第6話 司書さん、危うし

(目が霞んできやがった)


 あと少しで読み伏せられるのに、このうざったい光は抵抗することを諦めない。さっきの衝撃は最後の足掻きなどではなく、徹底抗戦の意思表示だろう。

 最近の鈍った俺にとってかなりきつい状況だ。身体の疲労や精神の磨耗はもちろんだが、それより不安なことがある。


(十三章の後半、もう少しだ)


 胃の奥から迫り上がってくるのは言いようのない焦燥だ。急がなくてはこの魔導書が何をしでかすかもわからない。


(あと十ページがこんなに遠いのか)


 地面や空間に出現する小さな魔法陣、そこから蔵書鉄鎖が伸び、魔導書「勇気の蝶番」をきつく捉えた。


「これは——」


 突如として背骨に響く鈍痛は、肩甲骨を破壊したのではないかというほどの衝撃がもたらしたもので、きっと肌には真っ赤な掌が浮かんでいることだろう。


「没入・合読レビュー


 本来レビューは複数人で魔導書に対応する時の技だが、フルダイブに割り込むなんて強引すぎるやり方だ。しかも相手はレベル5である、技術に自信があるのか、恐れを知らない馬鹿なのか。わかるぜ支部長、あんたはその両方だ。


「何が起きてもおかしくないレベル5だ、このまま読了までいくぞ」

「支部長、もっと早く来てください。というか私じゃなくて」

「イリスに任せておけ」


 それももっともな話で、だけど心は落ち着かない。そぞろのままでは読み伏せられないのだが、この掻き立てられる不安こそが俺の集中力を持続させている。


「最後の一節、譲るよ」


 レビューは負担を分散させ読むスピードも上げることができるが、予め読み伏せた魔導書をどうするかを決めておかないと大変なことになる。手柄を独り占めしようとして他の参加者を殺す奴もいるのだ。それを支部長は危惧したわけでもないだろうし、手柄なんかいらないけど、それに甘えることにした。


「『私は好機を生み出せない。踏み出す足もない。しかし、そこに至る扉を閉めたままにはしない。誰かのひと押しが私を動かす』」


 読み伏せの最後は意外とあっけないことが多い。レベルにかかわらず、本は自分を知るもののために死す、なんてことはないけれど、大人しく鉄鎖をまとい佇むのだ。ウィンディを閉じ、その場に腰を下ろした。極度の疲労で腰から下に力が入らなかった。


「ご苦労。村雨にいばれるじゃないか」

「そんなつもりはありませんよ」


 それにしても。と実戦から遠ざかっていただけに、口からため息が突いて出た。


「疲れましたよ。ただの散歩がレベル5との遭遇だ、この町にも魔導書の古ぼけた匂いがするようになるのでしょうか」


 腰を下ろし、光を失った魔導書に目をやると、鉄鎖の隙間からかろうじて表紙が見えるくらいの厳重さで戦技官たちにより梱包されていく。このまま本部まで輸送されるのだ。

 誰かのひと押しが私を動かすとあったが、魔導書にしてはまともなことをいうじゃないか。振り返れば、あの本には黒々とした粘性を持つ感情はほとんどなく、眩しいばかりの、人を前進させるに足りうる言葉が並んでいた。呪文だから口語やただの文章というものでもないけど、それでも悪口よりはずっと読みやすい。


「それはお前次第さ」


 彼女は喉で笑う。「それに、いいのか? 格好悪いところを見られるぞ)


「どういうことですか?」

「司書さん!」

「ぐわっ」


 走ってきた掛羽さんはラリアットのように俺の首に腕を回した。その勢いで後ろにひっくり返りそうになったが、片手を突っ張り棒のようにして支えて情けないところを見られるのだけは阻止した。無茶な支え方だったから、ちょっと手首を捻った。


(痛えが、この子の災難に比べりゃあ、どうってことはねえんだ)

「司書さん! 私、私——」

「大丈夫ですよ掛羽さん。イリスさんは良い人だったでしょう、それにこの人があのお化けを退治してくれましたからね」


 笑わないでよ支部長。イリスもそのニヤニヤをやめろ。


「私、怖くて、それに何がなんだかわからなくて」

「もう大丈夫ですよ。大丈夫、もうすぐこの妙な場所からも出られるでしょうし」


 ブラインドがどうとか魔導書がどうとか、そんなことは教えたくない。彼女にとって本とは、そんな存在であってはならないんだ。


「ご苦労、姫昏」

「イリスさん。彼女を守ってくれて感謝していますよ」


 涙を流す掛羽さんをそっとはなし、立てますかと声をかけた。もっと泣かせてやれよと支部長は言うが、そうもいかん。事後処理や事情聴取もあるだろうし、掛羽さんには申し訳ないが、この足で家まで帰ってもらわねばならんのだ。


(記憶を消してやってくれ)


 支部長へとアイコンタクトをしたが、鼻で笑われた。イリスにも同様な対応をされた。このくらいの処理を惜しむような連中ではないはずなので、何かきっと裏がある。


「お化け退治。妙な空間。なるほど、司書さんはそうやって言いくるめるのか」


 支部長は掛羽さんの頭を撫で、脇に手を入れて俺から離した。


「あの、あなたは一体どなたでしょう?」

「あはは、馬鹿みたいなとぼけ方をするなよ。支部長だよ、いつも嫌になるくらい顔を合わせているだろ?」

「私をさん付けするくらいですからね。今回の魔導書は精神錯乱を強要させるものかと思いましたよ」

「あー! 何を仰っているのかわかりませんね! 掛羽さん、ちょっとこちらへ、別なところでお話しましょう!」


 彼女は離れたばかりの俺の元にちょこんと座り、涙を拭って無理に微笑んだ。


「司書さん、私、もう知ってるよ?」

「へ? 何を知って、いや、あなたは物わかりがいいから、な、何をご存知でも驚きませんが……」


 血の気が引く音が聞こえるようだった。青ざめる俺、ニタニタ笑う見知った顔、そして健気な少女。


「この後に及んで隠すなよ」


 支部長の高笑いが空に響く。そこに光を伴う鐘の音が重なった。

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