第10話 思いの丈

 あるときから人間が他の動物と違うのは、豊富な感情があるからだということになった。どんな機械であっても獣であっても人間ほどの感情は持たないという文句が広まり、いつしか人間は感情を愛することが義務づけられていった。法律で決まったわけではない。しかし、もうそれが常識になってしまった。そんな世界で俺は生きている。

 本屋で俺は働いている。この本屋で働いている人は俺だけ。駅近くの狭い部屋に本棚と本が敷き詰められ、ロボットが本棚の端で次の客を今か今かと待っている。そんな本屋で、俺は毎日椅子に腰かけたり、用意されたドリンクバーで飲み物をぼんやりと飲んでいる。

 俺はトイレから出て、いますと書かれた札を戻し、いつもの席に腰かけようとする。すると客が来ているようだった。俺は話しかけることもなく、ゆっくりとくつろいで本に取り囲まれたこの部屋にたたずむ。本のインクなどの特徴的な匂いのするこの空間は、どうしてか心を落ち着かせることができる。

 「すみません」

 俺は声をかけられて立ち上がった。そしてその客の方へと歩いていく。おもむろに起動したロボットも客の方へと向かっていく。

 「どうしたのですか」

 「あぁ店員さん。ここに太宰治の使い古された本は置いてませんか」

 「古書ですかー。どう?ホントくん」

 俺はそう言って、ホントが検索結果を引き出すのを待つ。俺はここにある本について知ろうとしなくていい。俺の仕事は、客の疑問や意見に共感をして、客と一緒に迷うだけでいい。むしろ毎月の口頭試験で無知を証明できなければ仕事を辞めさせられてしまう。

 知識と事務作業は機械に集め、俺は人間らしく感情を見せる。そのために俺は雇われたのであり、感情指数を高めるための努力を俺は今も続けている。友達と遊び、恋人をつくり、人間同士で感情を高め合う。その結果俺はここで働き続けることができている。

 「待ってください。その機械ではなく、あなたに聞きたいのです」

 「私ですか?」

 俺はその客の男をまじまじと見る。その男は上品な空気を身にまとっていた。それは服が上質であることが素人目に見ても明らかだったからかもしれない。しかし、男からはゆったりとした雰囲気ではなく、切羽詰まった焦りのようなものが感じられた。だが、男の口からは穏やかな口調ばかりが生まれ出ている。

 「そうです。あなたが今まで得てきた経験を頼りにして答えを聞きたいのです」

 「それは、無理です。なぜなら知識を提供するのは私ではなく、このホントくんですから」

 「私は、ある者から、企業はサービス産業労働者を中心に感情指数と知識指数を計測し、それを根拠に雇うことを決めていると聞きました。あなたもそれを理由に断っているのですか」

 「私は、」

 「その質問は秘密保持契約に抵触する重大な事項です。お答えしないでください。これは警告です。口外した場合には、感情労働雇用法第二十八条三項に基づき、厳正な処罰が行われます」

 「ホントくん」

 俺は何も答えることができなくなった。ここで口走って働き口がなくなっては路頭に迷ってしまう。

 「感禁条項ですか。やはり、そうですか。寂しい世界になりましたね」

 「そうですね」

 「やはりあなたもそう思う、いえ。感情労働者の役割は共感でしたね。人間だけが得た豊富な感情で、あらゆる場面において共感を示す重要な役割を担うとありますから」

 客は、俺を哀れに思っているように見えた。しかし侮蔑の感情は一切感じられなかった。むしろ、この客はこの社会に馴染めないでいるのではと疑念がよぎった。

 「太宰治はどういう人だったのですか」

 「太宰治は、いや、言うのはよしましょう。あなたは共感するためにその質問をする。それで知識が増えて試験で点を得ては首になってしまうでしょう」

 「お気遣い感謝します。しかし安心してください。私はこの店で得た知識はその日に忘れるようにしていますから」

 「そう、ですか。人間って何でしょう。あぁ、私はそれでもやめておきます。一人で探します」

 客は力の抜けたひどくうつろな笑みでそう言った。俺は分かりましたと答え、ドリンクバーでコップに温かな飲み物を注いでいつもの席に座る。お客様の意思を尊重した空間にしなくてはならないのだから、従うだけでいい。

 飲み物を飲みながら、静かな本屋に響く客の足音を聞き流していく。客は古書のコーナーに立ち、しばらく探していたようだった。そして数十分後、客はカウンターに一冊の本を手に取ってやって来た。

 「太宰治の古書は見つかりましたか」

 「いえ。夏目漱石ならありましたので、今日はこれを買って帰ろうと思います」

 「そうですか。では購入手続きをします」

 俺は、客がどうして新品の本ではなく使い古された本を買おうとするのかは分からなかった。高く転売する人には見えなかった。だが、聞くほどのことではないのだろう。

 「店員さん、少し話をしてもいいですか」

 「いいですよ。お客さんが新たに来るまでなら空いてます。一定金額を超えているので、ドリンクバーで何か飲みながら話すのはどうでしょう」

 「では、そうしますか」

 男は珈琲を飲んで一息ついた。それから俺に話し始める。

 「どうしてか、感情いっぱいのあなたがロボットにしか見えません。あなたの感情には理不尽さがない。ずっと素直で、まるで無垢だ。怖い。それが怖い。私は周りに誰も人間がいないように思えてならない。誰よりも人間らしいはずのあなた方が、誰一人人間に思えない」

 「すごい話ですね。私は人間なら誰も彼も人間に見えます。人間全員が素直で無垢だなんて素晴らしいじゃあないですか」

 「その怖さを知らないだけですよ。大学で教えていてもそうなのです。もう学問を究めようとする人は数少ない。素直で無垢で、しかし昨日のことはほとんどおぼえていません。学問がただの課題に成り下がっているのです」

 「それは怖いのかもしれません。学問はもう人間の専門特許ではないから、人間独自の感情を伸ばすことに、人々は専念しているのかもしれませんね」

 客は心細さも一緒に飲み干そうとした。しかしまだコップに残っていたらしい。空のコップに詰まったそれを、客はじっと見下ろしている。

 「きっともう人間は感情という資源を掘りつくしてしまったのです」

 「感情を掘りつくした、ですか?」

 客はコップを回収箱に入れた。そして、ちょっとした暗い話でしたと、がらんどうの笑みを浮かべる。

 「昔、私が商店街に買い物に行ったときはそこの店主や店員は辺りに詳しかったものです。しかし、店が駅にかき集められた結果、私が話を聞いても誰一人としてその辺りに詳しくないということが起こってしまいました。どこの店もその土地に根をおろしていないのです。そして今は、辺りの知識は機械頼りですね」

 「便利ですよ、機械は」

 「そう、ですね。寂しい世界です。ありがとうございました」

 客は紙袋に一冊の本をいれてカウンターを後にする。そして俺は取り残された。閉店時間が近かったせいか、以降は誰も来ないまま一日が終わった。俺はシャッターを下ろして、機械とともに掃除をする。その間、あの客の寂しい世界という言葉が耳に貼りついて離れなかった。

 「こんばんはー。レンタルドリンクバーサービスの者ですー。機器の取り換えに来ました」

 いつものようにレンタルドリンクバーの男が、裏口の呼び鈴を鳴らすので、俺は扉を開けた。その男の後ろには機械がいて、綺麗だが重たそうなドリンクバーを運んでいる。俺は機械がドリンクバーを取り換えている間、彼に今日の話をしてみた。

 「そいつは大学の先生ですよ。うちら庶民とはまるっきり違う世界の住人ですよ」

 彼はちょっとばかし悩んでいる俺を軽く笑い飛ばした。

 「だから何も気にする必要はないです。本ばっか読んで難しい話に浸って頭が固くなっちまったんですよ。そいつは」

 「本屋の店員として今の言葉は聞き逃せないんだけど」

 「あっはは。いやー。すんません。まぁ言いたいのは気にしないでいいってことです。勝手に言わせとけばいいんです」

 俺は彼の言葉に勇気づけられた。たとえあの男が寂しい世界だとか何だとか言おうと、俺には友達がいて、両親も恋人もいる。そして休日には彼らと楽しく休息を得ている。それのどこが寂しいのか。

 人間の感情は、あの客の言うように既に枯渇してしまっているかもしれない。だが、もうこの機械文明は止まらない。俺はレンタルドリンクバーサービスの彼に挨拶をして車を見送り、着替えを済ませ、明かりを消す。

 空はすっかり夜だった。街明かりは路面を照らしている。道を進めばどこかの家の夕食の匂いが流れてくる。静かな街が過ぎ去っていく。ここに生活があるのだ。

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