推しを推すのをやめようと思う

羽衣麻琴

第1話

「推しを推すのをやめようと思う!」

 私は高らかに宣言した。

 日曜日の昼下がり。行きつけのリーズナブルな小さなカフェの、一番隅の二人掛けでの出来事だ。

 向かいに座っている高校時代からの親友・明日香は、一瞬きょとんとしたあとで、「いまさら?」と尋ねてきた。

「いまさら……とは?」

「だって私が今まで散々忠告してきたのに、全部スルーだったじゃん」

 キッパリと言われて、私はあからさまに視線を泳がせる。

「えーと……それはなんと言いますか……」

「人間の基本的生活のために必要な資金はせめて確保しろって百万回は言ってきたのに、フルシカトで生活費全部つぎ込んで生きてきたじゃん」

「ウンあの……うん」

「何回言っても聞かないから、もういいか楽しそうだし私の人生じゃないし、って思い始めたとこだったのに……いまさら?」

「ウン……」

 返す言葉は正直無い。何故なら全て事実だからだ。

 心の友・明日香はこれまでも、私というガチオタに振り回されて生きてきた。暴走しがちな私の身を案じては、「推し活のために人間の生活をやめるな」「つぎ込む額にも限度がある」「食費は残せ」「生活に必要なものは買え」などと小言を言い続けて来てくれた。おかんかよ、と煩わしく思う日も正直なくはなかったが、彼女のそういう世話焼きのおかげで、私はなんとか生きて来られた。

 例えばそう、あれはいつのことだったか、私がマジでうっかり全財産(貯金はほぼないので正確にはその月の全給料、ちなみに家賃と光熱費は除く)をつぎ込んでしまい、次の給料日までの残り10日間を、以前推しのグッズ欲しさにコンビニで大量購入したチョコレートだけで過ごそうとしていた時も、彼女は呆れながら牛丼やらハンバーガーやらチェーンの激安イタリアンやらを奢ってくれた。よほど私の生活が破綻して見えたのか、平日にも関わらずわざわざ仕事帰りに私の家に来て差し入れをくれたりもした。当時「チョコはカロリー高いらしいしなんとかなる」などと本気で思っていた私は、そういうのは緊急時限定の話であって、日常生活では何ともならない、死にはしないがめっちゃ辛い、どう足掻いてもチョコは主食にはなりようがないしすぐ飽きる、という現実を嫌というほど思い知った。塩は大事。アミノ酸は重要。米は美味いしジャンクフードは超最高。○イゼリアは神、そして明日香はメシア。そういうことを心の奥深くに刻んだ、大変貴重かつ苦い思い出だった。

「ちなみにさ、今までいくらつぎ込んだの? 教えてよ後学のために」

 メシアの質問にはできる限り正確にお答えしたいところだが、私は基本「推しという存在に還元されるなら実質全てタダ」という強引極まりない理屈でお金を使っているため、まあそのせいで万年金欠になっているわけだが、だから金額は把握していなかった。

「いやー……」

「何、把握してないの?」

「金額とかはほら……認識としては実質全てタダだから特に計算する必要性を感じないっていうか……」

 へら、と笑うと、明日香の顔にあからさまな呆れか浮かぶ。

「あんたはもう……はあ。まあいいや、ちなみに理由は? あんだけトチ狂ってたあんたがやめるんだから、それなりの理由があるんでしょ」

 トチ狂ってると思われてたのか、と一瞬ショックを受けるが、私はまた「いやあ……」と曖昧に言葉を濁すしかなかった。

「いやあじゃなくてさ」

「いやー……なんかほら、ちゃんとしなきゃな、みたいな……」

 モゴモゴと呟く。この理由がお世辞にも格好いいとは言えないものであることは、私自身が最もよく分かっている。

「『ちゃんと』?」

 怪訝そうに首を傾げた明日香に、私は作り笑いをする。自然と口調が早口になり、それがまた言い訳じみていて恥ずかしい。

「……なんていうかさー、私、もういい歳じゃん? いつまでもこういうことやってちゃダメなのかなーって、この間従兄弟の結婚式行った時に思ってさー……」

 ダサい理由だとは分かっている。私は推しへの愛よりも、実生活における漠然とした不安の方を優先したのだ。なんて脆いのだろうと思う。自分にも推しにも、申し訳ない気すらする。

 でも、だって仕方がないのだ。怖かったのだから。どんなに一方的に偏愛しても、現実に私の側には誰も残らないのだということに気付いてしまった。怖い、と思った。未来が怖い。従兄弟の結婚式という華やかな場で、私は一人絶望していた。

「……そうなんだ」 

 頷いた明日香は、どこか悲しげだった。

「それは、しょうがないよね……」

 予想外の反応だった。いつもちゃんとしている彼女なら、親友のこの決断を喜んでくれると思っていたのに。

 明日香は神妙な面持ちのままコーヒーをすすり、そのまま黙り込んでしまった。


 結局その日は気まずいまま、いつもなら流れで行くカラオケの提案すらせずに、私たちは静かに解散した。


 ◇


「推しを推すのを再開します!!」

「早くね?」

 一週間後。私たちは以前と同じカフェの、同じ席に座っていた。

「いやー、無理だったんだよねー!」

「テンション高……」

「いやもうびっくりするほど無理だった! 推しがいない人生生きるのキッツイわー!」

「すんごい明るいじゃん怖……」

 ドン引き顔をしている明日香を前に、私のテンションは完全に振り切れていた。

「だから再開するわ! SNSのアカウント消してなくて良かったー!」

「あっそう……良かったね。『ちゃんと』するのは諦めたわけ?」

「いやだって『ちゃんと』する前に死んでたら意味ないじゃん!? 私は推しのために推してんじゃなかったんだわ、私が生きるために推してたんだわ! だからもうしょうがないなと思って! 開き直ったら人生楽しくなっちゃってさー!」

 今まで全く知らなかったが、「開き直り」というのは人生を楽しく生きるための唯一にして無二の秘訣なのではなかろうか。それは得てして「諦め」にも似た心境であるのだが、「こういう風にしか生きられないのだ」ということを心の底から実感すると、じゃあもう「こういう風なまま幸せに生きるにはどうすればいいのか」と考え方を具体的な対策にシフトすることができたりする。それはそれで楽ではないが、漠然とした不安に苛まれて生き続けるよりは心が軽くなる。

 ちなみにこれは、推しを推すのをやめようとしていなければ到達できなかった境地なので、推しのおかげということにもなる。推しが推しとして存在していなければ、「推し活をやめる」という事態にもなりようがなかった。つまり推しは私にとってメシアでもあるわけだ。何が言いたいかと言うと、推し万歳、ということだ。推し大好き。推し最高。存在してくれてありがとう咽び泣くほど愛してるよ推し。

「だからもう引き続き推しは推すわ! そんでそんな人生も悪くないことを証明する方向で生きるわ!!」

 高らかに宣言すると、明日香は小さく吹き出した。

「……いいと思うよ、あんたらしい」

「でしょ!!」

 頷くと、明日香の表情が綻ぶ。それから穏やかな声で「私もね」と小さく言われ、その目を見返した。

「推しを推すの、やめようと思ってたんだ」

「え? 明日香って推しいたの?」

「まあね」

 知らなかった。今まで一度も、明日香からそんな話は聞いたことがなかった。

 私は焦る。明日香だって推しについて語りたかったかもしれないのに、今までずっと聞き役をさせてしまった。なんてことだ。

「ごめん、私ばっか語ってた! 明日香の推しの話も聞くよ!」

「はは、いいよ聞かなくて。私の推し活の仕方はひっそり系だから」

「ひっそり系?」

「そう。一人でひっそり、誰にも言わずに陰ながら応援する系」

 ふうん、と頷きながら考える。まあ確かに推し方は人それぞれだ。明日香は私みたいにトチ狂ってはいないだろうから、社会的に眉をひそめられない範囲で、適切に静かに応援しているのだろう。明日香らしい、とも思う。

「……でもちょっとだけ聞いてもらおっかな」

 呟かれて、「おうもちろん!」と返す。もちろん、何時間でも聞いてやる。今まで散々聞いてもらって来たのだから。

「私の推しには推しがいてね」

「へえ!」

「推しを推してる姿が好きで、だから推してたんだけど、その人がね、推し活やめるっていうから、どうしようかなって思ってた」

「ほう?」

「でもまた再開するっていうから、私も再開する」

「ふうん……?」

 曖昧に頷きながら、私みたいだなそいつ、と漠然と思った。いま流行りなんだろうか。「断捨離」みたいなアレか。ハウトゥー本とかが書店に並んでいたり、伝道師みたいな人たちがSNSと動画サイトでやたらと幅を利かせていたりするのだろうか。帰りの電車で調べてみようか。

「うん、だからさ、今日は奢るよ」

 だからさ、の接続先がわからず、「なんで?」と首を傾げる。

「まあいいじゃん、気にしないで奢られときな」

「うん……? じゃあ、お言葉に甘えて……?」

「そうして。たまには甘えてよ」

 明日香は笑っている。何だか明るく、楽しそうに見える。

 ニコニコしている明日香を見ながら、私の脳裏にある可能性が過ぎる。

「……あのさ明日香。明日香の推しって……」

 まさか、と言おうとしたところで、テーブルの上のスマホが震えた。

「あ、ごめん通知……」

 鳴ったのは私のスマホだ。画面を見ると推し仲間からの連絡だった。ロック画面に、「SNS見た!?!?」と興奮気味のメッセージが浮かんでいる。慌ててSNSのアプリを開いた。

「……え!?」

「どうしたの?」

「やったー!!!」

「声デカ。ここ店なんだけど」

「ごめん! でも聞いて明日香!! 私の推しがすごいことに!!!」

 叫んでテーブルに乗り出すと、明日香は「だから声デカいって」と注意しながらも吹き出した。

「ほんと楽しそうだよねあんた」と、明日香は嬉しそうに笑う。

「まあね!!」と勢い良く返事をしながら、私も満面の笑みを返した。


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