第6話 僕らは停戦合意破棄の危機を迎えたⅢ
【前回までの振り返り】
・
すごい負けず嫌い。
田所陽のことが好き。
・
不良がこわい。
鉢倉深優姫のことが好き。
・
きっぱり言うタイプだが、言った後で『言い過ぎたかな』ってずっと気にしてる。
源元惇平のことが好き。
・
料理の仕事をしようと思っている。これは夢ではなく達成目標。
在原栞乃のことが好き。
*****
休日、昼前に起きてきた深優姫はリビングのテーブルに母の財布を発見した。「うわ、また忘れてんじゃん」と呟きながらスマホで母にメッセージを送る。母からは『萎え』とだけ返信が来た。萎えじゃないよ、とため息をつく。
『持ってこっか?』
『いいよ』
『暇だから持ってく。今日銀行いくって言ってたじゃん』
『いいって』
そうと決めたら即行動の深優姫は、ちっちゃなバッグを肩からかけて靴を履いた。母のパート先はギリギリ歩いて行ける距離だ。
昼間から千鳥足のおじさんがすれ違うような通り。「この辺ほんと治安悪いなー」と深優姫は眉をひそめた。
他のところで仕事見つけたら? と母に何度か言ったことがある。それでもそのバイト先の時給単価と自由度は他にないのだと言って、母はもう5年はこの通りにあるファストフード店で働いていた。
不意に怒鳴り声が聞こえてきて、とっさに頭を庇うように手を上げてしまう。まだ若い茶髪の男が、髪の長い女の人に腕を振り上げながら怒鳴っていた。振り上げているだけで殴っているわけではないにしろ、女性はひどく怯えている。
深優姫は立ち止まり、深呼吸をした。何か言わなくちゃ、と瞬時に考える。
ドキドキした。もう、走って母のバイト先まで逃げてしまいたかった。
(あたしが言わなくちゃ。他の誰も助けてくれないんだから)
声が出ない。ただ突っ立っているだけだ。額に汗が浮かぶ。現状何もできていない自分に苛立ち、何もできていない時間が長くなるほど焦燥感で喉が潰れる。一歩近づこうとして、視界が歪んだ。気付いたらアスファルトに手をついていた。すっかり腰が抜けている。
ほんの少し、男の怒鳴り声が耳に入っただけでこの体たらく。何より自分で自分に失望した。
「あー! すません、すません、ちょっと」
知っている声が聞こえて、深優姫は顔を上げる。そして目を疑った。厚手のフリースをきた陽が走ってきていた。
「ちょっと声デカいっす、すんません」
怒鳴っている男と怒鳴られている女性の間に割って入る。
「ここら辺飲食の店多いんで、全部の店から営業妨害で訴えられるっすよマジで。これガチっす」なんて陽は適当なことを言う。
「黙ってろクソガキ。関係ねえだろ、しゃしゃんな」
「すんませんマジ。でも警察呼ばれてますよ、たぶん。いつまでも怒鳴ってたら心証よくないっすよ。もう来ますもん、警察。絶対来ますもん」
「うるせえよ、呼ぶなら呼べよ。呼んでみろ」
はあ、と長めのため息をついた陽が突如として目尻を吊り上げ「るせえのはそっちだろうが、ダセえんだよ」と怒鳴った。男は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして固まる。
「怒鳴ってりゃ通ると思ってんのかよ。んなわけねえだろ。普通、怒鳴ったら怒鳴り返されるんだよ。とにかく邪魔だからどっか行け酔っ払いが」
一瞬の沈黙。男が何かごちゃごちゃ言い出しそうなのを見て陽が追いたてるようなそぶりを見せる。すると男の方が「うわ」と言いながら速足で去っていった。
助けられたはずの女性も陽のことをちょっとおっかなびっくり見て、頭を下げながら逃げていく。
残された陽が頭を掻きながら「こえー。あんなんほとんどヤクザじゃん。殴られなくてよかったー」とぶつぶつ言いながら歩いてきた。その場にへたり込む深優姫を遠目で見つけたようで、軽く悲鳴を上げて驚く。
「は、はっ、はちくら!!?」
小走りで「何してんの?」と言いながら陽が近づいてきて手を差し出してくれた。しかし深優姫は咄嗟に自分の頭を守るような仕草をしてしまう。
「……なんか、こわがらせてごめん」と陽はその場に膝をつき、なぜだかそのまま正座した。通りの端とはいえ、アスファルトの上である。
「立てる?」
「…………ほっといて」
「いや、でも……治安悪いぜ、この辺」
知っている。深優姫だってこの流れで一人になりたくはない。ただ目の前の同級生に縋るのも難しかった。先ほどの怒鳴り声がやっぱりちょっとこわかった。いいやつだと知っていても、である。
陽はちらりと腕に巻かれた時計を見て、「あー……」と口を開いた。それから意を決したように「ごめん」と言って深優姫の肩と膝の下に手を回す。
「!!? ちょっと!!!」
「ほんとーに悪い。でも俺バイト中でさ、そろそろ戻んないと大目玉なんだよ」
「……えっち」
「マジで下心ないって。ないとは言わないけど今この瞬間だけは無にするって。鉢倉はさ、おふくろさんに会いに来たんだろ?」
「は? なんで知ってんの?」
「バ先が一緒だから」
「なんで言わないの!?」
「名字が一緒だから薄々そうなんだろうなってずっと思ってたけど、気まずくて言い出せなかった」
それから深優姫は陽に抱えられたまま母のパート先であるファストフード店(陽のバイト先でもある)に到着し、母からは「あんた本当に来たの? いいって言ったのに」と散々呆れられ、ここに来るまでの紆余曲折は陽から伝えられた。といっても深優姫はその場にへたり込んでいたほとんど無関係の人間なのだが。
すると母は心配そうな顔をし、そうかと思えば何か悪戯を思いついたような顔をして、「ちょっと田所くん。うちの娘、家まで送ってってや」と言い出した。
「えっ」
「一人で帰すわけいかへんでしょ。店長にはいい感じに伝えとくし、おばさんが田所くんの分働いて給料は減らへんようにしてもらうから」
「いや、じゃあオレが残るっすよ。鉢倉さん一緒に帰ってあげてくださいよ」
「何言うてんのよ」
そう言って母は陽の背中を思い切り叩いた。陽は「ぐえっ」と声を上げる。
「っったぁ~~~。背中いたぁ……火つけられたかと思った」
「男の子でしょ。うちの娘のこと、よろしくね」
「はぁ……」
いまだに痛がっている陽に、深優姫はさすがに申し訳なくて頭を抱えながら「ごめん……」と呟く。陽は肩をすくめて、「いいよ。バイトさぼれるし」と言ってくれた。
歩けるようになっていたので、何となく陽とは不自然に離れて歩きながら深優姫は俯く。陽もこちらに声をかけてきたりはしなかった。
だけどさすがにこんな態度はどうだろうかと思い、「ごめん」ともう一度言ってみる。「いいよ、全然。オレもごめん、いきなり触って」と返ってきた。
「……あのさ、言い訳……していい?」
「うん」
「…………。うちの父親、殴る人だったの。だから関西から逃げてきたの」
「そっか」
「だから結構……子どもの頃から、男の人ってこわくて。てか、なんていうかな。殴ったりするのが選択肢の一つにある人がこわくて」
「そうだよな」
「田所がうちの父親みたいのじゃないって知ってるし、いいやつだってほんとにわかってるんだけど」
「うん。こわがらせてごめん」
さらりとそう言って、陽はこちらを真っ直ぐに見る。「ほんとにごめんな」と言い切った。
「鉢倉が嫌なら、友達でいるのもやめる」
「そ、そういうんじゃない。ただ、田所はいいやつなのにどっかでそういう風に思っちゃう自分のことが嫌になるだけ」
「いや、これについてはマジで言い訳のしようもないし。鉢倉に言われてすげえ反省してるし、逆にありがたい……というか、うん」
微妙な空気の中、「じゃあこれからも友達でいてくれるか?」と陽が訊ねてくる。気まずく思いながらも「こちらこそ友達でいてくれたら嬉しいです」と深優姫は答えた。
「前に栞乃ちんがさ、あたしたちの他に友達いないんだーって言ってたけどさ。たぶんあたしもそうなんだって、あたしの方こそそうなんだって、思うんだよね」
「そうか?」
それから変に会話が途切れてしまって、無言で歩いた。先ほどよりは少し近づいて、真横に並びながら。深優姫の家が近づいてきた。
「鉢倉って、やっぱすごいよな」と、不意に陽が声に出す。深優姫は驚いて「何?」と聞き返した。
「いつも学校の男子とかにさ、間違ってると思ったら立ち向かってるわけじゃん。こわいんなら尚更、やっぱすげえよ鉢倉は」
「……いや、なんか……そういうのってほとんどパニックっていうか、なんかやらなきゃって思って目の前真っ白になっちゃって、自分で何言ってるかわかんなくなっちゃうんだよね」
「それがすげえんだよ。オレさ、鉢倉のそういうとこすげえ好きなんだよな」
「へぇ~~~全然わからん」
「なんかいつも鉢倉のこと見てると、勇気? 勇気が湧くんだよな。オレも頑張ろうって思えるんだ」
「すごい恥ずかしいこと言うじゃん……」
「うん。でも、本気だ」
深優姫の家が見える。歩きながら、「なんか色々すげえ難しくてまとめらんないんだけど」と陽は言う。
「どんなにこわくても、理想の自分になりたいって気持ち、あるよな。理想の自分ならこうするはずだから、やらなきゃって思ったりすること」
田所もそうなの、とは訊けなかった。
「でもさ、鉢倉。やっぱ一人でやんなくてもいいんじゃないかな。オレたちしか友達いねえって言ったけど、少なくともオレたちはいるんだからさ。おふくろさんもいるし、お姉さんもいるんだろ。みんな鉢倉のこと好きだし、鉢倉が戦うんなら一緒に戦いたいって思ってるし。少なくとも、オレはそう思ってるよ。
誰も助けてくれないって思ってる? 呼べよ、まず。オレは鉢倉のこと好きだけど、別にだからってわけじゃなくてさ、普通にオレもかっこいいことしてえわけよ。だから、かっこいいことするとき、オレたちのことも呼べよ」
立ち止まった陽が、「じゃあな。おふくろさんによろしく」と言って手を振りながら去っていく。呆然としてた深優姫も、すっかり遠くなった陽の背中に向かって「今日はありがとーっ」と言いながら手を振った。
*****
夜に帰ってきた母が、「いやぁ……まさか田所くんがあんたん友達やったとはね。同じ学校だっちゅうことは知ってたけど、全然言うてくれへんのやもん、田所くん」とソファに身を沈めながら言う。
「で、どやったん?」
「どうって何」
「帰りよ! いい雰囲気なった? 告られた?」
「いや……」
いや、告られたといえば告られた。というかずっと告られている。
そういうんじゃないから、とだけ深優姫は言ってちょっと顔を赤くしてしまった。それを目ざとく見た母が「何や、田所くんったら奥手すぎひん?」とにやにやする。
「でも田所くん、あんたのこと好きでしょ」
「はぁ???? なんでわかっ……いや違っ」
「せやろ? わかんねん、もうこの歳になると」
ご機嫌な母は伸びをしながら「田所くん、ええわあ。ええこやわぁ、ほんま」と嬉しそうに言った。
「あの子と一緒になったら幸せやろなぁ。どうしたって嫁さん守るでって気概を感じるわ。知ってるぅ? あの子、四人きょうだいの長男やねんて。ほんま面倒見よぅてすごいのよ。あんたはどうなん。田所くんのことどう思ってん?」
「……いいやつだと思うよ。思うけど、だからってすぐ付き合うとかの話にならへんやんか。ママ、デリカシーなさすぎ。田所はいい友達やけど、うちにはうちの気持ちがあるやんか」
「もぉーごめんて。田所くんもええこやし、ちょっとテンション上がってん。青春やねえ……」
母は缶チューハイをちびちび飲みながら「ママの若い頃もねえ」と話し始める。深優姫は少しうんざりして「お風呂冷めないうちに入ってよね」と釘を刺して部屋にこもった。
ベッドに潜り、今日のことを考える。なぜだか全然眠れなかった。
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