第29話 部屋の主
夕暮れ時、僕は一人トキワ荘に帰って来た。今日は久々にちょっと用事があって実家に帰っていた。
「・・・」
薄闇にボーッと浮かぶようにして、トキワ荘のオレンジ色の外灯が温かく灯っている。それぞれの部屋の窓からこぼれる明かりと相まって、そのやわらかい明かりが、何ともやさしく僕を迎えてくれる。仲間がいる安心感。かけがえのないその感覚に僕は包まれる。
「やっぱいいな」
最初は、戸惑いしかなかったこの場所だったが、でも、やっぱり、トキワ荘に出会えて、ここに来れてよかったと、今僕は思っていた。君子さんは怖いけど、やっぱり、今はここに連れて来てくれたことを感謝していた。
「守也氏、います?」
僕は、実家からもらってきたリンゴをおすそ分けしようと、守也氏の部屋の襖を開けた。
「わっ」
だが、守也氏の部屋の襖を開けて僕は驚いた。守也氏の部屋の真ん中で知らない男の人が、ラーメンを食べていた。
「こ、こんにちは」
誰?と思う前に僕は思わず頭を下げていた。
「こ、こんにちは」
相手も驚いて、麺をすすりかけのまま頭を下げる。
「・・・」
「・・・」
そして、お互い固まる。僕たちはしばしお互いを見つめ合ったままその場で動けずにいた。相手の男は麺をすするのも忘れ、すすりかけのまま固まっている。
僕は一瞬部屋を間違えたかと思ったが、一番奥の部屋で間違えようもなかった。
「おう、石森氏、何やってんの」
そこにちょうど守也氏が帰ってきた。
「あっ、守也氏」
「どうしたの」
「いや、あの・・、この人・・」
僕は中の人を指さす。
「ああ、石森氏は初めてだったね」
「えっ」
僕は守也氏を見る。守也氏の知り合いらしい。
「小池氏」
守也氏が紹介する。
「小池氏?」
僕はあらためて、男性を見た。
「この人は小池氏、この部屋の主だよ」
「えっ?主?ここって守也氏の部屋じゃなかったんですか」
「ここはもともと小池氏の部屋なんだ」
「えっ、そうだったんですか」
「そう、そこに俺が居候させてもらってるって格好かな」
「そうだったんですか」
「守也氏に盗られちゃったようなもんだよ」
小池氏が笑いながら言った。笑っている場合じゃない気がしたが、その笑顔の中に人のよさが滲んでいた。相当に人がいいのだろう。もじゃもじゃ頭で、ひょうきんな顔をしているが、人間的には非常に温厚でできた人らしい。
「家賃も僕が払っているんだ」
小池氏が言った。
「部屋も他人にたかっているんですね・・💧 」
僕が隣りの守也氏を見る。守也氏は、食事や画材など、いつも人にたかっている。そして、それがうまい。僕も初日から、ラーメンやアイスをたかられていた。
「たかっているはひどいな」
守也氏が少し心外だなというように言う。
「実際たかってるじゃない」
小池氏が僕の言いようを気に入り、笑いながら言う。
「ま、まあ、そうだけど」
部屋を借りている小池氏にそう言われては、守也氏も何も言えない。
「まあ、とりあえず中に入ろう」
守也氏が誤魔化すように言って部屋に入った。僕と守也氏は部屋に入り、小池氏の前に胡坐をかいて座った。
「彼は向かいの部屋に越してきた石森氏」
「ど、どうも石森です。よろしくお願いします」
守也氏に紹介され僕は頭を下げる。
「こちらこそよろしく」
やはり、小池氏は人がいいのだろう、やさしくあいさつを返す。
「小池氏も漫画家なんですか」
僕がラーメンの続きを食べ始める小池氏に訊いた。
「いや、元漫画家。彼は早々に見切りをつけて、今は会社員」
これに守也氏が答える。
「そうなんですか」
僕は守也氏を見る。
「彼は現実派なんだ」
「でも、僕は夢をあきらめたわけじゃないよ」
そこで、口の中のラーメンを飲み込み、小池氏が口を開いた。
「僕は今アニメーターをしているんだ」
「アニメーターですか」
「うん、得意の絵の技術を生かしてね。でも、滅茶苦茶忙しい仕事だから、ほとんどここに帰って来れないんだ。毎日、会社に泊まり込みさ」
「そんなに忙しいんですか」
「うん、過労死レベルを軽く超えているね」
「そんなに・・」
それで、まったく姿を見かけなかったのか。
「実際、体壊して辞めていく人は後をたたないよ。それだけがんばっても、給料は恐ろしく安いしね」
「そうなんですか」
いつも見ているアニメの裏側はそんな過酷なことになっているとは・・、僕は、まったく知らなかった。
「そういえば久しぶりですよね」
守也氏が言った。
「うん、かれこれ、三カ月ぶりじゃないかな」
小池氏も首をかしげながら言う。あまりにも長く帰っていないので自分でも分からないらしい。
「みんな元気?」
小池氏が守也氏を見る。
「うん、元気だよ。あっ、そうだ」
「どうしたんですか」
「今夜、みんなで集まろう。小池氏の久々にご帰還した集まりってことで。美咲氏や赤木氏にも全然会ってないでしょ」
守也氏が小池氏を見る。
「うん」
小池氏がうなずく。
「それに藤尾不二子の二人にも会わせたいし」
「また新しい子入ったんだ」
「うん、二人」
「でも・・」
そこで、僕が口を開いた。
「ん?どうしたの石森氏」
守也氏が僕を見る。
「でも、今日は松葉に行く予定じゃ」
昨日の約束通り、今夜は藤尾不二子さんたちと松葉で食事会をすることになっていた。だからこそ、僕は再三の母親からの引きとめにも関わらず、実家に泊まらずにここに帰って来たのだ。
「あっ、そうか」
守也氏はそこで気づく。
「まあ、でも、じゃあ、そこで一緒でいいのか」
守也氏が言った。
「ええ、でも・・」
僕は小池氏を見る。小池さんはもうラーメンを食べている。
「ああ、僕は全然大丈夫だよ。三食ラーメンでもいいくらいな人間だから」
小池氏が人のいい笑顔を見せながら言った。
「えっ、そうなんですか」
「うん、おやつも夜食もラーメンでいいよ」
「一日五食じゃないですか」
僕がツッコむ。
「小池氏は無類のラーメン好きなんだ」
守也氏が言った。
「そうだったんですか」
そして、この日の夜、松葉で藤尾不二子さんたちと、トキワ荘近くの商店街の中華料理屋松葉で食事会が開かれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。