第9話 雪模様

 やはりこの喫茶店は暴雪でも開いているようだ。私は開店中と書かれた二重扉越しの札に安堵した。雪が否応なく積もるこの地方では、どうしてか部屋に一人でいることが怖ろしく、私は吹雪に限っていつも開いているこの喫茶店の駐車場に車を停めてしまう。役に立たないひさしでなけなしの雪を払って落とし、入る。

 「いらっしゃいませー」

 流石にこの田舎で人を雇えるはずがない。もう顔なじみであるがほとんど話したことがない店長だけが、この店にはいる、はずだった。しかし、そこにはもう一人客がいた。この寒さを知らないのかとでも言いたくなるような服を一、二枚重ねて着ただけの青年だ。

 「店長。珈琲と、あと」

 ケェイキは何があるのかと飾り棚の丸みを帯びて透けた板ごしに物色する。しかし、この連日の吹雪もあってか、季節の果物は仕入れることが困難だったようだ。

 「どれにしますか」

 「それじゃあ、あぁ、えっと、チィズケェイキを一つ」

 「先にお会計を済ませます。珈琲は後ほどできた後にお呼びしますが、ケェイキは先にお出ししますか」

 「では珈琲と一緒にいただくよ」

 お金を置いて、店主が釣り銭を手渡す。その間にも私は、あの青年の窓際に座って珈琲に口をつけることもせずに外の荒れた雪具合ばかりを眺めている様子をちらちらと伺っていた。

 この青年はどうしてここにいるのだろうか。駐車場に車はなかった。ということは徒歩かバスを利用したのだろう。タクシーはこの大雪で来るはずがない。それならば徒歩と考えることが常道だけれども、それならばこの寒さで歩けるはずがない。私は話しかけてみることに決めた。運よく彼の向かい側には席がある。

 「ここに座ってもいい」

 「他に席はあると思いますが」

 「まぁそう言わず」

 「では、俺は席を変えます」

 「まぁ、そう言わず」

 どうやらこの青年は話好きではないようだ。青年は鬱屈とした顔で、そこまで言うなら、どうぞと不服そうにしている。

 「田舎はね。こういうおせっかいが持ち味だからね」

 「やっぱり席、変えます」

 「まぁそう言わず。君、どうしてこんな所にいる」

 「それは。俺の話聞いたところで苦しくなるだけですよ」

 「それなら等価交換でどうかな。私はこの雪で話し相手が欲しい。君の飲食代は私が払う。君も私も得をする」

 青年は鬱屈した顔を上げて、痛みと怒りの混じった痛ましい泣きそうな顔を押し殺した。諦めきった顔で音も立てず彼は微笑する。

 「さいごにとんでもない人が現れましたか。どうしようか」

 「あと二杯分くらいなら珈琲代払えるよ。ここの珈琲は美味しいし、悪い話じゃない」

 「なら、それなら、分かりました。等価交換ということで」

 彼は珈琲に口をつけた。私はその様を見守っている。私には一見すると大人びた彼の顔立ちが、ひどくあどけないものに思えてならなかった。

 「俺は、都市で育ちました。何不自由ない暮らしと言うと嘘はあって、買ってもらえないものもたくさんありましたが、それでも俺が普通の子どもではないと考えたことはありませんでした。だからでしょうか、高望みしてしまったんです」

 「高望み、とは」

 「もっと愛して、もっと裕福に、もっと楽しく、もっと生きやすくと生き急いだのです。それで就職活動になって気づきました。私には取り柄がない。ただ愛されるために、裕福になるためだけに頑張っていただけでした。おかしいですよ。この社会は。取り柄には実績が付き物だと考えている。まだ二十少し過ぎの若者に求めるんですよ、実績を。だから」

 その若者は途中で息巻いて熱くなったが、ひとりでにおとなしくなって遂には黙ってしまった。私は彼が熱弁を振るうことを自らやめてしまったことが気がかりだった。今の若者が、私の知る熱く若さをほとばしらせる若者の姿とは丸っきり違うのではないかと不安がよぎる。

 もっと若者は情熱をもっていなかったか。もっと若者は青臭い理想を語って若さの限りを尽くしていなかったか。そういった疑念が次々に打ち砕かれていく。目の前に座る青年からは、辛酸をなめ尽くした老人のような諦念が垣間見え、しかしあどけなさは残っており、不可解な姿をしているように私には見えてしまった。

 「夢とかはあったりする」

 「夢、ですか。大それた夢なんてものはありません。それでも、もし願ってもいいのなら、小さな会社でもいいから、一社でも、一社だけでも内定を貰って、気の合う同僚と働いて、年金で静かに暮らしたかった。おかしいですよね。夢って、世界平和とか大金持ちとか願うものなのに」

 彼は口をつけていなかったケェイキを一口食べる。それから美味しいなと言いたげにその目に驚きが現れる。その顔は、私の知っているどこにでもいる若者の姿であった。店長が珈琲とチィズケェイキのお客様と呼ぶので、私はそれを取りに行って、また彼のいる席の向かい側に座った。

 「あの、本当に大丈夫ですか。こんな話をして。俺の出会った人の多くは暗くなるような話を煙たがっていたので」

 「大丈夫。大丈夫。それより珈琲のおかわりはどう」

 「いえ、まだ残っているので。俺、話題をものすごく変えるんですけれど、三文銭って今の何円だと思いますか」

 「突然だなあ。それは、ちょっと分からない。どうして三文銭のことが聞きたくなったのか、聞いてもいい」

 「あぁ、いえ。あなたに会う前にぼんやり考えていたことを口にしただけです。それで俺の話を再開しますね。俺、実はどうしてここにいるのか分からなくて。多分あれは衝動的だったんです。だって考えてみてくださいよ。何度挑戦しても落ちるんですよ。その度にものすごく気落ちして自分を責めてこの先どこにも行き場がないって不安がせり上がって苦しくて」

 「それは就活の話かな。どうやら君は内定を全く貰えていなかったみたいだけれど」

 「そうです。就活です。おかしいですよね。高収入の安定した職場に行くためにはどんどん挑戦していかなければならないのに、そうやって挑戦して不採用になる度に自分が自分でなくなるような猛烈な不安が押し寄せてどんどん不安定になっていくんです」

 若者は一気に話した後に一息つくように珈琲を飲み干した。私は彼が怠ける言い訳のために会社や社会をだしにしているように思えてならなかった。その態度が、気にくわなかったのかもしれない。

 「挑戦すればいいじゃないか。数をこなせば分かる。十社だめなら百社、百社だめなら二百社と受けていけばいい。どうせ長い付き合いになる会社だ。数を試さなくてどうする。私には君が努力をしていないことの言い訳をしているようにしか見えない。こうして君は見ず知らずの私と話すことができている。それだけの度量があればきっと見つかる」

 若者は私の言葉を聞いた最初こそ敵意の目を見せて物言わず睨んだが、私の言葉が終わるにつれ苦々しげな表情になった。

 「あなたに、俺の何が分かると言うんだ」

 「分からない、だろうね。おそらくそうだろうね。しかし私は君と話してよかったと思えている。それでどうかな。私はこの付近で小さいながら農家をやっているんだけれども、一緒に働かないか。接待はしないけれどね」

 「えっ。あなたのところで働く、ですか」

 彼がよく働く人間になることは話すにつれてはっきりと分かった。だから私は、彼の言葉に深く頷く。すると意表を突かれていた彼が、表情をほころばせていき、まさかここでそんな話があるとは思わなかったと呟く。その嬉しそうな表情は見ていて胸がすく。

 「これだから、この世界を憎めないんですよ。でも、まぁ、お断りさせていただきます。俺、もうすぐ行かなければならないので。では、待っている者がいるので、ここで」

 「どこに行くんだ」

 私は彼が何を言っているのか理解することがほとんどできなかった。状況が飲み込めないという言葉が相応しいかもしれない。しかし、彼が誘いを断ったことは伝わってきた。

 彼が彼の皿にあまっていたケェイキの最後の一口を食べる。そして食べ終えた後彼は立ち上がり、おいしかったです、ありがとうございましたと言って扉を開ける。吹雪をとどろかせる風の音が二重扉であっても強まっていく。

 「どこに行く」

 「地獄旅行ですかね。親不孝者なので。最後にあなたに会えてよかった」

 彼が二重扉を開けた私に向かって、吹雪に負けないような大声でそう叫んでくる。あまりの雪で、私にはもう彼がどこにいるのか分からなくなりかけていた。

 「苦しいの一言が言えなかったんだなあ。親に、会社に、みんなに、愛されたかっただけなのに。でも、あなたのおかげで憎めなくなりました。さようなら」

 溌剌として澄み切った大きな彼の声が確かにそう聞こえていた。私は土地勘を頼りに彼を探しに行こうとする。しかし追いかけようとする私の肩を、喫茶店の店主が掴んだ。それを振りほどこうとするが、彼、死人だよという店主の言葉で私は我に返る。薄着の彼の声は零下を超える雪景色のなかであっても震え一つなかったのだ。

 珈琲代を携えた彼は、寒々しい恰好のまま吹雪の世界を歩いていくのだろう。

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