第2話 ウェールズへの誘い
「これ、受け取ってくれる?」
「いえいえ、いいですよ。さっきも言いましたけど、本にとって」
「ううん、私買うつもりだったから。これまさにその本なの。正当な金額だよ。本を大切に思うからこそ、もらって欲しいの」
「……じゃあ、これもつけますね」
そう言うとマーガレットはテーブル上のスケッチを差し出した。
「えっ? ダメだよ。叔母さんに貸してもらってるんでしょ?」
「大丈夫です。叔母は他にも持ってて、今回のマーケット出店用にあれこれ送ってくれた時、一緒に入れてくれたんです。自由に使えばいいって。飾りにも宣伝にもなりますからね。もちろんB&Bのカード付きで。営業ですよ、営業。だからサラさんにあげます!」
それに、と続くマーガレットの言葉に私もヴェロニカも大いに納得する。こんな偶然そうそうあるものではない。ウェールズで描かれたこの絵が、モチーフから考えて中世の物語と何らかの関係にあることは明らかだし、さらにそれが私の課題とぴったり一致しているなんて……ヴェロニカではないけれど、何か運命的なものを意味しているんじゃないかと思わずにはいられない。もし本当にただの偶然でも、これは持っておくべきだろう。そんなこんなで、私はありがたくスケッチを受け取ったのだ。
のんびりとした午後、まだお客の姿はない。誰に対してもフレンドリーでマイペースなヴェロニカと物怖じせず裏表のないマーガレットは見事に意気投合し、私たちはこの不思議な巡り合わせを前に、再会した旧友のように盛り上がる。
「なんか雰囲気ありますよね、ウェールズって。しばらく行ってないですけど、小さい頃のこと、すごく鮮明に覚えてます」
「確かにね、風景が独特だよね。自然も多いし建物がまた! タイムトリップしたみたいな、そんな気配があるわね」
ヴェロニカの言葉に私も頷く。ウェールズには多くの遺跡が残されている。巨石群に墳墓、修道院、そして圧倒的な数を誇るのが中世の城。それは、もはや石垣だけとなったものから、今もなお秀麗な美しさを見せるものまで実に様々だ。訪れる人々は、廃墟に吹き渡る風の中に遠き日の熱を想い、くすんだ石垣に触れてはるか彼方の声に耳をすますのだ。えも言われる時間がそこにはある。
「叔母のB&B、よかったら行ってみてください。確か、修道院跡も近くにあるはずです」
「いいわね。伝えるのはやっぱり空気感だよ、サラ。単語の意味を超えての雰囲気!」
「なに、その得意そうな言い方。……でも一理あるわね。ただただ字面並べられても心には響かないもんね。中世文学って元は口伝だったりするから、きっとリズムとかも大事だっただろうし。そうね、言葉の中に、描かれるもの以上の日常とか風景とか……そんな何かが感じられたら素敵よね」
最後は半ば独り言のようにうっとりと言葉を紡げば、マーガレットがクスリと笑った。
「サラさん、ウェールズ大好きなんですね。ものすごく幸せそうな顔。恋する乙女ですね。秘めた熱を感じます!」
「でしょお。サラはね、語るわよ、これに関しては。信じられないかもしれないけど、本当よ。もう、止まらないから。夜が明けるから!」
「やだ、ヴェロニカまで……」
思わず口を尖らせて二人を見たけれど、バカにしていないことは一目瞭然だ。逆に私を認めてくれているのが感じられて、なんだか照れてしまう。
「そうそう、おすすめスポットがあるんです。小川にかかる眼鏡橋。森の方で、ほとんど人もいきませんけど、小さい頃よく遊んだんです。この古い橋が、すごくいいんです、雰囲気があって……。おとぎ話みたいなっていうか……」
マーガレットの話すウェールズは北ウェールズだ。さすがに遠く、日帰りというわけにはいかない。でもムズムズと好奇心が頭をもたげる。修道院に眼鏡橋、小川に森。まさにまさにだ。
このチャンスに行かずしてどうする、とどこからともなく声が聞こえたような気さえし、私の中でウェールズ行きは確定となる。遺跡巡りともなればまとまった休みが必要だけれど、都合の良いことに再来週はテスト明けで授業もない。金曜から出かければ充分時間が取れそうだ。
「あっ、そう言えば聞き忘れてましたけど、課題って?」
「『ウリエンの息子オウァインの物語、あるいは泉の貴婦人』よ」
「オウァイン?」
「アーサー王の円卓の騎士なの!」
ヴェロニカが目をキラキラさせてマーガレットに教える。
「それでその人がね、白い獅子を連れてるの。白い獅子だよ。白い獅子! モチーフとしては最高だよね!」
マーガレットがスケッチに目を走らせ、なるほど……と呟いた。
「獅子って……ライオンですよね? イギリスにライオン……。まあ、国旗にはたくさんいますけど……」
「うん、イメージなのかなあって思うよね。強く尊い感じのイメージ。でもね、本当にいたみたいよ」
「ええっ! そうなんですか。架空のものじゃないんだ……」
「大昔だけどね。ヨーロッパホラアナライオンっていうらしいの。それでね、聞いて! それがまた……白なの! 白ベースなのよ。物語と一緒。ちょっとドキドキするよね。まあ、ライオンと言うよりもヒョウみたいな感じなんだけどね」
「白いヒョウ?」
「そう。ユキヒョウみたいな感じ。わかる? 見たことないよね。私もない。だから図書館で調べたの。ねえ、サラ」
白い獅子はくすぐられるモチーフ……アンティーク好きのヴェロニカが、いつになく課題に興味を示す理由はよくわかったけれど、それにしてもかなりご機嫌だ。何かあるなと思いつつ曖昧に頷いていたら、ヴェロニカが急に声を潜めた。
「そしたらその時ね、なんか浮世離れした人に遭遇したわけ。図書館の奥深くで、綺麗な綺麗な人。でねえ、サラったらその人に声をかけられたのよ!」
やっぱり。合点がいった。この下りこそが彼女の喋りたかったこと。ヴェロニカ……と半目で親友を見る私の横で、しかしマーガレットが身を乗り出した。どうやら乙女たちはこの手の話が好きらしい。二人はすでにしっかりと手を取り合っている。
「う、浮世離れした美しさ、ですか?」
「そうよ。すごく綺麗な人で雰囲気のある人。だけど、異常に顔色が悪かったわ。やつれてて、目なんかこう窪んじゃって、影になってて……。何日も寝てないような……。とにかくただならぬオーラが出てたわけ。綺麗な人だから余計なのよね。なんて言うか……そう、あれはもう人ならざるもの的なレベルよ。ああ、これは関わらない方が無難だわって、本能が警鐘鳴らすくらいのね」
「そんなに……」
「いや、待って。それほ」
「そう、そんなによ! そんな人に声をかけられたのよ。わかる? 図書館の一番奥の、持ち出し禁止の棚の前。人なんか滅多にこない場所よ。保護のためなのかしらね? 窓もなくて……それでまたライトが弱いのよ」
「っ!」
私の言葉など聞こえなかったようだ。二人は顔を見合わせて頷きあっている。喉をごくりと鳴らしたマーガレットがおずおずと口を開く。
「で、その人は、なんて……」
「サラが持ってた本を見て『ああ、マビノギオンか、君は趣味がいいなあ』って。で、うっすら笑ったりして……」
ヴェロニカが再現するかのように笑った。それを見たマーガレットははうつむき、ブルブルと肩を震わせる。しかし顔を上げた時、その瞳には光が宿っていた。
「ヴェロニカさん! 暗さに押し負けてます。話がラブからホラーに……戻りましょう。そういう美しさはですね、そうです、妖艶の類なのでは!」
「妖艶? いや、あの状況でそれは……」
「確かに、人気のない古い書架の陰で、人外かと思われるような美しい男性に囁かれるとか、これは囚われまいと走って逃げたくなる気持ちは認めます」
「でしょ?」
「あのね、きみた」
「でもです! それはいわゆるイケメンってことですよね。そこです、重要なのは」
「へ? マーガレット、あんた……」
「そうですよ、ヴェロニカさん! そこまでのイケメンに声かけられるとか、普通に考えて、これはチャンスです!」
またもや相手にされなかった私の発言。本人そっちのけでガールズトーク炸裂。もはや呆れを通り越し、私は興味深く二人を見守る。よくできた寸劇のようでなかなか面白い。
「で、その時、お二人は何を?」
「ああ、古い図鑑を探しに。そうそう、その人、本をたくさん抱えてて、一番上にあったのはなんともおどろおどろしい表紙の」
息を飲んだマーガレットが、くるりと振り返って私を見た。
恋の季節は終わらない クララ @cciel
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