第5話

「中学では、新しい人間関係がありました。私はそこではヒエラルキーの底辺ではありませんでした。そこで私は観察しました、ターゲットはどのような生徒なのか。彼らの特徴は様々でした。運動が苦手、勉強が苦手、声が小さい、独り言が多い、背が低い、顔が美しくない、衣類が汚れている、髪が臭い、声が高い……それらはどれもそう・・なるための必要条件ではありませんでした。共通するのは強者になろうとしないこと――分かってみれば簡単なことでした。ほどなく彼らは自らが底辺であることを自覚して、且つ弱者として振る舞い出す。彼らが、なんとか好かれようと見当違いの方法で強者に媚びだす姿は滑稽です。そして私は『観客』としてそれ・・を愉しむことを知りました。何故古来から社会が弱者を作り上げるのか、理解しました。楽しいんです」

 窓の外は暗い。とぷとぷと流れる黒い川。

「楽しいんですよ。人をいじめるのってね」

 夜の深淵から聞こえてくる、闇の告白。

「軽蔑しました?」

 少年の声はぞっとするほど冷たい。

「……篠原くんはさ、あたしが、その、『弱者』だから声を掛けたの?」

 真帆は、篠原少年の告白をどう受け止めていいのかわからなかった。――ただ。

「バカで、強くなれなくて、お金くれる人に媚びて生きてる姿を、眺めるのが楽しくて、こんなところまで連れてきたの?」

 ――見下みくだされていたのか。こんな子供に。

「否定はしません。深く考えずに引き受けてくれそうな人を選んだのは事実です」

「まあ……確かに底辺だけどさ」

 もやもやとした気持ちを言葉にできないまま、真帆は壁を向いた。

「バカをからかって、それが楽しいだなんて……ひどいよ……」

 背中合わせの少年から返事はなかった。


 いや、違う。真帆は考える、そんなはずはないと。ちゃんと思い出そう。彼はいつだって真帆に丁寧に接していた。だから真帆は一度だって媚びる必要などなかった。

 篠原少年は真帆を下に見ていたんじゃない。むしろ。



 翌朝早くホテルを出て、レンタカーを借りる。

 昨夜の気まずい空気を引きずって、二人は無口だった。ナビの示す通りに街を出て、東へ向かってひたすら走る。車はすぐに山道に入った。

「――わかるよ。いや、わかってないかもだけど」

 口火を切ったのは真帆だ。

「あたしもねぇ、小さい頃から周りにバカだって言われてきたのよ。のろくて、何やっても失敗ばかりで。自分でも分かってたの、バカだなって。だって、みんなが言ってること半分もわかんないんだもん。授業なんて宇宙語だよ。でもみんなはできたから、宇宙人はあたしの方か。まあとにかくさ、みんなが言うわけ、あたしはバカだって。親も友達もね。だからなんかわかるよ、篠原くんの言ってること」

 変わってると言われ続けてきたという篠原少年。そこだけは親近感を覚えた。

「――あ、ごめん、篠原くんが私と同じバカだって言ったんじゃなくて。でもさ、なんか――似てるなって思ったんだ。うまく言えないけど――」

「周囲の人間に規定された人間像を生きている点が、ですか」

「あー、うん、まあ……うん」

 相変わらず、篠原少年の言い回しは小難しい。

「確かに、私は中学で『底辺ではない自分』を演じることを覚えました。変わっているとはまだ言われますが、周囲に合わせることを学び、『ちょっと変わっているけど対等に付き合える相手』というポジションを獲得しました。『この世界は舞台だ。人はその役者』――シェークスピアの言葉です。真帆さんも私も、ずっと与えられた役を演じてきた――まるで道化フールのように」

 愚かに媚びる人間を嘲笑わらう、愚かな人間たち。

「この世は愚者で満ちている……私はコロセウムから逃げ切りました。死ぬまで戦わせられる役を、ようやく降りた。そして愚かにも、今度は観客という役を演じている――」

 くねくねと曲がりくねった峠道がひたすら続く。カーブの向こう側がどうなっているかなんて、見えない。

「それが、篠原くんの深淵?」

「私は怪物になってしまったんです」


『まもなく目的地です』

 ナビが言った。

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