第43話 《月子》 名前







あの日からまた数年経った。



ちづ姉は、酷く衰弱していたけれど、すぐに救急車を呼んだおかげで、一命をとりとめた。

もちろん、お腹の子も無事だった。


正直、着物を着たちづ姉を見て、酷く心をかき乱された。

当たり前だけど、700年前の“雛鶴姫”そのものだったから。


でもあの日、あたしは大塔宮様に会えたおかげで、“あいつ”とも折り合いはつけられた。

ほのかに胸は痛むけど、もうあいつの感情に、大きく振り回されることはなかった。


あいつの思い出も、今ではほとんど思い出さない。


これが正常なんだと思うけれど、少し寂しくも思う。



ちづ姉が戻ってあたしたち家族はちづ姉を支えるので必死だった。

ちづ姉は心も体も、ボロボロだったから。


あたしたちが必死になっているうちに、子供が生まれた。



ちづ姉は、生まれた子に、《護大もりひろ》って名付けた。




大きく護る、って、すごくいい名前だと思う。


直接ちづ姉に聞いていないけれど、もしかしたら、700年前に二人ですでに諱を決めていたのかもしれない。


まあそんなことはないかもしれないけれど、そうだったらいいなとあたしは思っている。


あの人にとって、もらった名前が自分の戒めだったように、やっぱり名前は恐ろしい。


でもヒロには、大きく、のびのび、自由に育ってほしいって思いが込められているような気がする。


もちろん、大きな愛で、この子を護っていきたいって、ちづ姉も、大塔宮様も思っているのだろうから。


その証拠に、ヒロが生まれてからちづ姉はようやく落ち着いた。



ようやく、現代に馴染み始めた。





「――ん。うん。元気にやってるよ。ちづ姉も元気。則祐は?」


元気だ、と携帯の向こうで聞きなれた声がする。


則祐とは、今でも定期的に会っている。

この間は、一緒に東北を巡った。


あたしばかりが懐かしい思いをしたから、今度は一緒に下赤坂や上赤坂に行こうなんて話している。


こうやって時に思い出を風景の中に探して懐かしむことが、お互いの慰めになっている。


あたしたちは確かに700年前、一緒に笑いあって、そうして互いの信念を貫いて全力で生き抜いた。


それは大和も同じ。


あたしは大学院に進んで、本格的に大和の足跡を追っている。


今も変わらず、大和を追い求めている。



『――まだ、か?』


則祐の言葉に、唇が弧を描く。


「まだ」


相変わらず則祐は、大和が戻ったか尋ねてくれる。


もう戻らないこと、則祐もわかっているだろうけれど、そういう心遣いが嬉しい。


『そうか。また鎌倉も行こう』


「うん、行きたい。則祐が上京するの待ってるよ。あ、そうそう、鎌倉と言えば、今日ちづ姉が鎌倉に行ったの」


え? と則祐は驚いた声を上げてしばらく黙り込む。


『……ようやく、か』


「うん。ようやく行く気になったみたい」


ちづ姉は、現代に帰ってきてから、一度も鎌倉に行くことはなかった。


もちろんヒロが赤ちゃんだったから遠出ができないっていうこともあっただろうけれど、東京から出ることはほとんどなかった。


あたしには、どんな心境の変化があったのかわからない。


でも数年経って、ヒロも大きくなって、ようやくあの頃のことに向き合おうと思ったのかもしれない。


けじめ、かな。



前へ進むためのけじめ。


あたしが雛鶴峠で大塔宮様と話ができたのもけじめになった。


ちづ姉も、ようやく前を向いて、雛鶴姫ではなく“桜井千鶴子”として生きていくことを受け入れようとしているのかもしれない。



あの人は相変わらず、ちづ姉の前には現れない。



雛鶴峠で交わした約束はまだ果たされていない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る