第10話 僕らは停戦合意破棄の危機を迎えたⅦ
【前回までの振り返り】
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子供の頃、三輪車で県境を越えて大騒ぎになった。
田所陽のことが好き。
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子供の頃、道路の真ん中に寝そべって星を見ていて車に轢かれかけたことがある。
鉢倉深優姫のことが好き。
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子供の頃、母親から『女の子はみんなお姫様なんよ』と言われたのを真に受けて、いずれ舞踏会に招待されると信じていた。
源元惇平のことが好き。
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子供の頃、両親の知り合いから貰った業務用アイスを隠れて半分ほど食べてお腹を壊した。
在原栞乃のことが好き。
*****
息を整え、平静を装い、出来る限りどうでもいいという声を作りながら深優姫は「こんなとこで何してんの?」と声をかける。公園のブランコを揺らしていた陽が振り向いて、苦笑まじりに「ごめん」と言った。
「何が“ごめん”なん?? なんかやましいことあんの??」
「先ほどの無言電話はオレでした、すみませんでした」
「知ってら、そんなの。着信履歴見ればわかるわ」
深優姫は陽の隣のブランコに腰かける。古い遊具はどう気を付けても大きな音で軋む。そんなことより陽のブランコが限界に近い軋み方をしていて不安を覚えた。
もしかしてだけどさ、と陽が口を開く。
「オレのこと、探しに来てくれた感じ?」
「ばーか。あんた、自惚れんじゃないよ、田所のくせに。コンビニ行くのに通っただけだっつの」
実際、探すというほどではなかった。電話口からブランコの軋む音が聴こえていたし、公園にいることは簡単に予想できることだった。
深優姫のことを見ないまま、「こんな夜にうろついてる男に声なんかかけない方がいいよ」と陽は静かに忠告する。
「……栞乃ちんとなんかあった?」
「栞乃からなんか聞いたの?」
「何も聞いてない。でもなんかやらかしたって言ってたかな」
「うん……オレもそうかな。やらかしたっていうか」
「お互いやらかしたって思ってんなら仲直りできんじゃないの?」
瞬きをして、陽は簡単そうに「できるよ」と言った。「明日にはきっと元通りだ」と。それを聞いて、深優姫はどうも居心地の悪い思いがした。
「田所はさ、」
「うん」
「栞乃ちんのことが嫌いなの?」
違うよ、と間髪入れずに陽は答える。「妹みたいなもんだった。オレには妹が2人と弟が1人いて、あいつらと同じぐらい栞乃のことも大事だった」と言って、ブランコを揺らすのをやめた。
「田所は、この
「……なんで? そんなこと、今関係あるか?」
深優姫は肩をすくめ、「別に」と答える。少し迷って「でも、」と話を続けた。
「どっか遠くに行く人が妙にそっけなくなることってよくあるじゃん。相手に嫌われておかないと、自分も相手のことを嫌いにならないと、ちゃんとお別れできないって人。田所が栞乃ちんと話すとき、なんかちょっとそんな感じがする」
陽はしばらく顔をしかめていたが、やがて諦めたように力を抜いた。「もしそうだとしたら、軽蔑するだろ」と呟く。
「オレが、あいつらのことを置いてどっか逃げたいからあいつらに嫌われたいしあいつらのこと嫌いになりたいって、そんなの本当に思ってたら鉢倉だって軽蔑するだろ?」
「しないかな」
あたしも同じようなもんだし、と深優姫は付け加える。しばらく、沈黙が辺りを包んだ。時々身じろぎするとブランコが軋む。それだけだった。
公園には桜の木が植わっていて、街灯に照らされた夜桜は狂ったように散っていた。
「あたしのパパ、暴力を振るう人だったって言ったじゃん。たぶん、病気だったんだろうなと思うの。ママが離婚の話をしたら、自分の車も家も、全部お金に換えられるものは売っちゃって、『今まで本当に申し訳なかった』って泣きながらそれを渡してきたの。“この人、あたしたちがいなくなったら死んじゃうんじゃないかな”って思うほど。
でも、あたしたちはパパを置いてきた。向こうが悪いに決まってるけど、でもやっぱ置いて逃げることに罪悪感があって、だからパパのこと嫌いになろうとして必死だったし、パパにも嫌われたかった。そうじゃないとお別れしても心で繋がっちゃうなと思ったから。
それが悪いことだったとは思わない。あのままあそこにいてもあたしたちは幸せになれなかった。パパは可哀想だけど、でも、あたしたちにはあたしたちの人生があると思うから」
わざとブランコをこいで軋ませながら、冗談めかして「逃げちゃえば? ぜんっぜん事情も何も知らんけど……田所には田所の人生があるし、誰に何言われても深優姫さまが許すよ」と言ってみる。
難しい顔をしていた陽が、へにゃっと笑って「鉢倉さまが許してくれんならいっかぁ」と言った。
ふっと思い付きのように深優姫は「栞乃ちんのこと連れて行くのは絶対に無理?」と尋ねてみる。できれば在原栞乃という親友の想いが報われてほしい、という考えがあった。
ブランコから降りて思い切り伸びをした陽が「今日はありがとな」と左手を広げてみせて、歩いて行ってしまう。
深優姫はぽかんとして、そのまま呆然と陽の背中を見つめた。それから、何だかわからないなりに追いかけて、陽の腕を掴む。
「い、今――――傷ついた!?」
「何だよ……わけわからんイチャモンつけてくんなよ。家まで送っていった方がいい?」
「違う! 違う、違う! 今、傷ついたでしょ? なんで傷ついた!? あたしも大概デリカシーないんだからちゃんと言ってよ! わかんないよ! なんでいつもそうなの、田所…………」
「別になんも怒ってないよ。鉢倉こそ、そんなびくびくしてなくていいだろ」
「怒ってるんじゃなくて傷ついてるんだって、それだけはわかるし。お願いだからちゃんと言ってほしいんだけど。このまんまいなくなりそうで嫌だ。言いたいこと言えばいいし、田所のやりたいことやればいいじゃん」
陽は何も言わず、深優姫が掴んでいた腕を振りほどいた。「まっ、て」と言いかけた深優姫の腕を、今度は陽が掴む。それから深優姫の腰の辺りにも手を回して、そのまま強引に抱き寄せた。体が浮くほどの力で、深優姫は抵抗する気にもならなかった。いつもそんなに大きいと感じたことはなかったが、深優姫の体をすっかり覆ってしまうほど陽は大きかった。
「田所……?」と恐る恐る声をかける。
「やりたくたって、やっちゃいけないこともあるだろ」
耳元で声が聞こえてくすぐったかった。この男が自分に好意を抱いている、という前提条件をすっかり忘れていたことに気付く。言い訳をするとすれば、これまで陽が深優姫に対して親愛以上のものを見せたことはなかったのだ。だから忘れていた。否、いま初めてちゃんと知った。
「たとえば――――鉢倉深優姫をこのままどっかに連れ去ってしまいたい、とか」
心臓の音がうるさい。
公園の中では、依然として狂ったように桜が散っている。暗闇の中で真っ白に見える花弁が、街灯に照らされた時だけほんのり薄紅に変わった。
――――どうか。どうか応えてくれ、と。
心の底からそう懇願する声が聞こえてきた気がした。
深優姫はそれが悲しく思えて、ひとひらの憐れみがそんな彼に応えようとしていた。
昔、まだ子どものころ。子犬がずっと後ろをついてきて、家までずっとついてきて、母に飼ってもいいかと訊いたがダメだと言われてことがある。
『随分人懐っこいワンコやねえ。前に誰かに飼われとったんやろか』
子犬は怪我をしていた。それで、くんくん鳴いて、幼い深優姫を見ていた。
『かわいそやけど、あたしらも遠いとこに引っ越すんやし、今この子は飼えないんよ、深優姫ちゃん』
撫でたりしたらあかんよ、と母は言った。
そんなことを、なぜだかはっきり思い出した。
深優姫は咄嗟に、陽の胸の辺りを押して突き放す。影になっていて、陽の表情はよく見えなかった。
それから深優姫は陽の胸倉を左手で掴んで、思い切り引き寄せる。今度は表情がはっきり見えた。驚愕、という顔をしていた。
両手でしっかり陽の頭を掴み、そのまま力任せに髪を撫でまわす。髪にくっついていたらしい花弁がパッと散った。
「なに? なになに??」
「よーしよしよしよしよし」
「ムツゴロウさん??」
気が済むまで陽の頭を撫でまくって、ふと手を離す。それから今度は深優姫の方から陽を抱きしめ、ぽんぽんと背中を叩きながら口を開く。
「一緒には行けません!!!! あたしにはあたしの人生があるから!!!! ごめんね!!!! 偉そうなことばっか言って、デリカシーも小指の先ほどしかなくてごめんね!!!!」
「声がでけえ~~~~耳元で声がでけえ~~~~」
陽のことを離し、半歩後ずさった。それから陽の眉間を軽く指で突いて、「ここ。そんなに顔しかめてると皴が取れなくなるよ」と言ってやる。陽はやはり顔をしかめながら自分の額あたりを右手で押さえた。
「…………。ごめん、調子乗ったわ。雰囲気でワンチャンあるかな~って思っちった」
「ワンチャンとか言うなや」
「ちょっとはぐらっと来たか?」
「……全然。昔飼いそびれた犬のこと思い出してた」
「昔飼ってた犬じゃなくて飼いそびれた犬なんだ……」
割と長めのため息をついた陽が、「ほんとごめんな。無言電話するに飽き足らず、こんなんじゃマジでストーカーとして通報されても言い訳できねえな」とちょっと落ち込む。
「別にいいよ。こんな時間に電話してきて『お姉さんとその彼氏に料理を振る舞いたい』って言ってきた人もいるし」
「どういうことだ??」
「春だからしょうがないよね、ってことだよ」
ふうん、と陽はあっさり納得してちょっと目をつむった。それから目を開けて笑いながら、「でもオレなりに本気だったんだよ、鉢倉。四月馬鹿でも何でもなくてさ」ときっぱり言った。深優姫は「うん」と答える。
「あたしのこと、好きになってくれてありがとう」
「……つれぇなぁー」
もう一度、深優姫は「うん」と呟いた。
あたしたちはきっと、みんなその気持ちを知っている。
打って変わっていつも通りヘラヘラ笑った陽が「じゃあ今日のことは水に流していただいてよろしいですか?」と首を傾げた。深優姫は腰に手を当てて、「仕方ないにゃあ」と肩をすくめる。
「深優姫さまは寛大な心を持っているので。うん。てか、今日あたしが言ったえらそーなこととかも水に流していただけるんですよね」
「それは流さない」
「なんでよ!!」
大事に持っていくよ、と陽は言って笑う。「なんでよ!! 流してよ!!」と深優姫はもう一度抗議した。
陽はけらけら笑いながら「もう遅いし、送ってくわ。ほんとありがとな、こんな時間に探しに来てくれてさ」と深優姫の手を軽く引っ張る。
「それは別にいいし。あたしが勝手に、なんか心配になって来ただけだし」
「コンビニはいいの?」
「コンビニ……?」
思わずという風に噴き出した陽が、「やっぱわざわざ探しに来てくれたんじゃん」と言って腹を抱える。深優姫は思い出し、顔を真っ赤にした。
*****
陽が家に帰ると、ちょうど陽と栞乃の家の真ん中あたりに栞乃が膝を抱えて俯いていた。栞乃、と声をかけると顔を上げ、彼女は痛々しいほど明るく笑いながら「ストーカーでーす」と手を振る。酒でも飲んでるのかな、と陽は思った。
白けたような沈黙の後で、栞乃は咳払いをする。
「今日のこと、謝りたくて。今日っていうか、もうほとんど昨日だけど」
「……いいよ、気にしてねえし。オレこそ、栞乃の気持ち考えてなかったわ。ごめん」
もっと怒っていいのに、と栞乃は苦笑した。
「あれからずっと考えてたの。私だったら、すっ……好きでもない人からあんなことされたらトラウマになっちゃうなって。陽は優しすぎるよ。私、馬鹿だもん。はっきり言ってくれなきゃ期待しちゃうよ」
陽は何も言わずに、栞乃の隣に腰を下ろした。片膝を立てて、そこに腕を置く。「何時からここにいるの? 寒いじゃん。風邪ひくって」と栞乃のことを見ないまま言った。それからちょっと黙って、不自然なほど黙りこくって、その後で口を開いた。
「お前のこと、そういう風には見られない」
「絶対? 大人になっても?」
「うん。絶対」
えー、と冗談めかして笑った栞乃が俯いて膝をぎゅっと抱きしめる。しばらく、嗚咽交じりの泣き声が響いた。
「大人になりたかった。大人になりたかったんだよ」としきりに栞乃は言った。陽にはそれがよくわからなかった。栞乃は気づいたら大人になっていたし、陽からすれば恐怖を覚えるほどだった。
「だから、オレのことなんか忘れてくれ」と陽は言った。
涙を拭って顔を上げた栞乃が、「私のこと嫌い? 私なんかに好きでいてほしくない?」と訊いてくる。陽はゆるく頭を振って、「そういうわけじゃない。お前がオレのこと好きだって言ってくれた時、嬉しかった」と答えた。栞乃は唇を噛んで、「じゃあ忘れないよ」と断言した。
「あのね、陽ちゃん。私はあなたのことが好きだったの」
「おう……」
「あなたのことを好きだった私は幸せだったの」
不意に栞乃は自分の両手を陽の前に出して、「見て! 爪! 陽ちゃんはいっっっかいも気づいてくれなかったけど、塗ってるの! あなたにちょっとでも可愛いと思われたくて頑張ったの!」と叫ぶ。陽は動揺して「えっ、え、ごめん」と謝った。
「私はね、陽ちゃん。あなたに恋をして、十五年。この十五年、つらくて苦しくて気が狂いそうなこともたくさんあったけど、でもすごく楽しかった。あなたのことが好きで、あなたにも好きになってもらいたくて、あなたのことを想うと私の全部はキラキラした。だから忘れないよ、全然嫌な思い出なんかじゃないから。いい? 陽ちゃん。私はあなたに出会えて、あなたに恋をしたから、こんな世界でも生きていて楽しかったの!」
砂利を払いながら立ち上がり、「たとえ叶わなくてもだよ、陽ちゃん」と栞乃は言う。呆然としつつ陽も隣に立った。
「……また明日ね」
「…………」
「おやすみ」
「うん……おやすみ」
小走りで去っていく幼馴染を見て、思わず「栞乃っ」と声をかけてしまう。栞乃は曖昧な表情で振り向いた。
「爪……綺麗だな。ちゃんと切りそろえてて」
思い切り吹き出した栞乃が、「はよ寝ろ!」と言って自宅に入っていってしまった。
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