第3話 司書さん、知ってる?
「ねえ司書さん」
「はい、なんですか」
彼のおすすめとは神崎
「これ、結構難しいね」
難しい漢字が多くて読むのにかなり苦労しそう。きいたことのない言葉がたくさんあるし、だけどストーリーは正義が悪をやっつける王道で、いい感じにワクワクする。
「私もそれを初めて読んだとき、そう思いました」
「いつ読んだの?」
「あなたと同じ歳くらいのときでしたよ」
当たり前だけど、司書さんにもそんな時代があったんだね。そういえば歳はいくつなんだろう。
「なんだか懐かしいです。自分で辞書を引いて、わからない語句は誰かにきいたりしながらどうにか読み進めました。そうするとだんだん面白さが掴めてくるのです。おすすめしたのは、もしかしたら、そういう苦労のぶんだけ評価が高くなっているのかもしれませんね」
その気持ちはわかる。いっぱい勉強してテストでいい点を取れた時に似ている気がする。
「もしよかったら、別な本もありますけど」
「んー、これでいい。これがいいの」
自分でも不思議なくらい、途中で諦めるということを考えなかった。この本がつまらないものじゃないことはわかるし、それに、
「司書さん。辞書ってあるかな」
「もちろん。すぐに用意しますね」
「それとさ、わからないところがあったら、きいてもいいかな」
それに、ええと、私の勉強にも繋がるし、やっぱり読書って素敵だね。
「もちろん」
彼は優しく微笑んでいる。茶目っ気たっぷりに「神崎を読むなら私も勉強しなおさないとなあ」と辞書の棚に向かっていった。
それから私は捕物商売とにらめっこでもするようにして熱中した。司書さんが昔苦労しただけのことはあって、数ページ進むと初見の単語が現れ、それを調べるとまた新しい単語が、というようなモグラ叩きが連続するから、
「司書さん」
と小声のボリュームを最大にして彼を呼ぶ。
「今行きますね」
嫌な顔ひとつせず、質問に答えてくれる。何度目かの呼び出しで、ついに彼は私の正面に座って、何かの書類にペンをいれていく。
「ごめんね。邪魔しちゃったよね」
「とんでもない。むしろ私がここにいると、読書の妨げになりませんか?」
「誰かと本を読むのは慣れてるから平気だけど。司書さんのお仕事を中断させちゃってるから」
彼は書類に目を落とし、これは、と裏返し白紙の面をコツコツとペンで叩く。
「夕飯の材料をメモするだけですよ」
それが嘘なのはなんとなくわかった。優しい嘘という小説の中のお決まりのやつで、だけど初めてわかった、それをされるとくすぐったくて、嬉しいようなそうでないような、不思議な気持ちになるんだ。
「……いつも何食べてるの?」
ページをめくる。「拘泥」とはなんなのか、これは家に帰ってから調べよう。
「いやあ、お弁当を買ったり、出来合いのものばかりです」
正直な人だから、夕飯の材料なんて嘘はもう破綻している。
「それじゃあ体に悪いよ」
「あはは。仰る通りです」
「司書さんにはレシピ本が必要かもしれないよ?」
彼はなるほどと手を打って、本当にそれを持ってきて読み始めた。「誰でもできる料理百選」という古ぼけた表紙のものだ。
「ははあ、調味料から揃えないといけませんね」
「なんてやつ?」
「恥ずかしながら我が家にはごま油もなければ味噌もなく、酢もミリンもない始末でして」
お父さんが台所に立つと、白飯と醤油だけでいい、なんて言ってお母さんを絶句させるけど、この気持ちはそれに近いのかな。
「もしかして朝ごはんもお昼ごはんも」
「コンビニのおにぎりとかインスタントラーメンとか」
でもこれが一般的な男性司書ですよ、と彼はいう。が、すぐに慌てて額の汗を拭った。
「あ、あの、調理器具や調味料を揃えるところから始めますよ。自炊は準備が整ったらにしますので」
どうやら私は不機嫌な顔つきになっていたらしく、彼の視線はあちこちに飛び回り、居住まいを何度もただし、か細い声ですいませんとちょこんと頭を下げる。
それがなんだか小さな動物みたいに見えて、吹き出して笑ってしまった。
「あはは、司書さんってば。私、怒ってないよ」
そもそも怒る理由もない。司書さんがどんな食生活をしていたって、それは彼の自由なのだ。
(じゃあなんで)
髪を整えるふりをして、シワのあっただろう眉間にさりげなく指を持っていくと、そこにはただ眉間があるだけである。
(怒った、のかなあ)
縮こまる彼にわからない単語を見せると、いつもの司書さんに戻って教えてくれた。不思議な人だ、オドオドしたりシッカリしたり、レシピ本になるほどと頷いたり、目まぐるしく変わる表情は見ていて飽きない。
「あ、掛羽さん。今日からはちょっと早く帰ったほうがよろしいかと」
五時になりきらない時間である。いつもならあと一時間、いや一時間三十分はここにいさせてくれるのに。
「どうして?」
「最近は物騒ですから」
「昨日はそんなこと言わなかったのに」
「いや、あの」
「もしかして」
司書さんは私の言葉を先読みして、口を引き結んだ。首を横にふり、珍しく動揺しているみたい。
「あなたの思うようなことではありません。掛羽さんがここに通ってくれて本当に嬉しく思っています。帰って欲しいなどということは、決してありません」
そして深呼吸を一度した。
「実は料理というものの奥深さに気が付きまして」
その微笑みは、優しい嘘だ。
私はここにいてもいいけど、一人で出歩くのはやめて欲しい。そういう真実を、物騒だとか料理だとかで隠したんだ。
(いつまでも小学生だと思われてるのかな)
たしかに少し前まではそうだったけど、これでも体育は苦手じゃない。
でも、心配してくれているなら、そこをつついたって仕方がないのだ。
「んー、その道は険しいよ、司書さん」
嘘は好きじゃないけど、司書さんの気持ちを無碍にすることもない。私の初めての優しい嘘は、彼に捧げよう。
「ええ、頑張りますとも」
程なく、私は図書館を後にした。去り際に、彼はくれぐれも用心するようにと念押しをした。
「お気をつけて」
「うん。わかってる。じゃあまたね」
それにしても、一体どうしちゃったのかな。暗くなる前に帰りなさいとは言われたことがあるけど、嘘をついてまで追い出すことはしなかったのに。
(もしかして、何か秘密があるのかな)
角を曲がったフリをして、近所にある公園のベンチに座った。本を眺めるフリをして、図書館の方を気にしていると、十分もしないうちに司書さんが出てきた。
慌てて花壇のそばに身を隠す。ばれたら変な子だと思われちゃうけど、ごめんね司書さん、好奇心には勝てないよ。
「どこに行くのかな」
小走りで追いつき、後方二十メートルをキープ。「探偵
「あれ、そっちには何もないはずなのに」
路地に入っていく司書さん。そこを抜けても住宅街しかないし、その先にだってバス停くらいしかなかったと思う。
「バスに乗ったら、ばれちゃうよね」
しかし杞憂だった。すぐに大通りに出て、彼は商店街にあるコンビニや本屋さんに寄って、フラフラと散策をした。夕暮れ時で買い物客は多く、人波を書き分けるようにして追いかけていると、司書さんの姿はなくなっていた。
「あーあ。見失っちゃった」
「誰をです?」
きゃあ、と甲高い悲鳴に周りの人たちがみんなこっちを見た。野次馬たちは何事かと興味津々だが、司書さんは顔色を変えず、
「早く帰りなさいと言ったのに。それに、あとをつけるなんていい趣味とはいえませんね」
「あ、あはは。ごめんなさい」
驚かせてしまった人たちの対応は司書さんがしてくれた。自分の職場と名前を名乗り、一度いらしてくださいなんて広報もしていた。
「さて、掛羽さん」
「あの、いつから気がついてました?」
「ベンチに座っていたあなたが、なぜか茂みへ飛び込んだあたりから」
(み、見られてたんだ。しかも最初から)
あ、初めて見る顔だ。
目を細め、むっと眉間にシワを寄せて怒っているのをアピールしている。寄せきれてない眉はいつもとそれほど変わらないけど。
「ご、ごめんなさい。司書さんのことが気になって」
「私の? ああ、早く帰らせたことですか」
「うん。いつもと違う様子だったから、何かあるんじゃないかと思って」
「そうでしたか。それは、どうも申し訳なかった。散歩をしようと、それだけのことですよ。最近は運動もしていませんでしたし、隣町のスーパーまで行こうと思いましてね」
私は中学に入ってから、特技を身につけた。それは嘘を見抜くこと。特に司書さんの言葉には、何故だかその真偽がはっきりとわかる。
(買い物は本当。運動不足も本当。でも、本当なのに嘘だ)
理由があるんだ。隣町で運動するという理由そのものが膜になって、言葉と真意を不透明にしている。その必要性がわからない。
「司書さん、知ってる? 最近は物騒だから、あんまり遠くに行っちゃ危ないよ」
その必要性が私を不安にさせる。不透明さが胸を締め付ける。私に本の楽しさを教えてくれる図書館の優しい司書さんが、どこか遠くへ、隣町よりもずっと遠くへ行ってしまいそうな感覚が、彼の輪郭をおぼろげにさせる。
「……だからですよ」
「え?」
「いいえ。なんでもありません。さ、帰りましょう。日が沈むまでには家に着くようにしてください」
胸騒ぎがする。お辞儀をして、彼の向けたその背中が、永遠の別れのような寂しさを放つのだ。
引き留めようとしても、その手を掴んだ。
「掛羽さん? どうかしましたか?」
「ま、待って——」
耳に届くそれは、低く振動する音叉のような、大音量のスピーカーの前に立ったような、体の根っこから揺れる重低音だった。
「な、何?」
「掛羽さん、こちらへ」
司書さんは私の手を引いて商店街のお米屋さんに入った。店先じゃなくて、奥の生活空間にまで、しかも土足だった。怒られるかと思ったけど、お店の人はいないし、それどころか商店街のさっきまでの喧騒も無くなっている。
「なんでこんなに静かなの? みんなどこに行っちゃったの?」
彼は私を畳の上に座らせた。微笑みは、どこかぎこちない。
「いいですか。何があってもここから動かないでくださいね」
司書さんは「目を閉じて百まで数えてください」と、私の手で目を隠した。
「いやだよ、ねえ司書さん、何が起きているの。教えてよ」
「私にもわかりません。なので様子を見てきます」
それが嘘なのは誰にだってわかることだった。今日だけで彼はいくつ嘘をついたのだろう。私のために、一体どれほど自分を欺いたのだろう。
「ダメだよ。物騒だって言ってたじゃない」
「大丈夫ですよ。あ、尾行はなしですからね」
こんな時にも茶目っ気を忘れないなんて、私にはそれがひどく残酷なものとして写った。司書さんはこういう不思議なことを日常にしている人で、この人に感じていた不思議な感覚は、つまりこの瞬間と私の日常との乖離によるものだったのだ。
「司書さん!」
泣いていたと気がついたのは、その滴が掌に落ちてからだった。呼び声は届かない。手を伸ばしても触れられない。関係性を断ち切るように、彼は振り返らなかった。
「……百まで、百まで数えたら」
唇が震える。誰かにいて欲しい。だけど、隣には誰もいない。いち、に、と数えるうちに何倍もの速さで心臓が鳴っている。
「怖いよ、司書さん」
呟きは落ちる。ただそこに、正座した膝に落ちる。
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