第7話 ひとかかえの嫌悪

 一面の星空を見たことがなかった。生まれつき、惑星も、流れ落ちていく流星も見たことがなかった。この街に星はない。だから街灯を頼りにして、黒く塗りつぶされた堅牢脆弱な道を、ほとほと、ほとほとと歩くしかない。

 かつて船人は北斗七星を道しるべに広大な海を進んだという。しかし、いつから人間の視界から北斗七星はなくなったのだろうか。この北斗七星さえ分からない街だから、いつまで経っても寄る辺なく寄せては返す波に揺らぎ、軋み、行き着く島もなくただ終わりを待っている。それだけの人生だった。

 私はかつて目立つ子どもだった。異彩を放つとでも言えばよいのだろうか。それとも先生に好かれるような子どもとでも言えばいいのだろうか。それはもう遠い過去の話で、時間とともに一つ、また一つと流れ去っていく。私が転落した理由、それは端的に言えば鼻につく子どもだったために罵倒か吐け口の対象になってしまった、これに尽きる。

 ただ真面目に生きようとしただけなのだ。先生から与えられた仕事をこなし、その指導に耳を傾け、いじめられて困っている低学年の子どもがいたから助けた。道徳からすれば、それは善行だ。しかし人間は善さえも悪態をついて殺すことができる。だがそれを知っていてもなお、善行をしてひどい仕打ちを受けた子どもに、かつてのその姿に、かけられる言葉が分からない。あったとして、もはやどうしようもない過去の話でしかない。

 結果として、その子どもは人間不信に行き着いた。その子は何をすればよいかも分からず、誰かに助けを求めることもなく、下校途中の坂道で涙を流した。その姿を目に留める者など、誰一人いなかった。それからだろう。その子どもの孤独な戦いが始まった。

 周りにいる人間と心を休ませられる瞬間などなくなってしまった。もし正しい行為をすれば正しい道へと進んでいくと思えていたならば、迷わずに進むことができただろう。しかし、その子どもが直面したのは、正しい行為をしたところで苦しむしかないという強迫観念だった。その子どもは、正しい行為の百科事典である社会規範の正当性を失った。

 そのような日々が続けば、今だに続く疑り深く、陰湿な顔つきへと変わっていく。その子どもは自傷行為に浸るようになった。それは学校内で受ける膨大な鬱憤の矛先を自らに向けるという、一見すると不可解な行為であった。しかしそれ以外に分からなかったのだ。その子は、物に当たるほどの思い切りの良さも、周りに当たり散らして傷つけられるほどの胆力も持ち合わせていなかった。

 しばらくして運のよいことに、その子どもは父親の転勤によって学校を転校することになった。いじめから解放されて、これからは何かが変わると、車内でラジオの音楽を聴きながら、そんな風にその子どもは思っていた。

 しかし、そうはならなかった。転校で見知らぬ土地で見慣れぬ部屋で暮らす居心地の悪さ、もはや出来上がってしまった交友関係に割り込む辛さが一気にのしかかり、自傷行為が続いてしまったのだ。所構わず自らの腕や頭をかきむしる同級生に近づく者などいない。当時は子どものそのような兆候に目を配る慣習も存在しなかったから、教師も何も言わなかった。一人きりの、学校生活であった。

 長い間密な交流から遠ざかれば、人との交流方法など忘れてしまう。顔つきは暗く、誰とも話そうとしない。北斗七星は見えず、漂流して食料の尽き果てるのを待つばかりの人生だ。誰かに頼ればいいと事もなげに言う人がいるかもしれない。分かっている。誰かに声をかければ。誰かに助けを求めれば。苦しい。苦しいと、しかし言えないまま子どもとは言えない体つきになってしまった。

 夕暮れの、静かになりかけていく公園の椅子に座る。休日は外には出歩かないが、平日の、家族連れも恋人なども滅多にいない公園なら、どうしてか何度でもため息をつくことができた。もう小さくなってしまったブランコに腰かけて、勢いをつけてこぎ出すこともなく、わずかばかり揺らして公園の木々の奥にある通りを眺める。

 いつも、近くにある中学校の鐘が聞こえてから日が暮れるまでのわずかな合間に外に出ては、ここに座る。この時間なら帰宅途中の大勢の中学生たちを見ることもなく、遊び走る子どもたちも帰っていくからだ。通りを歩く人間はあまりいないからこそ、澄んだ心持ちで、景色と眺めることができる。それだけの時間のために、たびたび外へ出てしまう。

 だが、その日は少し違っていた。声が聞こえてきた。それは明らかに近くの中学校の子どもの声であった。二人の女子中学生のように思えた。どうしてこの時間に帰宅していくのかは分からなかったが、この通りを二人が歩く前に、どうにかして帰ろうかと思案する。

 しかし、どうしてか会話だけでも聞きたいと思ってしまった。中学時代の良い思い出など見つけられないのにもかかわらず、どうしてかどんな話をしているのか気になってしまった。

 彼女らは、通りを進んでいく。声が、はっきりと分かる。彼女らは楽しげにこちらまで聞こえるほどの声で話に夢中になっているのが伝わってくる。

 「それでさー。みっちんが山中のこと好きなんだって」

 「えー、ほんと?あの山中が好きってありえない」

 「本当だって。石田さん情報。たぶん当たっているって」

 恋話に夢中になる二人を遠巻きに眺めている。彼女らは何事もなく公園を通り過ぎていくはずだった。しかし、その片方が、こちらを指して、もう一人に耳打ちする。そして、うわっ、きもちわると侮蔑を込めた声を残して足早に帰っていった。

 どうしてそんなことを言ったのだろうか。何を耳打ちしたのだろうか。理由など分かるはずもなかった。しかし、自らが気持ち悪い存在であるという事実がひと際重たげにのしかかる。

 あぁ、もう、大人になってしまったんだ。そう思ってしまった。学もなく、友もなく、金もないままに大人になってしまったのだ。そうして今、気持ち悪く、醜いその大人はブランコに座っている。終わりにしたい。唐突にそう頭によぎった。


 ――

 家に帰って、なけなしの金をすべて手に持ち、もう一度外へ出る。どこへでもよかった。星を見たかった。どうすれば死ねるかなど分からない。だからとりあえず星を見て、それから死のうとだけ決める。駅を目指し、電車に乗り、片道限りの旅に出る。

 もし親戚やら家族やらどこかの医者やらに、死にたいと言ったならば、死ぬなとお決まりの文句を言うだろう。そうして続けて、生きていればよいことがあるからと説くだろう。だが、正しく生きてさえひどい目にあうのだから、のうのうと生きて幸運と巡り合えるとは思えなかった。

 誰も助けようとしなかった。誰も話しかけようとしなかった。陰口ばかり言われた。あの公園を目指す道中で、聞こえよがしに街の住人たちに後ろ指をさされて悪口を述べられたかのような経験さえあった。子どもを傷つけるのはよくないと、破れかぶれの犯罪者を非難する者がいた。ではなぜ、あの時のその子どもが傷つけられ苦しむのを見て見ぬふりをしたのか。結局何もしないで、血を見てから声だけあげて満足するだけではないか。

 久しぶりの電車は街を走り、夜になり、山や木々が窓ごしに影を落としては遠ざかっていく。場所は決めていないものの、次の最終目的地のための電車賃を考えてとりあえずの駅で降りてみる。

 その駅を出ると、民家はあるものの、あの街よりは木々が多い気がした。観光用の地図があり、そのなかに神社を見つけた。あまり運動するのは得意でなく、体力も心もとないため、数分でたどり着けるその神社に行くことに決める。神社ならば、今のような街灯もなく、星空が見える気がした。

 行ったこともない道を歩くが、不安はなかった。道なりに進んで、目印を右に曲がるだけでよいせいもあるのかもしれない。人生の終点に近づいていくように思えている。思えばどうしようもない人生であった。それでも最後に星空を見ることができたならと、わずかに湧き出る望みにすがって歩いている。

 神社の階段を上る。暗く、一段先の階段もよく分からない。まるで肝だめしをしているみたいだった。しかし恐れはなかった。もし呪われたとしても、どうにでもなればいいとさえ思えている。足場を確認しながら階段を上りきり、なんとか境内に立った。そこには誰もいなかった。

 空を見上げる。そこに星空がある、はずだった。だがほとんど見えなかった。もしかしたら、普通の人にはこれが星空だと分かるのかもしれない。しかし、この目にはまばらな星々しか捉えられない。星座の一つでさえ分からないから、星がちょっと見える程度にしか認知できない。

 あぁと声が出た。眼下にあるものでさえ、不明瞭である。結局北斗七星に出会うことは叶わなかった。これから星を見ることなく息絶えるのだろうか。この場所で、漂着する宛てもなく、北斗七星も見えないまま次の行先を考え始める。一人きりの夜、誰かがいるはずもない。

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