第30話 《月子》 魔が差した
トモは満面の笑みを見せている。
何の疑いもないまっすぐな瞳を見ていられなくて、顔を伏せる。
「……羨ましくなるような時代じゃないよ」
小さな声で、ぼそりと呟く。
常に戦。
殺し合わずとも、いつも誰かを蹴落とすために、皆動いていた。
自分の保身と繁栄のために、汚いことだって何だってした。
無論、“あいつ”も――。
「いいんです。僕はこの時代で、気になる人に出会ったから」
「え?」
顔を上げると、トモが本を覗きこんで笑っている。
「天下一の美少年、北畠顕家です!」
その瞬間、両目を際限一杯まで見開く。
一瞬、心臓が止まった。
大きな鈍器で、思い切り頭を殴られたような痛みが走る。
「英才、英傑、幼い頃からとんとん拍子で出世して、ついには東北経営まで任された、すごい人なんですよ! まだざっと読んだだけですが、この人はもっと評価されていい人だと思います!!」
弾んだ声で、嬉々として喋るトモの口を、強引に塞ぎたい。
冷や汗が額に浮かんで、心臓が飛び出るくらい大きく鳴っている。
「そ、そう……。へえ~」
「反応が薄いですよ月子さん! この人はきっと、月子さんのように美しくて、聡明で、とても強い人なんですよ!」
――あんた、覚えてないの?
ねえ。何一つ、覚えてない?
あの時のこと、ほんの少しの欠片も覚えてない?
トモが“あいつ”のことを話すたび、もやもやと黒い影が胸の内を占めていく。
あんた、あんなにも――。
怒り、悲しみ、もどかしさ。
あたしばっかり囚われて悩んで、馬鹿みたい。
「……じゃあ、もしかしたら、前世でそいつがあたしで、トモはあたしの一の側近だったかもね」
気づいたら、そんな言葉がぽろりと口から落ちていた。
驚いた顔をしたトモを見て、我に返る。
頬を思い切りひっぱたかれたような衝撃が走って、しまった、と後悔する。
魔が差した。
そう形容するのが正しい。
あたし、なんてことを言ってしまったんだろう。
トモがあんなことを言うから、つい口走っていた。
もしかしたらあたし、決して言ってはいけないことを言ってしまった――?
ぞっと背筋に冷たいものが走る。
何か運命を捻じ曲げたような、そんな。
トモにとってはもう終わったことだったのかもしれないのに、また思い出させるようなことを、言ってしまったのかもしれない。
覚えていてほしい、なんて、あたしの勝手なエゴで――。
「う、嘘だよ。ただのたとえだって」
ははっと苦笑いして否定してみたけれど、トモは返事もせずに心ここにあらずというように本の中を食い入るように見つめている。
それから則祐が来るまで、一心不乱にトモは父さんの書斎から何冊も本を持ってきて、ひっくり返すように読んでいた。
あまりに真剣な姿に、やっぱり言ってはいけないことだったと悟った。
前世のことを口にするのは、禁忌だと――。
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