱えるようになるんですよ。……だから、俺はトウビシンの討伐を目標としています」

 トウビシン。獣であるハクビシンが、突然変異、もしくは外部からの影響を受けたことで透過能力を得たモンスター。基本的な生態は獣のハクビシンと変わらない。しかし、彼らはそのうえで自身の身体を透かすことが出来るため、奴らの活動時間である夜間での討伐が困難なのだ。近年は、エレメンから降りてきたトウビシンがねずみ小僧のごとく街中を駆けているとも聞く。不可視であるために、そもそも存在の確認が難しいのだ。

「トウビシンですか……。なかなか討伐が難しそうな獣ですね」

 アベリサウルスよりかは楽な討伐目標だがな。

「さて。紫吹さん、今度は実践してみませんか。僕の力を使って、もう少し手強い獣を倒してみましょう」

 アベリサウルスの討伐を目標にする理由を尋ねようとして、イシュマの提案に遮られる。

 今のは故意か……?

「はい。では林のあたりまで向かいましょうか」

「いえ。それもここで」

 俺の歩みを止めると、イシュマはまた髪を結び、巾着袋を取り出して獣を召喚する。今度は、巨大な拳での殴りが主な攻撃である猿、オオコブシが現れた。白い体毛に黒い肌。体の大きさは一般的な猿と同じだが、右の拳は直径二メートルを誇る。一撃のスピードは遅いが、油断すれば振り下ろされた拳の一撃によって命を落とすこともある獣だ。

「まずは痺れさせておきます」

 風が止んですぐにイシュマが杖を傾けると、オオコブシは巨大な拳を地面に降ろして顔をしかめた。地面の振動に足が持っていかれ、俺は尻もちをついてしまう。

「紫吹さん、まずは何をしますか」

「……燃やしてやろうと思います」

 先程のように黄色と緑の札を併用することでも出来るが、赤の札を使えばそれだけで敵を燃やすことが出来る。俺の札では、先程のキメラを包む程度の炎しか扱えないが、イシュマの力があればもしかしたら――。

「では、僕は攻撃効果を増幅させる魔法を貴方にかけます」

 二歩ほど距離を置いて並ぶ俺に向けて、イシュマが杖を傾ける。橙の星の光のようなものが俺を包み、儚く消えていく。あまり力が増したという実感はない。

「では行きます」

 イシュマが先に痺れさせてくれたことから、攻撃はオオコブシに必ず当たる。俺は、目を細めて体をよじるオオコブシの右手に赤い札を貼り付けた。地面を蹴って後方に跳んだ瞬間、炎がオオコブシを丸ごと飲み込む。真っ赤な火柱が立ち、フォティアの平均をいささか上回る俺の背丈よりも高く命を燃やしていく。

 これまで、オオコブシの討伐には五枚ほど札を使っていた。それが、イシュマの協力でたったの一枚にまで減少したのだ。

「あっ」

 黒く焦げ、生命維持能力を失ったオオコブシに駆け寄り、浄化用の札を重ねる。戦闘のスムーズさに衝撃を受けて、危うく死霊を生み出してしまうところだった……。

「お疲れ様でした。紫吹さん、いかがでしたか」

 日の沈んだ海のような目をして、イシュマは俺を見つめる。

 獣の神経や細胞に異常な反応を起こすことができ、こちらの能力の向上も可能。物資のワープも簡単で、望めば獣も召喚できる。

 何故誰も彼とタッグを組まなかったのだろう。それとも、ようやく俺の運が上がってきたということだろうか。どちらにせよ、答えは一つしかない。

「イシュマさん。俺とタッグを組んでください。お願いします」

「……! 是非お願いします!」

 深く礼をした俺と同じ位置に頭を下げ、イシュマはウェーブのかかった桃色の髪を垂らす。勢いが余ったのか、ポニーテールが俺の項をはたいた。

「いてっ」

「わ、すみません! つい気持ちが逸ってしまって……」

「ははっ。本当におもしろいな」

 姿勢を元に戻して互いに表情を窺う。なんだか、歴史に刻まれる日のような気がした。

「それじゃあ、次の飯はイシュマの奢りにしてくれ」

「……! 分かったよ。紫吹はそういうところでもしっかりしているんだね」

 春の終わりの日差しがさんさんと大地を照らす。

 新緑の絨毯を踏みしめ、俺達は新たな戦場へと進んでいった。




「疲れた。もう一歩も動けん」

 タッグを組んですぐに、俺達は草原の奥の林に向かった。下級モンスターをそれぞれの一回の攻撃で仕留め、中級モンスターの中でも危険が少ないものを選んで力量を試していると、あっという間に日が暮れだした。夜間に出現する獣は、昼間の獣よりも危険性が高い。そのため駆け足で林を抜け、人間の大多数が食事を取るような時間になってようやく、俺達は討伐者用の宿に到着した。宿はエレメン内の建物であるが、角の四ヶ国が安全を保障しているため、気を張る必要は無い。

 夕食で賑わう食堂の音を耳に入れながら取った部屋に入った途端、俺はベッドに身を投げた。宿の中で一番安い二人部屋だ。大して柔らかくもないから、身体が痛い。

「そういえば紫吹、着替えあるの?」

「あ……」

 杖の向こうの空間で荷物を取り換えながら、イシュマが首をかしげる。タッグ討伐が楽しかったために、それ以外のことをすっかり忘れてしまっていた。

「僕の服でよければ貸すよ」

「ありがとう。助かる」

 幸いなことに、俺とイシュマの体躯には大きな差がない。身長はイシュマの方が高いが、逞しさであれば俺の方が勝る。変に嫉妬の炎を燃やすことはなさそうだ。

 ああ、早く食堂に向かいたい。

 濡らしたタオルで軽く身体を拭い、腕と太ももに余裕のあるデザインをしたイシュマの普段着に着替えてベッドから立ち上がる。イシュマはまだ、奇抜な戦闘服を吊るしている最中だった。

 早くしないと食堂から人がいなくなってしまう。折角ヴァッサー付近の宿に宿泊するのだから、あれを見ておかないと損だというのに。

「イシュマ、申し訳ないが急いでくれないか」

「ああ、ごめん。流石にお腹空いたよね。僕もこんなに戦闘したのは初めてだから、もうペコペコで……」

 腹よりも空いている心を剝き出しにして、イシュマに服を被せる。汗を拭っていようがいまいが関係ない。男なら理解してくれ……!

「んもごっ」

「すまん」

 俺の下心を憎め。そして感謝してくれ。

 イシュマがヴァッサーに来たのは今日が初めてであることを忘れ、未だ良い香りがする長髪をひっつかみそうになりながら急ぎ足で食堂に向かう。幸い、食堂にはまだ人がいた。そのうえ、五割程度しかテーブルが埋まっていない。落ち着いて食事をしつつ、目の保養も出来るという最高の環境じゃないか。

「紫吹? 鼻息が荒いけど……」

「その話は食事中にしよう」

 宿の食堂は、大抵バイキング形式だ。俺達はそれぞれ食事を皿に取り、適度に他者と間隔が取れる席に腰を下ろす。それから俺は、咀嚼で誤魔化しながら周囲に目を向けた。

「食事の挨拶が出来ないくらいに空腹だった訳じゃないんだね。何を見ているの」

 海老とジャガイモのアヒージョに一口大にちぎったロールパンを浸し、イシュマは眉をひそめて俺に目を向ける。不信感を抱いているのだろう。しかし、俺よりムッツリなんだな。遊んでいそうな外見で侮れない。

「好みの女性」

「……は?」

「ヴァッサーの人間はたくましい人が多いだろ。筋肉が豊かなぶん、胸も大きい。獣の討伐を終えた後、こうして目の保養をするのが好きなんだ」

 上司の理不尽な対応も、獣の討伐での失敗も、たわわな女性の胸を見ればその大体がどうでもよくなる。勿論、女性に気付かれないように細心の注意を払っている。いつか結婚する時にも、そういった人を選ぶんだ。

 焦った甲斐があっただろうと得意げに笑みを向ければ、イシュマは俺から視線を逸らす。まさか、俺と同じ恋愛初心者なのか……!? しかも俺より初心だ。

「紫吹、タッグは解散しよう」

「はあ!?」

 反射的に出た声に、食堂中の視線が浴びせられる。そのなかには巨乳の女性のものもあっただろうが、そんなことは気にしていられなかった。それほど性的な話が苦手なのだろうか。それとも、まだ関係が浅いから受け付けなかったのか。もしくは、俺との討伐に不満を抱いていたことを言い出せなかっただけなのか。

「……性的な話が苦手だったのなら謝る。タイミングが悪かったのなら、それも申し訳なかった」

 考えてみれば、そういった話はあまり食事中にするものではない。一人で食事するのが当たり前だったために忘れてしまっていた。

「違うんだ紫吹。……僕は、貧乳派なんだよ」

「……は?」

「控え目な胸に恥じらいを抱いていたり、それを解消するために胸を大きく見せる下着を身に付けたりする女性にぐっとくるんだ。上品で、儚いフォルムに愛おしさを感じる。僕だって、そんな女性が同じ空間にいるときは紫吹みたいに視線を彷徨わせたりするんだ」

 今日聞いた中で最も流暢に気持ちを口にするイシュマ。研究家が専門用語を使って自身の研究についての説明をしているかのような姿勢に唾を飲み、俺は口を一文字にした。

 だから解散って、何だコイツ……。

「あのな、そんな馬鹿な理由で解散なんてたまったもんじゃない。悪い冗談はよしてくれ」

「……ごめん」

 巨乳の女性を目で追う気が削がれ、焼き鮭と白米を口に含む。大きな胸は好きだが、それよりも昇級が優先だ。……それでも、今後イシュマと宿泊する宿で揉めることは容易に想像がつく。

「ふふ。紫吹も僕との討伐に満足してくれたみたいで安心した」

 皿を空にすると、イシュマは口の端を拭きながら微笑んだ。純粋な感情表現につられ、俺の口角も上向く。

「ごちそうさまでした」

 明日からまた頑張ろう。




「紫吹これ!」

 トウビシンの目撃情報を得るためにフォティアに帰ってきて半日。一度だけこの国に訪れたことがあるというイシュマを何とか引き連れ、俺は神の社の右端に位置する掲示板の前にやってきた。周囲には俺のような出仕や権禰宜、禰宜ねぎがたむろしている。

 獣についての情報は、自然災害で折れてしまった神木を加工し、然るべき立場の人間が国民の依頼や目撃情報を記入した絵馬で伝えられる。絵馬といっても、情報提供に使われるそれは神に願うものよりも二回り大きい。情報提供者の名前や獣が目撃された場所など、様々な情報を記載するのだから妥当だが、そのぶんかさばるのが難点だ。今回の俺達のように目当ての獣が存在する場合、ランダムに並べられた百近くの絵馬の中からその名前を探さねばならない。

「どんな視力してるんだ」

 その筈が、掲示板の前に訪れてたった一分でイシュマがトウビシンの目撃情報を発見した。つくづくこいつには驚かされる。

「国民の依頼か。場所はフォティア北東。民家や宿の屋根裏で不審な物音が立つ問題が多発しており、夜間に調査したところ果実や肉などの食べ残しが散乱していた。その場に落ちていた毛を専門の人間に鑑定してもらったところ、トウビシンであると判明し、今回依頼した」

 幸いなことに、トウビシンの毛は抜け落ちると透過能力を失う。それでも、奴の討伐が容易ではないことに変わりはないが。

「報酬は……」

 民間からの依頼には、討伐者への報酬がセットで用意される。その報酬は、依頼主が準備するものと国が決めていた。国の存続には関係ないから、個人でやれと示しているのだろう。だが、俺は民間の依頼を完了させた場合でも、国が討伐者に金銭や位を与えるべきだと思っている。国民あっての国であろうに、神宮色ボケジジイ共は国民の問題解決には消極的なのだ。

 絵馬を裏返し、報酬と依頼人を確認する。するとそこには、依頼人の楠木という名と「娘」という報酬が記載されていた。

「……人身売買?」

 イシュマの訝しげな声をよそに、俺の心が燃え上がる。報酬が娘。人身売買が禁止されている我が国でそう記載されているという事は、依頼人の娘を嫁に迎えることが出来るということだ。

「既婚者になれる……」

「え? そういうことなの? この人の娘さんの人権ってそんなに軽いの?」

「その可能性もあるが、本人が望むことも少なくない。早く身を固めたい人もいれば、売れ残り同士で慎ましい生活を送っていこうとしている人もいる。早く行ってみよう」

 物をワープさせることが出来るイシュマに絵馬を預け、依頼人が経営している宿へと向かう。俺もイシュマも、瞬間移動は出来なかった。

「そういえば、パラムでは電気を使っているのか?」

「ああ。魔法でエネルギーを供給するサービスもあるけれど、他国と同じ様に基本的には電気で物を動かしている。魔法で物を動かそうとすると、人が継続的に魔法を使うことになるだろう? だから料金が高くてとても使う気になれないよ」

 二人並んで路面電車に乗車し、吊革に掴まる。軽く冷房が効いているようだ。

 パラムは魔法が使える国ゆえハイテクな国家だと思っていたのだが、意外とうちと差異は無いのかもしれない。

「ふふふ。討伐が楽しみだな~」

 そう呟くと、イシュマは小さく鼻歌を歌い出す。目立つからやめて欲しいというのが本音だが、フォティアに帰ってくるまでに何十体も獣を討伐し、共に力を伸ばしてきたから何も言えなかった。今の俺達なら、中級モンスターの討伐もそれほど難しくない。討伐が楽しみになるのも当然だ。こうしてイシュマを客観視している俺も、実は例外ではない。

「この前見かけたイケメンじゃない? 黒髪で紫色の目の神職さん」

「本当だ。今日はお友達も一緒なのかな? ピンク髪の人、横顔のレベル高くなかった? あたしあの人の方がタイプかも」

「イケメンの友達もイケメン……」

 以前定食屋で俺の事を褒めてくれた女の子達だろう。イシュマの評価に心の中で頷きながら、俺はそのまま聞き耳を立てる。対して、話題の中心となっているイシュマは色事にさほど興味が無いのか、見慣れない電車の外の光景に目を輝かせていた。いや、貧乳について熱く語ることが出来る男なのだ。そちらに夢中なだけかもしれない。

「でもさ、ああいうイケメンってやっぱり見るに限るよね。並んだら私の芋さが露わになっちゃいそう」

「分かる。顔の良い彼氏は欲しいけど、その容姿と自分の外見を無意識に比べちゃうよね」

 それが俺に彼女が出来ない理由か……! 

 学生時代、俺はいわゆる陰キャだった。クラスの陽キャの脱童貞の話題や華美な見た目に憧れを抱きつつ、勉学に励んだおかげで今ではこうしてある程度収入が安定している神職に就くことが出来た。しかし、それでも俺の中の劣等感は消えなかった。あの陽キャが浴びていた脚光を浴びてみたい。「モテる」という状況を体験してみたい。膨らみはち切れそうになった欲求に突き動かされた俺は、勤務開始日までに美容院で大人気男性アイドルのような髪型にし、暇な時間に筋トレする習慣を身に着け、自分に自信をつけていった。元の顔や体がそれほど悪くなかったことから、それらの努力は勤務開始日から表れた。同期となる女性に話しかけられ、明るい性格の同性にも頻繁に挨拶される午前。午後からは上司となる女性の権禰宜からの視線を浴び、時に笑顔を向けられた。仕事に慣れてからは秋月のような陽キャの見た目をした後輩に慕われ、今では陰キャの面影も無い。

 まさかそれが逆効果だったとは思わなかった。勿論気になった女性に告白したことがないというのも一因だが、それにしたって音沙汰がなさすぎた。

「……ぶき」

 今意中の女性はいない。というより、そんなことを考えている余裕が無い。どれもこれも色ボケジジイ共のせいだ。

「紫吹」

 そのくせ、「紫吹君、まだ独り身なのかい? 大変だねえ」などと声をかけてくるのだ。お前らが俺を昇級させないからそうなっているんだろうが……! 脳内に浮かぶ皮脂でテカテカになっている禿げ頭を殴る代わりに、吊革を握りしめる。

「紫吹!」

「なんだ!」

「着いたよ。ここでしょ。待ち合わせの宿がある駅は」

 扉が開くのと同時に、俺は振り返って駅の看板に目をやる。確かにここが目的地だ。イシュマに返事をして降車し、方角を確かめる。

「そんなにあの子達に外見のことを言われたのが気に食わなかった?」

「いや。違うことで腹が立っていただけだ。……イシュマはあれが聞こえていたのに顔色一つ変えてなかったな。やっぱり褒められ慣れてるのか?」

「……まあ。あまり嬉しくは無いけれど」

 過去にモテすぎて苦労でもしたのだろうか。うらやましい悩みだが、イケメンにはイケメンの問題があるのだろう。

「もしかして、その奇抜な服装もそれが関係してるのか?」

 討伐を続けるなかで、それが気になっていた。討伐用の服に比べて、イシュマの普段着のデザインはかなり大人しかったのだ。刺繍が施されたジャケットに、踵の高い靴。戦闘で邪魔になるくせに長髪で、不自然極まりなかった。反対に、貸してもらった服や彼の普段着は基本無地で、柄があってもポップなプリントが施されている程度。色合いも大人しく、違和感があったのだ。

「そうだよ。僕だって本当はこんな格好をしたくない。もっとシックな服で討伐に挑みたいんだ。……けれど、このくらいおかしな格好をしないと女性に声を掛けられてしまうから仕方なく――」

 こめかみに浮かぶ血管が千切れる前に目的地に向かって歩き出す。

 嫉妬でおかしくなりそうだ。俺と同じ独身のくせに。

「紫吹なんで怒ってるの?」

「お前の無意識なモテ男の態度が気に入らないんだよ。虚しい男の嫉妬だ。放っておいてくれ」

 くそ。ひょろいくせに俺の早足に息を切らさず付いてくる。だが迷子にさせるわけにもいかない。仕方なく速度を保ち、無言で歩き続ける。

「フォティアの女性はおしとやかな人が多いんだね」

 知るか。

「きっとさっきの女の子達が言っていた理由で紫吹に声をかけられないんだよ」

 そうかよ。

「だって紫吹が女性に不人気な訳がないから」

「うるせえ!」

 うぜえ。涙が出そうだ。

 暗闇で何者かに肩を叩かれたのと同じように頭を後ろに向ける。何固まってんだよ。お前が煽ったんだろ。お前なんかに俺の気持ちはわかんねえよ。

「……さっさと行くぞ」

 地図を睨みつけることで感情を抑えているうちに、ようやく依頼主が経営する宿に到着した。受付で依頼の件で訪問したことを伝え、大まかに現状を把握しつつ、報酬が依頼主の娘との結婚であること、そしてそれが娘からの要望であることを確認する。今は多忙で顔を合わせることが出来ないが、彼女も昔神宮に勤務していたらしい。もしかしたら顔見知りかもしれない。さっさとトウビシンの討伐を終わらせて、こんな人生に終わりを告げてやる。

「紫吹」

 トウビシンは、食事をする時に姿を現す。エネルギーが不足しているために透過能力が使えなくなっているというのが、現在のフォティアの見解だ。故に、奴らが活動する夜まで俺達は休養するべきだった。

「紫吹」

 昨夜も天井から物音がしていたという依頼主の宿に宿泊させてもらえることになり、ご厚意を受け取って高価な二人部屋に入って三十分。この上なく柔らかいベッドに身を沈め、俺はずっと目を閉じていた。香の香りもよく、十分に休息出来そうだ。……イシュマがいなければの話だが。

 それぞれ荷物を片付け、元気な日光が差し込む窓のカーテンを閉めて睡眠をとろうとしているにもかかわらず、イシュマは数分おきに俺の名を呼んでいた。それが余計に俺を苛立たせることに気付かないのだろうか。

「……おやすみ」

 ああ、流石に諦めたか。さっさと獣を退治して、昇級して、結婚して人生を変えてやろう。




 まもなく短針と長針が12を指し示す。脂の乗った肉や根菜と果実のサラダなどに舌鼓を打った俺の力はすっかりみなぎり、ストレスをそのまま攻撃に込められる気がしていた。物音を立てずに屋根裏へ続く扉を開き、目から上のみを覗かせる。今のところ、物音も餌も確認出来ない。

 足元から感じる潤んだ視線に、仕方なく素早く梯子を上る。

 深夜の街中での討伐、そしてトウビシンがすばしこいことから、俺達は普段着で依頼に挑んでいた。春の夜であるため、俺は半袖のTシャツにポケットの大きいジャージを履いている。外に出ての戦闘となれば、夜風が肌に沁みるかもしれない。

「それじゃあ、さっきの作戦でいこう」

 イシュマの声に相槌のみを返す。俺達の作戦はこうだ。イシュマの能力でトウビシンの毛の細胞を弄り、常時その姿を可視化する。そして奴の足を封じ、俺の神術で体力を削る。今回はデータが少ない獣のため、トウビシンは生け捕りにせねばならない。俺の力の見せどころというわけだ。

「いた」

 この依頼を見つけた視力が活きる。イシュマは俺から見て右斜め三十度、歩数にして七歩程度先の場所に光線を放つ。

 みるみるうちに、トウビシンのシルエットが浮かび上がる。本来灰色や黒色であるその毛の色は、イシュマの趣味なのか気遣いなのか、鮮やかな七色に染まっていた。この暗闇の中でも色が認識出来るのだ。おそらく蛍光色なのだろう。害獣であっても同情する。 

「ギシャアアアアア!」

 俺達討伐者に見つかったこと、そして己の身体が奇抜な色に染まってしまったことに対する衝撃に、トウビシンは悲鳴を上げる。二人で体を屈めたまま走り寄ると、トウビシンは手に持っていた果実を放り、俺達からさらに離れようと部屋の隅へと駆け出した。宿泊客が就寝中であることから、思い切り駆け出すことは出来ない。足音の小さいイシュマが持ち前の視力で獲物を追いかけ、俺はその背中を追う。こういうときに派手な見た目は役に立つ。

「紫吹、外に出よう。あいつ雨どいへの抜け穴を作ってるみたいだ」

「分かった」

 心もとない太さの梯子を駆け下り、宿の外へ急ぐ。イシュマが歩く音以外に屋根を鳴らすものは無い。確かにトウビシンは外へ向かっているようだ。

「いた。逃がさない」

 雨どいに飛び出て体をもごもごさせる虹色のトウビシンにイシュマが光線を放つ。赤色のそれは丸め込まれた尻尾に当たり、瞬時にトウビシンがそこに手を重ねた。

「ギャアアック!」

 火傷を負わせたのだ。それも、ただ細胞に錯覚させただけで。突然の異変に慌てる奴を横目に、イシュマにアイコンタクトを取る。大きく頷いたイシュマは、俺に水色の星屑の光を纏わせる。礼も言わず、トウビシンに目を縛り付け、レンガを埋めて作られた地面を蹴ると、あっという間に二階建ての雨どいでもたつくターゲットと同じ目線になった。突如現れた人間に、黒色のままの瞳が大きく剝かれる。

 殺さぬ程度に痛めつけ、生け捕りにする。それが今回の依頼の最高目標だ。

 ポケットから水色の札を取り出し、痛みに喘ぐトウビシンの頭に貼り付ける。視界を塞がれたトウビシンがそれを剥がそうとした瞬間、札を中心にして氷が張っていく。頭、胴体、尻尾……透き通る氷が獣を捕らえると同時に、身体が地面に近づいていった。通常では到達できない高さに跳んだことから着地で僅かによろける。雨どいからは動きが見られない。きっと成功したのだろう。しかしうかうかとはしていられない。春の夜といえど、氷は簡単に解けてしまう。内部から衝撃が加えられれば限界はさらに早く訪れる。

「はい。一度で仕留めるなんて流石だね。紫吹はすごいや」

「イシュマがあいつを目立たせて火傷させなかったらこう簡単には仕留められなかった。助かったよ」

 イシュマが杖でワープさせた獣用の籠を受け取り、再び跳ねる。緊張からかいた汗が項を冷やし、戦闘をほぼ終えた俺の熱を鎮めた。先程より強く跳ねたことで宿の屋根の高さを超え、そのまま屋根に乗る。目をむき出しにしたまま札に手を重ねるトウビシンは、剥製のように見事に固まっていた。実に生命力溢れる姿勢だ。雨どいが氷の重みで壊れる前に籠に入れると、左手にずっしりと命の重みを感じる。地上に降りると、イシュマが駆け寄ってきた。

「お疲れ様」

「イシュマもな。……昼間は悪い態度を取って申し訳なかった」

「ううん。僕もしつこかったよね。あれじゃ昼間の女の子達と一緒だったよ」

 何故だろう。どうしても話が嚙み合わない。形容しがたいもどかしさに歯がゆさを感じていると、イシュマが俺の手から籠を奪った。

「朝になるまで部屋で休む? それとも夜の街に繰り出す? 今日はお祝いしないとね」

 そうか。俺の討伐目標はたった今達成できたんだ。あとは籠の中の獣を神宮の研究所に提出するだけで、おそらく俺の昇級が認められる。そして嫁を迎えることが出来る。ただ、婚約を結んだパートナーがすぐ討伐で死ぬなんて笑えない。それらの前にアベリサウルスを討伐せねばならないな。

「紫吹はやっぱり夜の街の歩き方も知ってるのかな。僕はこれほど発達した街に住んでいなかったから、よく分からないんだ。もしよければ僕に夜遊びの仕方を――」

「ちょっと待ってくれ」

 止まらない夢と理想に何とか頭を突っ込み、イシュマを振り向かせる。なんだか俺のことを誤解していないか?

「やっぱり休む?」

「違う。そうじゃない。念のために聞きたいんだが、イシュマは俺のことをどう思っている?」

「……ごめん。僕は貧乳好きでも恋愛対象は女性のみなんだ」

「そういうことじゃない!」

 冷ややかな視線を向けるのはやめてくれ……。俺の言い方も悪かったが……。

「イシュマは、俺の生い立ちにどんなイメージを抱いているんだ?」

「僕みたいなどんくさい男ではなくて、昔から勉強が出来て、真面目に生きてきた人。そのうえ眉目秀麗だから世の中にも明るくて、どんな困難も手順を踏んで一つずつ乗り越えてきたイケメン……って感じかな」

 それがあの昼間の振る舞いに繋がっていたのか……。

 ようやく話のすれ違いの原因を発見し、肩がどっしりと重くなる。そうだ。イシュマは他人を馬鹿にするようなことはしない男だよな。

 首にぶら下げた頭を上げ、イシュマに真っすぐに向き合う。俺の反応の意味がまだ理解できないのか、青い瞳は細かく揺れていた。

「一回部屋に戻ろう。話しておきたいことがある」

 祝いの宴はその後だ。




 ふかふかのベッドに腰を下ろして五分。俺の恥ずかしい過去の話を受け止めると、イシュマは笑うことも疑問に思うこともせず目を輝かせた。恥ずかしながら想像していた反応に、顔が熱くなる。

「だからあんなに怒らせちゃったのか……」

「もう思い出すな……」

「うん。でもびっくりした。紫吹は僕が思っていたよりも努力家でたくましいんだ」

「キシャアア」

「黙ってて」

 氷が解け始め、騒ぎだしたトウビシン。それに向かって杖を傾ければ、イシュマは簡単に奴を麻痺させる。獣に対しては冷徹になるんだよなこいつ。

「それじゃあ、早くアベリサウルスを片付けなきゃいけないね。そうしたら、僕のことも結婚式に呼んでよ?」

 結婚式。

 心の中でその言葉を復唱し、イシュマの凛々しい顔に目を向ける。イシュマとタッグを組んでから、何もかもがスムーズに進んでいた。戦績を上げて昇級し、結婚して平和に暮らす。夢のような現実を、そう遠くない未来で手にすることが出来る。あまりもとんとん拍子で不安を感じるが、これが俺とイシュマの実力なのだ。

 無意識に胸を張り、イシュマと笑い合う。これほど心地のいい思いを他人と共有したのは初めてだった。

「流石に獣を連れて飲みに行くのは難しいよな」

「それじゃあ、このお祝いはアベリサウルスの討伐後にでもする?」

「そうだな。イシュマととびきり旨い酒が飲めることを楽しみにするよ」

「僕もそうする。アベリサウルス討伐までよろしくね、紫吹」

 アベリサウルス討伐まで。意識していなかったいつかの別れに頭を小突かれ、笑みが薄れるのが分かる。これほど上手く事が運べたのは、イシュマとタッグを組んでいたからだ。

 もし、アベリサウルスの討伐が終わったら。俺はまた一人で獣を討伐するのだ。命中率が大して高くない札の攻撃で、依頼された獣をただひたすら討伐するのだ。札のための節約を続けながら。

 いや、そんなことはさほど気にならない。問題は、イシュマと協力する討伐の楽しさをそれ以降味わうことが出来なくなることだった。息ぴったりとまではいかないが、彼との戦闘で雑音を感じたことがない。そのうえ、獣を召喚したり、物をワープさせたりする。俺でなくとも手放すには惜しい能力の持ち主なのだ。それに、俺が過去を打ち明けたほぼ初めての人間。それぞれの目標のためにタッグを組んだだけであることが、もどかしい。

 だが、イシュマにはイシュマの生活がある。初めて会った日に見せた悔し涙が脳裏に浮かび、息が詰まった。

「アベリサウルスの討伐についてはまた明日から考えよう。おやすみ紫吹」

 籠の中のトウビシンを失神させ、俺がアベリサウルスのことを考えていると勘違いしたイシュマはベッドに潜る。部屋が明るくても眠ることが出来るのだそうだ。

 やはり、イシュマは俺よりも遥かに高いところに存在する人間なのだ。

 照明を消した部屋の暗さを疑いながら、俺もベッドに潜る。

 睡魔を斥けるものが、トウビシン捕獲の興奮だけでないことを自覚しながら瞼を閉じる。

 その時間は、昇級を待ち望んだ期間と匹敵するほどに長かった。




 散々健康を害されてきたというのに今朝既に喚き始めていたトウビシンを研究機関に提出して、俺達は昨日と同じ様に掲示板の前にやって来た。またイシュマがすぐに依頼を見つけると思ったのだが、よく考えればここは禰宜までが担当できる依頼を吊るしている場所だ。上位の神官しんかんが担当する獣の情報、つまり目当てのアベリサウルスの討伐依頼がここにあるわけがない。

「イシュマはアベリサウルスの情報をどうやって仕入れたんだ?」

「……祖父から聞いたんだ。エレメン北東で研究材料を収集しているときに、火山近くの森でその姿を見たって。ただ、そんなに新しい情報でもないから正確な生息地は分からない」

 なるほど。正式な依頼などではなく、個人的に必要な討伐なのか。アベリサウルスは何か研究に必要な素材でも落とすのかもしれない。奴に関しての目撃情報自体はあるが、俺も生息地は知らない。何しろ上級の獣だ。トウビシン以上に研究は進んでいない。進んでいたとしても、出仕の俺にそんな情報が入ってくることが無い。

「それじゃあ、取り敢えずイシュマの祖父の情報に従ってエレメン北東に向かうか。行程はどうする?」

 アベリサウルス討伐の計画が少しずつ輪郭を表していくことに喜びを感じているのだろう。イシュマは険しい顔を止め、結んでいた唇を解いた。

「エレメンを時計回りに進もう。経験は沢山積んでおいた方がきっといい」

「そうだな。それなら札を沢山用意しないと。付いてきてくれ」

 試験会場に近い授与所に足を運び、紙幣と階級証明書が入った財布を取り出す。控えめな体型の女性が多いゆえ、イシュマは並べられている札に目もくれずあちこちに視線を巡らせていた。

「紫吹さんこんにちは!」

「おお秋月。今日はここに勤めているのか」

 穏やかな太陽の光に照らされるきつね色の髪。ありがたいことに、可愛い後輩のどんぐりのような瞳はそれ以上に輝いている。

「はい。紫吹さんは今日も獣の討伐ですか?」

「いや。しばらく遠方の獣の討伐の為にこちらに寄ることが出来なくなってしまうから、出来るだけ札を授かりたいと思って来た」

「外部の依頼を受けたんですね。かっこいい……!」

 国の外からの依頼は、昇級に全く反映されない。ただ実力を試すだけの討伐となってしまうため、基本的には名誉を求める人間だけが参戦している。

「それじゃあ、後ろの方は依頼者なんですね」

「いや。依頼者でもあるが、今回の討伐に協力してくれるパラムの討伐者だ。外見に反してかなり優れた能力を持っているんだ。頼りになる男だよ」

 未だに貧乳の女性を目で追っている阿保な男でもあるが。

「そうなんですか。……それで、今日はどの札を授かりにいらっしゃったんです?」

 仕事中の空気に切り替え、秋月は出仕が授与出来る全ての札を並べる。普段蓄えている分の札に加えて、攻撃効果の高い札を増やしておかねば。

「……強敵なんですか」

 俺が選んだ札を升に入れ、秋月は沈んだ声で訊ねる。心配してくれているのだろう。こんな後輩に好かれて光栄だ。

 幼い子供を安心させるように声色を明るくし、俺は笑顔を浮かべる。

「ああ。だが、俺には既婚者となる未来が待っている。上層部を実力で黙らせる夢もある。何しろ討伐の達成は強制じゃない。無理だと思ったらきちんと退くさ。それに、今の俺には心強いパートナーがいる。……一時的にだが」

「そんなにお強いんですね。その方は」

 イシュマが周囲に気を取られていることを目視して、声を潜める。秋月の不安げなミルクティー色の瞳が僅かに期待を携える。

「ああ。正直、俺はずっと共に討伐をしたいと思っているよ」

 気色悪い顔をしていたのだろう。秋月は俺の言葉に眉をひそめ、厚く小さい唇を歪めた。

「そんな顔をしないでくれ。これは秋月にしか教えていないんだから」

 情けない俺の要求を、秋月はすぐに受け入れる。優しい男だ。

「……これで全てですか」

「ああ」

 札をまとめた秋月は、慣れた手つきで合計金額を計算する。あっという間に示された金額に目を丸くしながら金銭を納め、かまぼこほどの厚みを生み出す量の札を胸元に収める。

「イシュマ。授与が終わった。一度俺の家で準備してから出発しよう」

「え!? もう終わったの?」

「お前が周囲に夢中になってる間にな。全く……」

 まぬけな様につい笑ってしまう。こんなツッコミが出来るのも、あと少しかもしれない。

「それじゃあ、無理せずにな。秋月」

「はい。紫吹さんも」

 さあ、俺とイシュマの最終任務の始まりだ。




 フォティアから旅立って早十日。下級から中級までの獣を倒し、今日はようやくイシュマと息を合わせながらエレメン北部まで辿り着いた。日が暮れないうちに洋館風の宿に泊まり、早めに食事を済ませて俺は残りの札を数える。

「札の出張販売は無いの?」

 入浴を済ませたイシュマが、桃色の髪をタオルで包みながら俺の手元を覗く。

「無い。他国民に神の力を使わせるわけにはいかないというのがうちの国の風習だから」

「という事は、もしかして鍛錬すればフォティアの血が流れていなくても札は使えるんだ」

「おそらくそういうことだ。……申し訳ない。しばらく戦闘は控えてくれないか。上級の獣の討伐に挑むのに札をこれ以上減らすのは厳しい」

 かまぼこほどあった厚みが、文庫本程度にまで落ちている。イシュマの力添えがあればさほど不安はないが、念には念を入れよだ。

「分かった。それじゃあ後はアベリサウルスの情報を収集しないとね」

「パラムにはそういう情報は無いのか? 一応発見場所から一番近い国だろう?」

「さあ……」

 自国のことだろう。国の機関に属していないからそれだけ情報が入らないのだろうか。

「宿泊客に訊いてみるのはどうかな」

「選択としては良いが……やるとしても、明日の朝食以降だな」

「そうだね。……ふう」

 なかなか獲物にありつけないことから、気苦労による疲労が蓄積されているのだろう。何か気を逸らす話題がないか……。

「イシュマは、この討伐を終えたら何をする?」

「え……」

 髪に視線を落としていたイシュマは、うつろな目をこちらに向ける。

「俺は、宿屋の娘と結婚して、神宮での出世に尽力していく。アベリサウルスを討伐したルーキーという看板を引っ提げてやろうかとも思っている」

「……討伐を終えたら……」

 丸く青い瞳が、虚空を見つめる。

 何だ? 目標があってアベリサウルスを討伐する訳ではないのか?

「僕は……」

 か細い声に耳を澄ませる。途端、下の階の扉が派手な音を立てた。その後に続いて、女性の悲鳴や鎧が落ちた音が部屋の空気を揺らす。何か問題が発生したのだろう。

「誰か医者を呼んで! それと広範囲のバリアを張れるパラムの人を探して!」

「……大事みたいだ」

「行こう!」

 駆けだしたイシュマの背中を追いかける。俺達も何か協力できるかもしれない。廊下を飛び出し、他に出ていた数人の討伐者と共に階段を駆け下りる。悲鳴が上がった宿一階の入り口へ駆けると、惨状が眠気を奪う。

「誰か瞬間移動が出来る者はいないか! どこかの国の医者と医療器具が欲しい!」

 宿の真っ赤な絨毯を上書きする真紅。その色の発生源は、ピカピカに輝く鎧を着た猛々しい大男だった。左肩と脇腹に深い傷を負い、宿に常駐している医者が応急処置を施しても全く血が止まっていない。その男とパーティーを組んでいるらしい三人の男女も、まともに立つことが出来ないほどの傷を負っている。

 鼻を刺す生臭い匂いに、思わず身を引いてしまう。けれど、協力せねば命は救えない。

「俺は瞬間移動が使える。すぐにパラムの医者を呼んでくる」

「私と彼はバリアを張れるわ。一体何から宿を守ればいいの?」

 状況を把握するのに精一杯な俺を押しのけ、パラムの人間が進んで助力を宣言する。俺も身を隠す力を扱える。傷病人と医者程度の人数であればかくまうことが出来るが……。

「恐竜よ。肉食の恐竜。私達はこの宿の南にある深い森で不意打ちをくらった」

 上級に分類される獣の種類を聞いて、その場にいた全員が息を飲む。この宿から南の深い森までは百キロメートルも距離がない。恐竜がこの討伐者達を追ってきていたら、すぐに避難せねば命の保障はない。

「不意打ちって……あんた達ベテランの討伐者だろ!? 身体の大きな恐竜の気配になんで気付かなかったんだ!」

「姿を消していたのよ! 私達が逃げる途中で、木に頭をぶつけてようやく姿を現した。それまで木の葉が掠れる音さえしなかったわ」

 長くこの宿を利用していたらしい男性客と、恐竜に襲われて腕を折ったらしい赤髪の女性討伐者がそのまま言い合いを始める。どちらも予測できなかった事態に混乱しているようだ。

 自分の姿だけでなく、自分が立てる物音も消すことが出来る恐竜。そんなもの聞いたことが無い。未知の恐竜だとすれば、そいつとの戦闘は、一定の能力を持った討伐者でも丸腰で対応しているようなものだ。

「幸い、俺達はここと森の中間辺りでそいつを撒くことが出来た。それでも血の匂いを嗅ぎつけた他の肉食の獣に襲われてこの様だ」

 大男と同じ鎧を着た青髪の男が何とか頭を持ち上げて苦笑する。恐竜に襲われたのちに、この大男をかばいながら危険性の高い夜行性の獣の攻撃に耐えてきたのだ。ベテランであるのは確かだろう。

「じゃあ、まだ確実に襲われる訳じゃないんだな」

 先程まで赤髪の女性討伐者と言い争っていた男性がほっと息をつく。

「それでも油断は出来ない。避難してきた私達が言うのもおかしいけれど、ここはもう安全とは言い切れない」

 再び同じ人物に希望を揺さぶられても、男性はもう食いつかない。

 そうだ。ここはもともと角の四ヶ国が安全を保障していた宿だ。襲ってくる獣がいたとしても、そいつらは基本下級のモンスターだけだった。だが未知の上級モンスターが近くに現れた今はもう、その保障の効力はゼロに等しい。

「私達は、応急処置を受けたらすぐこれを各国に報告しに向かうわ。それまで皆さんは動かず自衛に徹底して」

 ずっと沈黙していた尻まで黒髪を伸ばした女性が至極真っ当な指示を飛ばす。彼ら四人は、宿主に従って関係者以外立ち入り禁止になっている部屋の奥へと消えた。

 まるで誰もかもが寝静まってしまったかのようなロビー。その静寂を破ったのは、瞬間移動してパラムの医者を連れてきた討伐者だった。赤髪の討伐者と言い争っていた男性が、先程四人が入っていった部屋に医者と彼を連れてきた討伐者を招く。二人は、先程と同じ様にその奥に吸い込まれていった。

「杖を持っているってことは、あんたもパラムの人間なんだろ? ここまで来ているのなら中級者以上の力の持ち主なんだ。あんたも医者や助けを探してきてくれよ」

 豊かな筋肉を持つ小柄な男性が、俺の後ろで棒立ちになっていたイシュマに話しかける。おそらくヴァッサー出身の者だろう。パラムに関しての認識の甘さが見える。

「すみません。僕は瞬間移動が出来ないんです。物のワープなら出来るんですが……」

「なら救援物資なんかを用意してきてくれよ。国民の訴えなら聞いてくれるだろ?」

 どうやらソロ討伐者の割合に似合わず、ヴァッサーの民は団結力が高いらしい。だが助けを求めたくなる気持ちは理解できたため、少々身勝手な物言いに俺は口を挟めなかった。

「あ……」

 突然の要求に、イシュマの身体は固まっていた。古木の杖をめいっぱいの力で握りしめ、瞳を揺らしながら唇をわなわなとさせている。いささか顔色が悪い。パニックになってしまっているのかもしれない。

「おい。何か言えよ」

 荒くなった男性の声に、イシュマの肩が跳ねた。……何に怯えているんだ?

「すまない。緊急時で焦るのは理解できるが、相棒を困らせないで頂きたい」

 イシュマと男の間に割り入り、俺は男を見下す。彼も悪気があった訳ではないらしい。俺の顔を見ると、すぐに咳払いをした。

「俺も悪かった。今夜を乗り切れるよう、互いに励もう」

「ああ」

 頷き合って互いに背を向ける。俺は俺でやれることをやらなければ。

「イシュマ。俺達はバルコニーで周囲を見張るぞ。討伐可能な獣が出たら片っ端から片付けていく」

 未だ何かに怯え震えている肩を軽く叩き、俺は自室へ足を踏み出す。数拍置いて返事をしたイシュマは、普段よりも重い足音を立てて付いてきた。肩を叩いたことで更に怯えさせてしまった、なんてことはないだろうが……。

「……紫吹、札は大丈夫なの?」

「今はそんなことを気にしている場合じゃない。どうせ、明日にはこの宿周辺が侵入禁止区域になる。それだと、ここでの討伐は厳しい。一度フォティアに戻ろう」

「……分かった」

 こういう事態に慣れていないだけだろうか。それだけには思えない動揺の仕方に、胃の底から怪しい感覚が昇ってくる。まるで胃袋を直接人間の手に撫でられているようだ。

 そんな気味の悪い不調に目を瞑り、俺は装束に着替えて目を皿にする。今日この日を生きなければ、アベリサウルスの討伐など不可能。夢を叶えることも出来なくなってしまう。

「ここで死んでたまるか」

「キュウワー!!」

 バルコニーに出た途端、頭上から耳に突き刺さる声が上がる。反射で見上げた夜空で飛んでいたのは、中級モンスターの有翼人だった。彼らは外見こそ人間に近いが、俺達のように言語を扱わない。また、死んだ仲間を喰らう性質であり、その影響から全身の皮膚が苔と同じ色に変色してしまっている。一説では、元々人間だった生命体が人間を食ったことで腕を失い、有翼人へと変異したと言われている。

「ギシャシャシャシャシャシャ」

 人間と同じ形をした裸の脚をバタバタと動かし、細い唇を開いて有翼人は俺を見下す。先程の討伐者達を襲った獣なのだろうか。いやに舐められている。

 ソロ討伐であれば、有翼人の移動のタイミングを計って地面に黄色の札を貼っていた。しかし、今の俺にはイシュマがいる。

「イシュマ!」

「何?」

 ようやくここに着いたのか。まあいい。

「俺の跳躍力を高めてくれ! 有翼人が出た」

「分かった」

 水色の星屑の光が辺りに散らばる。胸元の緑の札を取り出しながら床を蹴ると、俺の身体はお気楽な有翼人を見下ろせる位置まで飛び上がる。途端、有翼人は真っ黒な瞳を丸くして羽を大きくはためかせた。

「こっちにもいるよ」

 有翼人の立てた風に揺れる植木鉢やランタンに注意を払いながら、イシュマが杖を振るう。眼中に無かった人間の存在に驚いた有翼人は、慌てて俺から顔を背けた。瞬間、苔色の身体にイシュマの光線が衝突する。悲鳴を上げる暇もなく、有翼人は落下していく。それを追って空気抵抗を最小限にし、俺は札を握って息を込めた。上空で数羽の有翼人が鳴く。群れでやってきていたのか。イシュマ一人では片付けきれないだろう。

 イシュマの力によって飛行能力を制限された有翼人を緩衝材にして降り、すぐさまその体の中心に緑の札を貼る。こうして地面に縫い付けておけば、麻痺が解けた後の時間稼ぎになる。俺は再び強く足元を蹴り、有翼人の群れの中に割り込む。今周囲にいるのは五羽。そのうち一羽は、イシュマによって片翼を麻痺させられているようだ。落下しつつ、討伐順を考える。あいつらは飛行能力を得ている代わりに攻撃力が低い。しかし甲高い声によって救援を求めることができ、一羽でも残しておくと討伐が永遠に終わらない。となるとまず確実に必要なのは、俺の攻撃範囲の拡大及び奴らの口を封じる何か……。

「紫吹!」

 俺の名を叫ぶイシュマ。何故か彼は、スリッパを履いたまま地面に縛り付けた有翼人のそばまで駆けてきていた。

「イシュマ? なんで降りて来たんだ」

「いいから。一度隠れて」

「は?」

 複数の敵の討伐中であるにも関わらずほくそ笑むイシュマ。朗らかな性格には似合わない不気味なそれに少し緊張の糸をほぐされ、俺は腕を引かれるまま宿の正面玄関内部にやってきた。

「あいつらは、死んだ仲間を喰らう。周囲が静かな環境であれば、さっきの有翼人を仕留めるだけであいつらを一点に集められる」

「……他の討伐者がいることが懸念点だが、やってみる価値はありそうだな。詳しい作戦は」

「今やるよ」

 瞬間、橙の星の光が俺を包む。攻撃効果が増幅する魔法をかけられたのだ。

「白い札は持ってる?」

「ああ。これで俺が姿を隠せばいいんだな」

「うん。あとは僕があいつを仕留めれば大丈夫」

 イシュマが弱った有翼人の命を奪う姿を想像して頬が引きつる。こいつは、これまでの討伐で時々進んで獣にとどめをさしていた。どうやらその際、初めて出会った時に使った獣を誕生させる玉を作るために必要な素材を集めているらしい。

 それだけなら聞こえはいいが、問題は肝心の仕留める方法で……。

「ならお前もこの札を着けていけ。時間がかかるだろ。付き添うから」

「ありがとう」

 遠くから見れば美少女に見えなくもない満面の笑みに寒気を覚える。白い札を胸に張り付けて俺以外から見えなくなったイシュマは、ルンルンと体を弾ませて宿の裏に回る。俺はそれを通り越して、未だケラケラと笑っている有翼人が舞う空の下で顔を上げた。

 イシュマ以外には、声も聞こえない。一応伝えておくか。

「イシュマ。俺はここでこいつらに雷を落として時間を稼ぐ。ゆっくりやって大丈夫だ」

「本当!? ありがとう紫吹。それじゃあ遠慮なく全部頂いちゃうね」

 蔦に絡めとられた有翼人を目の前にして、イシュマは目を見開く。そこから背を向けた瞬間、有翼人の口から断末魔が上がった。仲間の異常事態に気付いた上空の有翼人達が、声の方を向きかける。

「お前達もうかうかしていられないぞ」

 黄色の札に息を吹き込み、一気に五枚ほど地面に貼り付ける。ランダムに配置したそれはイシュマによって効果が広がっており、あっという間に電気の大木となった。耳を塞いでも入ってきた轟音に身体を丸めつつ、確実に安全な場所まで下がる。有翼人達は一羽たりともそこから逃れることが出来ず、雨雲が消える前に落下していった。この調子では、後ろの死体も食えないだろう。

 念のため五羽全部に緑の札を貼り付け、ほっと息をつく。すると、肉をかき回して漁る、悪夢に出てきそうな光景を思わせる音が耳に入ってきた。まだ雷鳴の方が可愛げがある。

「紫吹お疲れ様。僕の方はまだ時間がかかるから待ってて……」

「サンプルなら追加で五羽用意がある。次獣が襲って来るまでゆっくりやっても良いんじゃないか」

「助かるよ……!」

 外灯に照らされた健康的な笑みが、手元の血だまりで彩られる。

 イシュマは、獣からサンプルを得る際にその心臓を杖で一突きして仕留めているのだ。その後皮膚を鋭利なナイフで切り裂いていくのだから意味を感じられないが、心臓の機能を一息で失わせた方が血が新鮮で良いらしい。手袋を着けてひょいひょいと粘液や臓物を実験道具に仕舞い込んでいくイシュマは、さながら研究者のようだ。研究者と討伐者を兼任する人間もいるにはいるが、それで得られるデータは弱い中級モンスターまでがやっと。やはり現場は経験がものをいう……ということだろう。

「獣の臓物が宙に浮いてる……!?」

 しまった。宿泊客を驚かせてしまった。

「驚かせてすみません。今一人透明になっているんです」

 胸から白い札を剥がし、逃げ腰の男性に姿を見せる。俺が急に姿を現しても驚かないのだ。この人も討伐者なのだろう。

「え、そうなんですか……? でもなんで獣の臓物なんかを……」

 それには苦笑いを返すことしか出来ない。

「ああそうだ。連絡です。あと三十分でパラムとヴァッサーの上の人が来てくれるらしいので、それまでの辛抱ですよ」

「分かりました。ありがとうございます」

 各国の早い対応に頭が上がらない。未知の恐竜が出たことも影響したのだろう。恐らく、この宿の宿泊客や関係者はその人達が来てすぐ故郷に帰される。無論俺達も。

「イシュマ、聞いてたか」

「え? 何を?」

「あと三十分でパラムとヴァッサーの役人が来る。タイムリミットはそれまでだ」

「えっ、じゃあ血液だけ急いでもらっていかなくちゃ」

 できれば耳にしたくなかった言葉に眉をひそめつつ、俺は安堵の息をついてしまう。

 アベリサウルスの討伐が遠のいた事実に、喜びを感じてしまったんだ。




「……くれぐれもこのことはご内密に。貴方達が一定以上の力を持つ討伐者と判断した、上層部のご厚意ゆえの伝言です」

「分かりました。遠いところまでお疲れ様でした」

 俺の言葉に何の反応も示さず、パラムの役人がワープホールを作る。彼がその奥に入ったと同時に、イシュマは壁の後ろから姿を現した。

「はあ……」

 ベテラン討伐者が恐竜に襲われてから一か月。その日の夜明けにフォティアの俺の家に帰った俺達は、今日まで地道にアベリサウルスについての情報を集めていた。図書館で図鑑を漁り、神宮で依頼を探し、エレメン南西で戦闘技術を磨き上げる日々。正直突破口が見つからないそんな日常に飽きてきていたのだが、今ようやくその時が来た。

「どうして隠れてたんだ。同じ国の人だろう」

「いや。うん……そうではあるんだけどね」

 ブラックコーヒーを飲んだ時と同じ顔をして、イシュマは俺から目を逸らす。だが今はそんなことを気にしている暇はない。とうとうこの時が来たのだから。

「やっと来たな。イシュマの討伐目標を達成する時が」

「……うん!」

 イシュマが鼻から大きく息を吐くと、桃色の髪が大きく揺れる。希望に満ちた顔が、僅かに俺の胸を焦がしていることを悟らせないよう、俺も笑顔を浮かばせた。

 先程やってきた役人は、俺達が有翼人を一気に六体倒したことを知った国の上層部の人間が遣わせた男だった。彼は、俺達に宿の近くに現れた恐竜の正体を伝えてくれた。

「この前宿周辺に現れた透明な恐竜は、討伐者の傷跡から摂取した粘液により、アベリサウルスであることが発覚しました。透明になっていたとのことですが、それが突然変異なのか、討伐者達の勘違いだったのかについてはまだ判明しておりません。またこの情報は、あの日宿に宿泊していた客のうちでも、上層部が実力を認めた者にしか伝えておりません」

 つまり、討伐出来るのならして欲しい。どこかは知らないが、上の意見はそういうことだ。アベリサウルスは、あの日以降宿の辺りまで降りてきて土地を荒らしているという。きっと、洋館風の宿はもう形を残していないだろう。

「早く討伐に行こう。あの宿で働いていた人達のためにも、あいつを倒さなくちゃ」

「ああ」

 ふんすと鼻を鳴らして、イシュマは杖を手に取った。やる気がみなぎるその背中は、数か月前よりもたくましく見える。

「紫吹がすぐ結婚出来るよう、安全に片付けないと」

 まだエレメンにすら出ていないにもかかわらず、イシュマは髪を結んだ。ほころぶ笑みが、俺の幸せを心から願ってくれていることを証明する。

 婚約者には、まだ会えていなかった。全てはアベリサウルスを討伐してから。そう依頼主に伝えるだけで、俺達の関係は止まっていた。俺より三つ年上の、茶髪の女性。年の割に若くハンサムな外見をした依頼主が自慢してきたのだから、かなりの美人であることには間違いない。彼女の姿を妄想するだけで、鼻の下が伸びてしまう。

「早くお互いの幸せを掴もうな!」

「うん」

 イシュマがワープさせやすいダイニングテーブルの上に緊急用の食料や札を準備し、家を後にする。また札を授かりに向かわねばならない。

 神宮を彩る豊かな緑。俺は、夏に見る神宮が最も美しいと思う。モノトーンな建造物に鮮やかな強い日差しを浴びせる太陽と葉。清廉なコントラストが敷地全体に生命力を宿しているかのようだ。

「今日は秋月君いないのかな」

「ああ。札の授与所での勤務は、先週が最後だと言っていた」

 一か月前の帰宅後のことを思い出して頬が緩む。

「紫吹さん……? おかえりなさい!」

 俺の姿を見るなり、秋月は授与所を飛び出してきた。大して離れていなかったというのに、まるで生き別れた兄弟が出会ったかのような顔をして。

「ただいま。目当ての獣には会えずじまいだったよ」

「そうなんですか? でも無事でよかった」

 手を握られたことに疑問を抱いたものの、俺はその手を優しく握り返す。それだけ慕われているということだろう。

「しばらくはまたフォティアとエレメンで討伐を続けるよ。札の授与は頼むな。秋月」

「はい!」

 今あいつは、神宮の奥の練習場で札を扱う訓練を受けているはずだ。数年前の自分が訓練していた光景を思い浮かべ、少しばかり優越感を抱く。

「紫吹。お会計は」

「……ああ。すみません。もう一度納める金額を教えてください」

 つい自分の世界に旅立ってしまった。金銭を納め、かまぼこ並みの厚さになった札を授かる。これで今度こそ、アベリサウルスを仕留めるんだ。

「……紫吹さんですか」

 授与所の受付が俺を見上げる。恨まれるようなことはしていないはずだが、野暮ったい目にそうされると、何か思い当たることがないか探してしまう。

「ええ」

「主事が貴方を呼んでいます。先程伝えるよう頼まれました」

 主事の名前に唇が山を描く。いつもいつも俺の昇級を認めないクソじじいが一体何の用だ。この一か月も討伐ノルマはクリアしているはずなのに。

「主事って、どんな人?」

「俺の昇級を邪魔する存在だよ。そういう役職なだけで、個人の名称ではない」

「ああ。依頼の達成を報告するところにいる人か」

「そうだ。トウビシンの件は報酬の資格を得ないために報告していないが、それ以外ならイシュマと一緒に討伐して常に報告してきた。何も文句を言われる筋合いはないんだが……」

 愚痴を呟いていると、歩くのもあっという間だ。年に何百回も訪れる試験会場を前にして、俺達は足を止める。討伐の報告や昇級の申請、その他神宮や討伐に関わることについて大抵のことを受け付けている試験会場。試験会場というよりも案内所といった方が近いここは、神官の中でも自衛能力が優れているものが業務を担っている。白い札の使用効果が通常より高かったり、獣から距離を取ることが得意であったり、肉体的にタフであったりと特徴は様々だ。

 一般人も活用する案内所に並び、受付に階級証明書を見せる。

「すみません。私紫吹に伝言があると伺って参りました」

「紫吹さんですね。少々お待ちください」

 イシュマの鼻息がうるさい。受付の女性の控えめな身体に魅力を感じているのだろう。目をかっぴらいて鼻の穴を広げる馬鹿みたいな顔を想像してしまい、笑いが漏れてしまう。きっと受付の女性に変に思われたに違いない。

「確認が取れました。昇級確認受付の奥にある、ガラス戸の前の者に要件をお申し付けください」

「分かりました。ありがとうございます」

 昇級確認受付の奥のガラス戸。あそこの奥は、一定の階級が無ければ入れないと聞く。そのことに気付き、俺はようやく呼び出しの理由に納得した。

 主事が俺達と話そうとしていることは、アベリサウルスの件だ。国の上層部には、件の用件が伝わっているはず。その現場に俺達がいたことも。獣がアベリサウルスであり、危険性が高い獣であることで話が細かく伝えられたのだろう。

「階級証明書を」

「はい」

「……手前から三つ目の襖で主事が待機しております」

「ありがとうございます」

 俺に倣ってイシュマも礼をする。ガラス戸が横に開かれると、冷たい空気が流れてきた。

 無表情の監守を避けるような速足で目的の襖に向く。すると、挨拶をする前に襖がひとりでに開いた。二人で呆気にとられると、その奥から声がかかる。

「出仕ごときが調子に乗って何をしている? 何故他国から依頼を受けた」

 きっちりと刈り揃えられた灰色の角刈り。権宮司であることを証明する青の装束。笏を片手に八畳ほどの薄暗い和室で仁王立ちする男は、襖を動かしたであろう左手をゆっくりと降ろす。

「……有翼人を多く討伐したため――」

「そういう意味ではない戯け者」

 名も名乗らずにその態度か。突然飛ばされた怒号に、隣のイシュマは肩を震わせる。

「出仕が何故そのような獣を倒そうとしているのだ」

 出しゃばるなと言いたいのだろう。主事以上の立場である人間がわざわざ嘘をついて姿を現したのだ。アベリサウルスの出現情報を知ったことどころか、中級モンスターを討伐したことまでも気に食わないらしい。本当にフォティアの機関らしい。

「……では伝言というのは」

「理由を答えんのか。……まあいい。今すぐにその件から手を引け」

 意地でも俺の力を認めないつもりなのだ。何がそんなに気に食わない? それだけ女に囲まれたいのかクソじじい。国を守る機関が出世欲のある人間の成長を阻んでどうする。

「これは私が他国の人間と結んだ契約です。他者の介入は認められないと思いますが」

「文句があるのならさっさと神官をやめて、一人で勝手に討伐に励めばいい」

 やはり聞く耳を持たない。こいつらはどうしてここまで頭が悪いのだろう。

「あの……」

 食いしばった歯が軋むのと同時に、イシュマが声をあげる。

「なんだ」

「病院には行かれましたか?」

「何……?」

「お年を召しているので、認識が歪み始めている可能性があります。僕の祖母がそうでした」

 何を、言ってる……?

 頭が真っ白になった俺は、イシュマと男を交互に見る。

「貴殿、この国の人間ではないな」

「はい。パラム出身です」

 イシュマの返答を最後に、沈黙が続く。二人が遠距離で見つめ合う様子を観察しながら、俺は色を取り戻し始めた脳内で先程のやり取りを思い返した。病院に行ったかと訊ねるイシュマの姿は真剣そのものだった。ただ、それは向こうからすれば「頭がおかしい」と貶されたようなものだ。しかし流石にあの男も、他国の人間に対して攻撃することはないだろう。そう信じるしかない。

 ハラハラしながらイシュマを見守る。当の本人は、自分が嫌味を言ったことに気付かず、誠実に男の顔に視線を向けていた。

「……帰れ。話は分かっただろう」

 それだけ言って、男は背後の襖の奥に消えていく。折れそうになった膝に喝を入れ、俺は目を真正面に向けたままのイシュマの肩を叩いた。

「帰ろう。助かったよ」

「紫吹……」

 やるせなさが滲む声に呼ばれ、背中がむずがゆくなる。何かに所属するということは、同時に何かに縛られるということなんだ。

 ブーツで大きな足音を立て、イシュマは俺よりも前に出口から抜ける。受付の女性は、他の客に対応していた。ただ外に出るだけだと言うのに、出口の光がひどく眩しい。

「紫吹様。お待ちしておりました」

「え……?」

 試験会場を出てすぐのところに、イシュマが笑顔で立っている。その隣には、またもや見知らぬ男がいた。

 ミント色のリボンを巻いたシルクハットに、艶のある生地で出来たタキシード。首のジャボは鳥の羽のようにふわふわとしていて、仮面を着けた男の雰囲気をいくらか軽くする。

「フォティアでお育ちになるには勿体ないお方です」

 挨拶代わりなのだろう。俺と背丈が同じくらいのその男は、帽子を外して慇懃に礼をした。格好が格好なだけあって、これから手品ショーでも始まりそうな気分になる。

「失礼ですが貴方は……」

「申し遅れました。私はヴァッサーの高等討伐者ギルドから遣わされたジャッコと申します。この度は、紫吹様とイシュマ様をお迎えに上がりました」

 迎え? 一体なんのことだろう。

「ヴァッサーの方が一体何の用です?」

「言葉の通りでございます」

「この人が、僕と紫吹をアベリサウルスの出現地域にワープさせてくれるんだって!」

 ジャッコと名乗った男の右肩に両手を乗せ、イシュマは花を咲かせる。残念なことに、俺はその言葉を全く脳内で噛み砕けない。

「そのご様子ですと、やはりフォティアの役人はお二人に討伐を止めるよう命じたのですね。何とも愚かだ……」

 右手を顔に当て、ジャッコは分かりやすく首を左右に振る。本当に手品師の類なのではないだろうか。

「私達は、アベリサウルスを討伐する勇気及びそれに準じた力を持つお二人の意志を最大限尊重したいと考えております。それで、色よいお返事は頂けますでしょうか?」

 アベリサウルスの討伐を了承することが色よい返事。つまり、突然変異で透過能力を得たかもしれない恐竜を倒す者がさして現れていないのだろう。更にその出現から一か月も経過しているとなれば、遮蔽物の減少及びフィールドのコンディションの悪化が起きていてもおかしくない。元々上級者がなんとか討伐出来るレベルの獣だ。そんなもの、国に危機が迫るか多額の報酬が出ない限り誰も討伐したいとは思わないだろう。だが……。

「僕は行きます。一人でも行かせてください」

 あまりの衝撃に言葉が出ない。今更何を言っているんだ!? 自分一人で討伐出来ないからパートナーを探していたんだろう!?

 数拍置いて、深呼吸をする。お前一人で行かせるわけにはいかない。何より、最後の共同討伐だ。別れはしっかりと格好つけたい。

「俺も行きます。ただその前に教えて頂きたいことがあります」

「何でしょう?」

 仮面で隠れているはずのジャッコの顔がニヒルに笑む。

「貴方はなぜ、私達がアベリサウルスを討伐する意志を持っていることを知っているのですか。そもそも、エレメン北東にそいつが現れたことも、その日現場に居合わせた人間と国の上層部しか知らないはず――」

「silently」

 滑らかな言葉が呟かれた瞬間、俺の唇が硬直する。開こうにも接着剤で固められたかのように上下の唇が引っ付いて離れない。魔法の力なのか……!?

 鼻で必死に呼吸をして、ジャッコを睨みつける。それが可笑しいのか、彼はクスクスと笑ってこっちに近づいてきた。

「それは内密にするよう、パラムの役人から指示を受けたのではないのですか?」

 ねっとりとした囁きに背筋が凍る。ただ、この男が言っていることは正論だった。

 自ずと首をすくめると、ジャッコは指を弾いてみせる。

「open」

「っは……はあ……」

「紫吹」

 駆け寄ってきたイシュマの肩を支えにし、目の前の不気味な男に視線を浴びせる。質問には答えないつもりか……?

 俺の視線を受け止めることに飽き、ジャッコは斜め左を見上げる。そのまま顎を摘まむと、一つ溜め息をついた。

「私はヴァッサーの上層部にお二人を手助けするようにと指示を受けただけです。ですが……」

 ジャッコが姿勢を正した瞬間、脳内に波が生まれる。波紋の揺れが激しくなって、音に変わっていく。

「貴方が思っているほど、国は独立していないということです」

 テレパシーまで使うのか……! 意味深長な返答に頭痛を感じながら目で相槌を打ってやる。すると、ジャッコは分厚いグローブをした左手でワープホールを生み出した。

「この中に入れば、すぐ目的の場所に到着します。ご準備が出来たらどうぞ」

 国の黒い事実を匂わせる発言に息が詰まる。この回答と言い表すには曖昧過ぎる答えが、俺達の勇姿の褒美とでも言うのだろう。

「紫吹。準備はいい?」

「ああ。勝って研究機関に手土産でも持っていこう」

「僕も沢山研究材料を収集するよ」

 揃ってたくらんだ笑みを浮かべ、ワープホールに向き直る。

 これが本当に最後の戦いになる。

「今回の獣の討伐は、安全な宿の復興にも関わります。多くの方が当該地区の復興を望んでいることをお忘れなきよう」

 ジャッコの別れの挨拶を背に、俺達は踏み出す。

 ただひたすら、己を満たすために。




 皮膚に打ち付ける砂埃。影一つない黄土色の大地。あの日宿泊した木々に囲まれていた宿は、右半身を失って遠方の剥げた森の中に佇んでいた。

 未知の土地と勘違いするほどの惨状。目を開けるにも一苦労な乾いた空気に、イシュマは咳込む。さして風は吹いていない。それでも遠くの景色が水彩画のように淡く映る程砂が舞っているということは、つい先刻までここで大きな獣が暴れていたという事だ。

 フォティアの空気に恋しさを感じながら、口元にハンカチを当ててゆっくりと息をする。近くに獣の気配はない。あくまでも生きている獣の気配は、だが。

「……見つかったらひとたまりもなさそうだね」

「ああ。今から札を着けておこう」

 互いに白い札を胸に貼り付け、表情を窺う。辺りに大小様々な獣の死体が転がっているにも関わらず、俺達は好奇心の炎を目に灯していた。

「アベリサウルスの特徴を振り返っておくか」

「ああ。まず、奴は主に巨大な口と牙を用いて攻撃してくる。時々大きな頭を振って薙ぎ払ってくることもあるから、接近は慎重に行うべきだ。ただし、前足は短小とされている。じわじわと体力を削っていくには最適の場所だ。また、透明になるかもしれないこと以外に新しい情報はない。そのため、魔法や神術で攻撃してくることはおそらくないと見ていい」

 間違いない。イシュマの説明に頷き、俺が続く。

「この前被害にあった討伐者の発言から憶測を立てると、奴から逃げることは不可能ではない。ただし一定の距離や遮蔽物が不可欠になる。ここや宿周辺は、木々がなぎ倒されてしまっていることから戦闘には不向きだ。場所を移した方がいい。そして、ピンチになったら奴の頭の真正面に立つ。そうすることで奴の視界から身を隠すことが出来る」

「それで、討伐の手順は予定通りでいいかな」

「ああ。いいと思う」

 この一か月の間、俺とイシュマはアベリサウルスの討伐方法について話し合っていた。

 まず、透明化した状態で森に紛れ、アベリサウルスが油断しているところにイシュマが短小な前足に向かって光線を放つ。毒を浴びた状態にさせてそこを腐らせていく間に、跳躍能力と攻撃能力を上げた俺が主に尻尾を狙って札を貼り付ける。前後にダメージを受けたアベリサウルスはおそらく見えない敵の存在を確かめるためその場でぐるぐる回るはずだ。そのタイミングで足元へ駆け、俺は奴の足に緑の札をお見舞いする。そして、足元の変化に気付いたアベリサウルスが頭を下げた瞬間、森に隠れるイシュマが奴の頭を麻痺させる。口を動かせなくなった奴は、おそらく首を左右に振り回す。同時に俺が奴の足元に水色の札を貼ってから抜け、木の枝に乗る。そこから飛び上がって、攻撃をくらう可能性が低い安全な場所に何回も攻撃を喰らわせていく。そして、その間にイシュマに援護してもらい、地道に討伐していく……これが大まかな作戦だった。

 実際に上手くいくかは分からない。硬い皮膚が俺の攻撃を跳ね返す可能性だってある。イシュマの攻撃が全く当たらない可能性もある。何より透過を見抜かれてしまい、攻撃どころではなくなってしまう可能性も拭いきれない。

 それでも、俺達は奴と戦ってみたい。イシュマは目標を達成するために。俺は力量を試し、イシュマと最高の討伐をするために。

「ありがとう。紫吹」

「急になんだ」

「僕の討伐目標なのに、紫吹はまるで自分の討伐目標のように挑んでくれているから、嬉しかったんだ。君は僕にとって最高のパートナーだよ」

 桃色の巻き髪をポニーテールにしながら、イシュマは花手水のように清らかな笑みを浮かべる。「最高のパートナー」という褒め言葉に、戦闘前に騒ぎ出す胸が一層熱を持った。

 これからも共に戦ってほしい。そう言えないのは、俺がまだ陰キャであるからだろう。

「砂埃も落ち着いてきたし、他の獣に襲われる前に森へ向かおう。大きな足跡を辿ってさ」

「……ああ」

 ここからうっすらと見える森には、おそらく徒歩で四十分はかかる。あらかじめテーブルに用意しておいた水が空にならないことを祈って進もう。

 木が無いせいで夏の日差しが容赦なく俺達を襲う。歩いてまだ五分も経っていないというのに、俺は毛穴という毛穴から汗を流していた。装束が背中に貼り付いて気持ちが悪い。ふと隣のイシュマを見れば、白い額に汗一粒も浮かせていない様が映る。モデルのようだ。熱中症になっているのではないかと不安になってしまう。

「イシュマ……暑くないのか」

「暑いよ。髪を結んでいても蒸れてしょうがないよ」

「その割に汗は見えないけど」

「そう? ポニーテールの先を見てみて」

 イシュマの言葉に従って後方で揺れるピンクの尻尾に目をやる。イシュマの歩行のリズムに合わせて左右に揺れるそれからは、確かに雫が垂れていた。

「髪は切らないのか?」

「うん。討伐には邪魔だけど、髪は長い方が好きなんだ」

 長くて何かいいことがあるのだろうか。首を捻ると、イシュマが杖を握りながら腕を前後に大きく振る。

「ちょっとした誇りなんだ。尊敬する人と同じ髪色なんだよ」

「その人も長髪だったのか?」

「いいや」

 ますます長髪にしている意味が分からない。暑さで俺の頭が回らなくなっているだけなのだろうか。

 そうこうしているうちに、森まで歩いてあと十分程度の距離となる。今のところ、アベリサウルスの存在は確認できていない。

「イシュマ見えるか?」

「いや。ここからでは見えないね。体長が僕四人分くらいあるはずだから、いればすぐ目につくはずなんだけど」

 五十センチほどの大きさがある足跡を追って進んでいるのだから、道は間違っていない。となると、奴は森の奥、つまり島の中央へ向かっているのだろう。そこまで行かれると、討伐は格段に難しくなる。森や火山に潜む複数の上級モンスターの相手をしなければならなくなるからだ。

「倒された木の間を通るより、その近くの木に隠れながら進むべきだよね」

「ああ。獣の中には透過を見抜くものもいるからな」

 道中でイシュマにワープさせてもらったタオルは、もう拭った汗でびしょびしょだ。白の札を貼り付けているから変に装束を着崩すことも出来ない。森に入れば少しはマシになるだろうか。

「キュウワー!」

 聞き覚えのある声に身構える。これは、ベテラン討伐者達が獣に襲われた時に宿で対峙した有翼人の鳴き声だ。

「紫吹。今のは向こうから聞こえてきたよ。それと、有翼人は透過を見破れない」

 至極真っ当な指摘に俺は姿勢を元に戻す。イシュマが指さした東の空を見上げ、俺は唾を飲み込む。空に浮かぶ、豆粒程度の影。それを大きな何かが引き裂き、豆粒が散り散りになっていく。

「あれは……!」

「急ごう!」

 有翼人が恐竜に襲われている。俺とイシュマは反射的に影の方向へ走り出した。

 影の大きさからして、まだ到着までに二十分はかかる。急がねば奴を見失ってしまう。

「キュシャー!」

 駆ける俺達の上を、何十羽もの有翼人が飛んでいく。火山を超えた遠い森、フォティアやヴァッサーから来た仲間だろう。それほどに、事態は深刻なのだ。

 影と光が瞬く間に切り替わる地面に目を瞬かせながら乾いた地面を蹴る。このまま放置していたら、エレメン北東の大地がまる剝げになってしまうかもしれない。そうなると、宿屋等の経営が出来なくなるだけではなく、生態系まで崩れてしまう。

 明らかにアベリサウルスは暴走している。人間でなければ、自身が生きる環境を破壊したりなどしないはずだ。

「っは、はあっ……」

 森に入って数分経った頃、急激にイシュマの走るペースが落ちた。元々鍛えているわけではなかったのだから、バテるのも無理はない。だが、焦らぬわけにもいかなかった。

「イシュマ」

「……っ、ごめん。もう少し頑張る」

「……無理はするなよ」

 イシュマは、汗をだらだらと垂らす俺よりも顔を赤くしていた。少々痛々しい表情に胸がチクリと痛むが、ここは男の言葉を信じるべきだ。

 俺はイシュマに頷いて見せ、有翼人の叫び声が聞こえる方へ駆ける。走って一分ほど経った頃に、道端に怪我を負った有翼人の姿を見るようになった。

翼で身体を包む姿勢をとって木の幹に背を預ける有翼人。彼らは、身体のあちこちから血を流し、目に光を宿していなかった。そして、その多くが身体の半分をひしゃげられていた。恐らくアベリサウルスの頭に殴られたのだろう。そんな怪物と俺達は戦う。恐ろしい現実に、汗まみれの身体が冷めていくのを感じる。

「うわっ」

 冷静になった途端、有翼人達の血の匂いに鼻腔を突き刺される。軽く吐き気を覚えたのと同時に、足に痺れが走る。大地が揺れた。その衝撃をもろに受け止めてしまったのだ。時が止まったかのような錯覚に陥り、重心が後方へ傾く。

「紫吹!」

 大胆な足音を立てるイシュマが俺の名を呼ぶ。支えてくれるのかと思いきや、あいつも「いてっ」と声を上げて転んだ。土が湿っていたおかげで、激しい痛みを感じることはなかった。不幸中の幸いだ。

「紫吹平気!?」

「平気だ! イシュマは」

「僕も平気。アベリサウルスが歩くとこんなに地面が揺れるんだね」

 いつものマイペースさに笑いがこぼれる。あいつだって緊張していない訳では無いというのに。

「お尻がびしょ濡れだよ……。調子でないなぁ……」

「苔が生えるくらいに土が湿っていたんだ。おかげで身体を痛めずに済んだ。いいじゃないか」

「紫吹のポジティブさがうらやましい……」

 不快さに目を背けられるほどの余裕が出てきた。近くの木を支えに未だランダムな間隔で揺れ続ける地面に抗いながら、俺は森の上空に顔を向ける。

 乾いた土と同系色の肌をしたアベリサウルス。快晴に浮かぶ太陽までもを飲み込んでしまいそうな巨大な頭は、半分ほど血濡れていた。「グルル」と不穏な唸り声を上げると、小さな黒い瞳を空飛ぶ勇敢な有翼人の方へ向け、一目散に走り出す。

図鑑で見た通りのフォルムと、想像以上の大きさに顔が固まる。よろけながらなんとか俺の隣に辿り着いたイシュマも、俺と同じ様に上の戦場を見上げて声を失っていた。

 味方のピンチに駆けつけた三羽の有翼人が羽を大きく広げてアベリサウルスを威嚇する。だが、そんなものは上級モンスターには通用しない。案の定、三羽の有翼人はアベリサウルスの巨大な口の中に捕らえられてしまう。間を置かずに鋭い牙の隙間から鮮血が滴り、溢れた肉が森に落下していった。

「これがアベリサウルス……」

 上空にまだ有翼人が残っていることを確認して、俺は力なく呟いたイシュマの方に振り返る。

 イシュマは、頬を紅潮させていた。決して走った名残だけではない赤。それが恐れを抱く顔を彩り、おぞましさを抱かせる。研究意欲をはらんだ表情にしては、少々おどろおどろしい。

「紫吹。さっきの作戦で行こう。今なら有翼人達があいつの気を引いてくれている」

「あ、ああ」

 いつもの顔に戻ると、イシュマは青い瞳を珠のように輝かせた。俺も倣わなければ。

 アベリサウルスの後ろ足が見える位置まで揃って走る。上空では、アベリサウルスが新たに獲た獲物を咀嚼していた。

「いくよ」

 イシュマの魔法で、水色と橙色の星を浴びる。力の上昇を感じた俺は、そのままアベリサウルスを中心とした円を脳内で描き、その円周の上をなぞるようにして奴の尻尾の方の森へ駆けた。木の幹に隠れ、赤い札を揺らしてイシュマに合図を送る。すると、イシュマはピンク髪を揺らしてアベリサウルスの正面に位置取り、幹に身を潜めつつ杖から光線を発した。後ろに位置する俺からは、結果が見えない。だが、すぐにイシュマがガッツポーズをして俺に合図を送って来た。どうやら、食事中のアベリサウルスの注意力は落ちているらしい。

「ふう」

 大きく深呼吸をして合図に使った赤い札を握る。まずはアベリサウルスに対してどれだけ神術が効くのかを確かめなければ。丁度直線上に位置するイシュマがアベリサウルスに気付かれていないことに胸を撫で下ろしつつ、俺は湿った土を蹴る。それと同時に、前足に異変があったことにようやく気付いたアベリサウルスが尻尾を持ち上げた。咄嗟の対応で、俺は目の前に生えてきた尻尾の中間部分に札を貼り付けてしまう。すぐに身体を離したが、イシュマのおかげで効果が大きくなっている札から上がった炎が俺の前髪を焦がした。だが、これはどうやらアベリサウルスに効いているらしい。作戦で立てた予測の通り、奴はその場でぐるぐる回り始めた。

 チャンスだ。

 焦げた前髪の匂いに眉をハの字にしつつ、俺はアベリサウルスの足元に飛び込む。すぐに胸元から緑の札を取り出し、今まで追って来た判子に貼り付ければ、長さ五十センチの大きさをもろともせずに蔦が生い茂った。アベリサウルスが俺の存在に気付く前に、もう片方の後ろ足に札を貼り付ける。これで少しは身体の自由を奪えただろう。

「紫吹! 上に気を付けて!」

 足が動かせずとも、奴には巨大な頭がある。イシュマの声に身を引き締め、俺は上空の様子に目を向ける。

 体のあらゆる異変を感じ取ったアベリサウルスは、こいつが弱ったと勘違いした有翼人達に頭を蹴飛ばされているようだった。だが、硬い皮に対してのその攻撃は無に等しい。先程の俺の攻撃でだって、かすり傷しか与えられなかったのだから。

 鳥を連想させる足の元で身をすくめ、事の行く末を見守る。すると、アベリサウルスが頭を揺らしながら蔦を引きちぎり始めた。

 このままでは、俺も有翼人も終わりだ。

 作戦を変更し、胸元から水色の札を探す。

「紫吹!」

 大きく揺れる頭に向け、イシュマは光線を放ってくれているのだろう。だが、それも焼け石に水。俺が札を見つける前に足元の蔦は両方とも引きちぎられた。僅かに踵が上がった瞬間、俺はアベリサウルスの尻尾側、つまり後方に跳ねた。何とか奴の足元に見つけたばかりの札を貼ろうとしたが、あえなく地面に落ちてしまう。

 跳躍力が伸びていて助かった。あっという間にアベリサウルスの全身が見えてくる。

 ……あれ。どうやって着地すればいいんだ?

「紫吹!!」

 必死なイシュマの声が微かに聞こえる。

 身体を止める方法を考える前に、俺の意識は無へと染まっていった。




 これが、最後の任務。土煙で傷んだ髪を慈しむ素振りを見せると、イシュマは古木の杖からビビットピンクの光線を放つ。瞬きをする間に消えたそれは、アベリサウルスの肉体を痺れさせていた。

「紫吹!」

 のんびりとした性格を弾いた声で合図されれば、反射的に身体が動く。

「これで、終わりだ」

 何日も祈りを込めた札に息を吹き込む。アベリサウルスを倒せば、全てが叶う。出仕階級からの脱却も、独身生活からの脱出も、平和な土地の復活も。

 ようやく、手に入れることが出来る。

 思い描く未来に頬が緩む。それがこいつとの共闘の終わりであることに僅かに悲しみを感じるが、もうこの攻撃を止めることなどできない。

 真っ赤な札をアベリサウルスの額に貼り付けた瞬間、俺達の闘志が表れたような炎が俺の視界を埋め尽くす――。

「……ふふ」

 なんて理想的な討伐だろうか。ドラマチックで、刺激的で、鮮やかだ。

 そして、とても大切なパートナーが出来た。これで別れることになったとしても、後悔はない。まだまだ先は長いが、イシュマと共にアベリサウルスを討伐したことは、一生忘れられない大切な思い出になる。

 そういえば、俺とイシュマはどうやって奴を仕留めたんだっけ。

「紫吹」

 イシュマ。今は黙っていてくれ。もう少しで、俺が何をしたか思い出せるんだから。

「紫吹、助けて。死なないで」

 なんだよ。救われたいのか救いたいのかどっちかにしてくれ。

 どうして俺が死ぬ前提で話が進んで……。

 …………あれ?

「紫吹!」

 拳で頭を殴られたような衝撃で瞼が持ち上がる。辺りを見回すと、ここが湿った森の中であり、空が僅かに橙に染まり始めていることを知る。俺もイシュマも、胸の白い札を外していた。

 この衝撃はなんだ? 俺はなんで気を失っていた?

「キュッキュッキュッ」

「おわっ!?」

 周囲を確認して正面に向き直ると、苔色の人間が笑顔で俺を迎えた。

 人間? 違う。こいつは有翼人じゃないか。

「紫吹平気? 有翼人に頭蹴られたんだよ。……おかげで目が覚めたみたいだけど」

 目覚めたばかりの目に沁みる桃色の髪。昼間の太陽を浴びた海の様な目。イシュマは服も顔も泥まみれになった状態で、俺の顔を覗く。

「有翼人に頭を蹴られて気を失ったのか」

「違うよ。紫吹は、アベリサウルスの足元から離れようとして、数メートル後ろの木の幹に頭をぶつけて失神したんだ」

 ああ。そういうことか。

 ……待て。

「じゃあアベリサウルスは。あいつはどこへ行った」

「紫吹がほぼ再起不能にしてくれたから、向こうで有翼人のおもちゃになってる」

「俺が?」

 駄目だ。全く思考が追い付かない。何故有翼人が友好的になっている。何故イシュマは泥まみれになっている。何故、アベリサウルスが再起不能になっている?

「立てる? 僕達じゃとどめがさせなくて困ってるんだ」

「キュッ」

 俺を取り囲むようにして飛ぶ有翼人と、声を弾ませて泥まみれの顔を緩ませるイシュマ。

 泥? まさか……。

「到着! みんな、紫吹が来たよ」

 イシュマの声に、嬉々として十数羽の有翼人が返事をする。不思議な状況に苦笑いをして目の前の光景を受け止めると、偶然発生する現象が頭に浮かんだ。

 俺が逃げるのに必死になり、誤って地面に落とした水色の札。あれが地面のコンディションを瞬間的に悪化させたのだとしたら?

 通常、札の効果は獣及び人間などの生命体に対してのみ差異なく効果を発揮する。つまり、植物や文房具、建物といった非生命体に対しては、効果を出すのに一定の条件が必要になるということだ。

 非生命体に札を用いる時、攻撃系の札は周囲の環境に左右される。

 壁を対象としたとき、赤色の札を使う場合は酸素と着火剤になるものが必要になるため、乾いた木材が丸出しになっていなければ発火しない。黄色の札の場合は乱れた気候が必要になるため、余程天候が悪くなければ雷を落とせない。緑色の札の場合は、養分を蓄えた湿った土と日光が必要になるため、機嫌のいい空の下で植木鉢などを用意せねば蔦を纏わせることが出来ない。ちなみに、条件の半分を満たしていた場合は、効果が半減されて現れることがある。この件に関してはデータが曖昧であり、神の気まぐれと認識されているのが現状だ。また、植物や土などの人工的でない存在が生命体か否かという点も曖昧であり、正直先の例が「揺らぐ事なき事実」と言い張るのも難しいところがる。

 それはさておき、このように非生命体への札の使用は手間がかかるものが多い。そのため俺は全くその方向で札を使ってこなかった。

 だが、今回は偶然それを発生させたのだ。尻もちをつくと尻がびしょ濡れになるくらいに濡れた土。それだけ日陰が多く、夏場とは思えないほど涼しい空気を漂わせる森林。アベリサウルスの体長が人間の何倍もあることや、同じ場所でしばらく捕食を続けていたことで、温度が冷たいまま保たれていた奴の足元。

「少し寒くなってきたな……。紫吹、平気?」

 ずっと走っていたため、この環境に気付いていなかった。だがそうだ。少し肌寒くなるくらいのこの気温なら、冷えた土に触れた水色の札が効果を発揮する可能性はゼロではない。

 水色の札の効果は、対象を凍らせるというもの。非生命体に効果を発揮させる場合には、対象が水分を多く含んでいること及び温度が零度以下であることが条件になる。

 しかし、この基準にはちょっとした矛盾が生じている。何しろ、俺達神官が水色の札で凍らせるのは水だ。つまり、水色の札の効果を純粋な水に発揮する場合、対象は水であり氷でもあるということになる。水色の札の効果発生条件の零度は氷の融点であり水の凝固点。ゆえに感じられる効果はたいしたものでは無く、この札は非生命体に全く使われてこなかった。たまに暇を持て余した者が氷菓子が解けないように活用するくらいだ。

 いつの間にか肩に掛けられていた上着に腕を通し、頭を回す。

 今回は、対象が水分を多く含んでいることという条件を満たし、かつ札の効果発生条件の半分を満たしていた場合に、効果が半減されて現れることがあるという神の気まぐれが重なったのだ。これを偶然と言わずして何と言おう。

 札が地面を僅かに凍らせ、有翼人を喰らおうとしたアベリサウルスが足を踏み出す。その際支えにしていた方の脚が足元に生まれた氷で滑り、横に転倒。すぐさま割れた、もしくは解けて消えた氷が水となり、俺を心配してアベリサウルスの腹近くの木に隠れていたイシュマに泥が跳ね飛んだ。ゆえにイシュマは泥まみれになった……。

 ようやく辻褄が合い、上着を掛けてくれたイシュマに微笑みを向ける。そのまま視線をアベリサウルスに向けると、奴は巨大な身体でまだもがいていた。

 横向きに転倒した場合、アベリサウルスは自力で立ち上がれないのか。新しい情報だ。

 有翼人に顔を蹴飛ばされ、神経を失った前足を人形のように動かされながら、奴は力なく唸っている。きっと、俺が目覚めるまで、イシュマと有翼人は奴に攻撃を浴びせ続けていたのだろう。それに小さく笑うと、イシュマが口を開いた。

「有翼人達は、今回ばかりは許してやるって言ってるみたいだよ。……言葉を理解したわけじゃないけど」

「そうか……。それで、なんでイシュマがとどめをささないんだ? 研究材料を沢山集めるんじゃなかったのか」

「そうしたかったんだけど、あんまりにも皮膚が固すぎて杖が刺せなかったんだ。残念……」

 確かに、あいつの皮膚は強靭だった。だが、これだけ貴重な獣の材料を全く取れないというのも惜しい。どうにかして有識者を招けないものか……。

「お二人ともお疲れ様でした!」

 背後に気配を感じた瞬間、数時間前に耳にした声がくたくたになった俺達の身体に芯を通す。胡散臭いこの声は、俺達をここにワープさせた……。

「ジャッコさん……!?」

 疲れて幻覚でも見ているのだろう。そう思いたかったが、俺とイシュマは同時に肩を組まれ、逃げられなくなる。なんでこいつがここに現れた。

「そんな顔をなさらないでください。紫吹様、お手柄でしたね」

 右腕に捕らえる俺に、ジャッコは囁く。体の奥に鉛の重しを落とされた感覚だ。

「いや……。俺とイシュマで倒したんだ」

「ほう。それは興味深い。イシュマ様がこの戦闘で活躍なされたのですか」

 イシュマのことを昔から知っているのだろうか? だが、そうであればイシュマがきちんと紹介してくれるはずだ。こいつは、何か一方的に情報を握っているのだろう。目的が全く分からないから気味が悪い。

「当たり前だろ」

「なるほど……」

 癪に障る物言いに拳を握る。礼儀正しいようでなかなか失礼なことを言うじゃないか。

「それで、ジャッコさんはなぜここに?」

 置いてきぼりにされていたイシュマがジャッコの顔の向こうで首をかしげる。確かに、現れるタイミングが偶然にしては出来過ぎていた。

「討伐を終えたお二人を迎えに上がったんです」

 子犬でも飼い始めたかのような喜びを含む声と仮面の笑みが積もった疲労を倍増させる。俺達を監視している何かがここにある。もしくはそういった人間がいる。何のつもりだ?

「それも上の指示か」

「左様でございます」

 他国の人間が何を企んでいる? 少しばかり釘を刺しておいた方がいいな。

「……他国の人間の要望を聞いてやったんだ。少しくらい報酬を用意してくれ」

「と、おっしゃいますと?」

「恐竜の研究に明るい人間を連れてきてくれ。アベリサウルスはまだ死んでいない。研究に慣れている相棒が解剖出来ないくらい硬くて困っている」

 ついでにイシュマにも研究材料を分けてくれ。そう要求すると、ジャッコは数秒沈黙したのち仮面の下で淡白な笑みを浮かべた。

「……承知しました。では、すぐにご用意いたします」

 俺達から腕を離すと、ジャッコはすぐに姿を消した。高等討伐者ギルドの人間であるから、上に多少の融通が利くのではないだろうか。

「紫吹」

「ん?」

「改めて、僕の討伐に協力してくれてありがとう」

 結びっぱなしでよれたポニーテールを垂らしつつ、イシュマは俺に真摯な礼をする。

 討伐こそかっこつかなかったが、きっと今の俺達はどの討伐者よりも端然としている。

「俺の方こそ、討伐に協力してくれてありがとう。イシュマとの討伐は、楽しかった」

 今ならきっと、聞いてもいいはずだ。

 アベリサウルスによって木々がなぎ倒されても未だ薄暗い森。その間を抜ける風が、互いの前髪を揺らす。

「なあイシュマ、お前はこれからどうするんだ」

 すぐに来る未来の話を持ち出し、俺はイシュマの顔を見つめる。端正な顔は、同じ問いをした一か月前よりもいくらか明るく見えた。

「……僕は、アベリサウルスを討伐したことをパラムに報告する。そうしたら研究を進めて、あの人を超える討伐者になる」

 ようやく本質が見えた。それでもまだ、ほとんどが隠れているように見える。けれど、この数か月間で絆が強くなったことは間違いない。

 イシュマは、研究に励む道を選ぶ。俺は、結婚して豊かな生活を手に入れるため日々精進する。これからは、それぞれ違う道を歩むのだ。これで、二人での討伐を行う日々は終わるんだ。

「――でも、討伐も続けたいんだ。今回みたいな上級の獣も、これからずっと仕留めていきたい。だから」

 真剣な話をしているというのに、気持ちが顔に出て隠せない。欲しいおもちゃを目の前にした子供みたいに、浮足立ってしまう。

「俺も!」

 言われてばかりじゃ男が廃る。俺はイシュマの言葉を遮り、目を見開いた。

「俺も、勿論結婚して神宮での昇級に励みたい。だけど、イシュマとの討伐も続けたい!」

 深い森で、俺の決意が木霊する。だんだんと小さくなっていくそれが、俺の顔を熱くさせる。そんな俺の正面で、イシュマは大きく息を吐いた。

「かっこつかないじゃないか……」

 どうやら、イシュマも俺の将来のことを大切に考えてくれていたらしい。なんだこの気恥ずかしさは……。

「キュウッ」

「キュワッ」

 はしゃぐ有翼人達の声の方に目を向ける。あいつらはまだ、アベリサウルスで遊んでいた。

「……僕達もあいつに攻撃してこようか。泥まみれにされた仕返しだ」

「そうだな。俺もあいつのせいで髪が焦げたからやってやろう」

 雲一つない夕暮れが俺達を染める。

 ジャッコが研究者を連れて来るまで、俺達は巨大な獣にちょっかいを出していた。




 夏真っ盛り。アベリサウルスを討伐して二週間が経過した頃、俺はようやくトウビシン討伐の件を神宮に報告することが出来た。

 あの日以降の出来事はこうだ。

 アベリサウルスを討伐した日の深夜、俺とイシュマはジャッコの能力でフォティアに戻って来た。俺はその瞬間、戦地から戻った安心感に膝から崩れ落ち、そのまま眠ってしまったのだという。ジャッコはそれ以降、俺達の前に姿を現していない。

 気を失ったこと及び木に頭をしたたかに打ち付けたことから、俺は五日間の入院を強いられた。その間、遠方に住んでいる家族や秋月が見舞いに来てくれたのは、とても嬉しかった。……秋月には泣きつかれたが。

 そして、俺が退院してすぐ、イシュマは自分の家に帰った。どうやら、俺を心配して研究を後回しにしてくれていたらしい。研究熱心なイシュマを引き留めるようなことをしてしまったことに心苦しさを感じながら、俺はフォティアの港でその背中を見送った。今はもう、祖国で研究に熱中しているに違いない。

「……よし」

 そして今日、俺はようやく出仕から権禰宜への昇級が正式に認められた。これで、今の俺が叶えたい夢はあと一つ。

 白から黄色に変わった装束を纏い、鏡に爽やかな笑顔を向ける。今日はこれから、トウビシン討伐の報酬である依頼主の娘さんと顔を合わせるのだ。初めての出会いに胸が高鳴る。

 路面電車に乗り、俺は吊革に掴まって窓の外を眺め始める。

 そういえば、俺の昇級がなかなか認められない原因に一つ思い当たることがあったのだ。

 ――あれは、二年ほど前のこと。まだ俺が秋月のような研修生だった頃の話だ。

 研修生は、一年かけて行われる研修で神宮内の全ての仕事を経験する。比較的仕事が単純な授与所での勤務は春に行われることが多い。俺はそこで、権禰宜の女性に仕事を教わっていた。

「紫吹君、手際が良いのね。安心して任せられるわ」

「ありがとうございます。千里先輩のおかげです」

「ウフフ」

 この人が、俺の誠実さを炙り出した原因だった。

「紫吹君。研修終了おめでとう」

「ありがとうございます」

 研修を終え、俺が出仕となった最初の週。その時札の授与所に勤務していたのが千里先輩だった。美人であるがゆえにジジイ共が手元に置きたがり、権禰宜ながらも彼女は獣をあまり討伐していなかった。

「休憩入ります」

「いってらっしゃ~い」

 千里の隣で勤務していた出仕が、昼食の時間になりその場を離れる。すると、千里は急に声を潜めて俺の耳に唇を近付けた。

「ねえ紫吹君」

 妖しい声に若い俺は身震いする。その時はてっきりお付き合いの申し出を受けるのだと思っていた。

 若い俺は、柔らかな中くらいの大きさの胸が腕に当たり、話どころではない。

「聞いたよ。紫吹君、神術を扱うのが得意なんだってね。私、そんな紫吹君にプレゼントあげちゃう」

「え……」

 まさか口づけのご褒美か!? 胸を触らせてくれるのか!? もしかしたらその先も……!?

 と、あほ丸出しだった頭は、実は千里よりはまともに機能していた。彼女は、浮かれる俺の胸元に、権禰宜以上の人間が扱うことを許された札を差し込んできたのだ。それも、金銭を納めずに。

「千里、先輩……?」

 尊敬できる優しい先輩が規律違反の行動をとったことに、身体が固まる。そんな俺を見上げ、千里は厚い唇で弧を描いた。妖しさが怪しさへと色を変える。

「ねえ。受け取って」

「で、出来ません。これは規律違反で――」

「じゃあ、何をしたらいい? 私、紫吹君のためならなんでもできちゃうよ……?」

 やばい奴だ。

 色欲を浮かべる千里の微笑みを見て、俺は反射的に駆け出す。美人に好かれたくはあったが、あんなやばい女はお断りだ。

 俺は、その足で試験会場に駆け込み、千里の規律違反を訴えた。証拠に俺の胸に突っ込まれた札があったこと、及び当時成績が優れており、ただ優秀な新人出仕として認められていたことから、すぐに千里の規律違反行為が認められた。その後の彼女がどうなったかは知らない。

 ただ、その後知ったことだが、こういった札の不当授与は一部の人間が頻繁に行っているらしい。中には、重役もいるとの噂だ。ゆえに、規律違反を訴えた経歴のある俺のことを、上層部などが恐れている……というのが俺の昇級がなかなか認められない原因の仮説だ。

 真面目で何が悪い。

 ガラスに映る自身のしかめっ面に興味を無くし、停車中の駅の看板に目をやる。依頼主の宿まで、あと三駅だ。

 三十秒ほど経って扉が閉まる。夢が叶うまで、あとたった三駅だ。

 結婚式はどこで行おう。子どもは何人作ろう。胸が大きい人だと良い。

 時々イシュマが歌っていた鼻歌を小声で歌う。この電車に乗っていた女の子達の言葉が関係して、俺達は初めて喧嘩をしたな。それほど昔のことではないというのに、あの日々をもう懐かしむことが出来る。

 遠くの空に思い出を投影することで、移動時間が簡単に消えた。もう目的の駅に到着した。

「……行くか」

 初めて会ったら、何を話そう。相手に時間があれば、そのままデートに向かってもいいかもしれない。いわゆる恋愛のハウツーは図書館で学んできた。余程のことが無い限り、大きな失敗をすることはないだろう。

 ガチガチになりそうな身体に深呼吸で酸素を送り、胸を張る。もう宿の扉が目の前だ。

「紫吹!」

「なんだイシュマ。…………イシュマ?」

「久しぶり! 会いたかった!」

 相変わらずの桃色縦ロールを揺らし、イシュマは俺に駆け寄ってくる。格好は白いYシャツに薄紫のスラックスというシンプルなもので、自宅にいたことを想像させる。

 それにしてもどうしてここに?

「アベリサウルスの討伐を、国が認めてくれたんだ! 褒美として、魔法石をくれたんだよ」

「魔法石? 特定の魔法を持ち主の能力に関わらず使うことが出来るようになるあの魔法石か?」

「そう! それで僕は、瞬間移動が出来るようになったんだ。人間が通れるサイズのワープホールも作れるんだ!」

 顔を赤く染めて、イシュマは矢継ぎ早に魔法石を手にした興奮を語る。毒気を抜かれるマイペースさがしっくりくる。これは紛れもなくイシュマだ。瞬間移動が出来るようになったイシュマだ。

「良かったな。それで、どうして俺のところに?」

「この興奮を一番に分かち合いたかったんだよ! 会えて良かった」

 瞬間移動は、確か特定の場所をイメージして行うものだ。だが、俺に会いたいと思ったって、俺の今日の予定を知らなければここに来ることなど出来ない。……まさか。

「イシュマ、お前秋月を呼んだな」

「ああ。紫吹の家にワープしたら留守だったから、次に神宮にワープしたんだ。それから紫吹の居場所を知っている人に声を掛けようと思って、あの試験会場の受付で秋月君を呼んでもらった」

 他国民らしい横暴さに俺は頭を抱える。神宮は、地域の住民が神に祈りや願いをするための神社を構えている。そのため、あそこは基本的に開放された環境にあるのだ。

 しかし、それを悪いように使う輩が少なからず存在する。神官のみが入構を許された場所に侵入してきたり、目立たない場所で用を足したり、プライベートな理由で仕事中の人間を呼び出したりなど、問題は様々だ。そして、イシュマが秋月を呼び出したそれも、迷惑行為の一つになる。他国民であることから流石にお咎めはないだろうが、俺の人間性が少し疑われるだろう。

「そうしたら秋月君、『紫吹さんはお嫁さんの元に向かいましたよ。例の宿だと思います』って」

「ああ……」

 駄目だ。折角入れた気合いがしぼんでいく……。

「お客さんかな?」

 俺とイシュマの会話の終わりを告げるように、木製のアーチを描いた扉が開かれる。その奥にいたのは、トウビシンの討伐の依頼主だった楠木さんだった。

「楠木さん。お久しぶりです」

「おおイシュマさん。久しぶり。ということは紫吹さんも……」

「こんにちは。本日は貴重なお時間を頂きまして、ありがとうございます」

 将来義理のお父さんになる方だ。無礼な挨拶は出来ない。

「こんにちは。そんなにかしこまらないで。娘が緊張しちゃうから」

「は、はい」

 宿のメニューの研究のため、楠木さんの娘さんは長い間ヴァッサーに出張していたという。料理上手で美人な元神官……。これは胸が小さくてもイケる。

「ほら、おいで。将来の旦那さんがいらっしゃったよ」

 かわいらしい小さな足音が耳を擽る。俺と会うためにきちんと準備をしてくれたのだろう。踵が高い靴の音だ。

 楠木さんの隣で、足音が止まる。視線を足元に向けていた俺は、高鳴る胸を押さえ、唾を飲みこんで顔を上げた。

「げっ」

「……嘘でしょ」

 俺より三つ年上の、茶髪の女性。楠木さん自慢の美人というだけあって、肌艶はいい。だが、こいつだけはない。規律違反の千里だけは!

「父さん! なんでこい……この人だって言ってくれなかったのよ!」

「ええ? だって千里が顔を合わせるまでの楽しみにするって言ったんじゃないか」

「だって父さん、相手は出仕だって言ったじゃない! この人がそんな低い役職に就いてるわけないでしょ!?」

「生憎つい先日まで出仕でしたよ。千里さん」

 俺が声色を暗くして名を呼ぶことで、その場が静まりかえる。お前の規律違反を報告したことも影響して、全く昇級出来なくなったんだよ……!

「嘘! あんたのせいで神官を辞めさせられたのに!」

 千里の言葉に、楠木さんが目を剝く。きっと初耳だったのだろう。こいつはそういう女だ。

「知るか。お前が規律を守らないのがいけなかったんだろ。力を与えてくれる神の意思に背くなんて愚かなことだ」

「うるさい! 早く出てって」

 言われなくても出ていくよ。

「楠木さん。申し訳ありませんが、今回の報酬は受け取れません。無報酬で結構ですので、これで失礼します」

 宿主に礼をし、キーキーと猿のように騒ぐ千里に背を向ける。イシュマは、怒涛の展開に目を丸くしていた。今回の一番の被害者は彼かもしれない。

「紫吹……? どうしてお嫁さんと喧嘩したの?」

「昔揉めた相手だったんだ。つくづく女運が無い……」

 昇級した途端これだ。頭が痛い。

「それじゃあ、今後もまだお互い独身同士ってことかな」

「そうだな……」

「じゃあ、気晴らしにエレメンに出よう! 僕の瞬間移動能力を使いたい!」

 俺を元気づけたいのか、自分の新しい能力を試したいのかどっちなんだ。

「ふふっ。……よし。じゃあ行くか! 頼むイシュマ」

「任せて」

 口角を上げたイシュマが杖の頭にはまった魔法石を見つめる。すると、杖の先に紫色のワープホールが生まれた。獣を召喚した時と同様、強い風が吹く。今度は吸い込まれそうだ。

「さあ、出発だよ!」

 イシュマが駆け出すのと同時に、俺も穴に飛び込む。好奇心の赴くまま周囲を見回していると、瞬く間に青空が広がった。

 どこか懐かしく、清々しい香り。獣一つ見当たらない草原。

「ここは……」

「なんだかもう懐かしいよね」

 俺とイシュマが初めて獣を討伐した、エレメン北西の草原だ。フォティアよりも涼しい空気が、汗をかいた装束の中の身体を優しく撫でる。

「どうしてここに? 札なら準備出来てるぞ」

 俺の問いに、イシュマは淡い笑みを浮かべた。草原を駆ける風に、桃色の長髪がなびいている。

「改めて、挨拶をしたかったんだ」

 小さく丁寧に言葉を選んだイシュマは、俺に向かって手を差し出す。

 今度は、絆を確かめるために。

「紫吹。これからも僕と一緒に獣を討伐して欲しい」

 夏の期待を乗せた海の瞳に、俺は頷き返す。

「ああ。俺も同じ気持ちだ。これからもよろしく。イシュマ」

 マイペースで気の利く、貧乳好きな俺の相棒。俺よりも薄い手を強く握り、白い歯を見せて笑い合う。

 あの日感じた予感はきっと、間違いなんかじゃない。

「さあ、まずは体力づくりからだ。行くぞイシュマ」

「ええ!? まさか森まで走るつもり!?」

「負けた方が昼飯奢れよ」

「僕が負けるの前提じゃないか……!」

 少しばかり剥げた青い森へと走り出す。夏の日差しは春よりも厳しく、しかし明るく俺達を照らす。

 たくましい緑の絨毯を踏みしめ、俺達は新たな戦場へと進んでいった。

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ハイ・ファイ・パイ! 柊木まこと @hiragimakoto

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