第6話 賞賛の吹雪

 本が好きだった。最初に読んだ本は身の丈にあった子ども向けの本で、主人公が現れる強大な敵を前に必死であがき、勝利を手にする瞬間を心待ちにしていた。読み終えれば己に何か莫大な能力があるかのように思え、あふれ出る勇気の矛先を探した。しかしどこにも敵などいなかった。


 それにもかかわらず、読書をやめられなかった。いや、読書がもし、教養を高めるものであるならば、子ども向けの冒険小説を手に取ることなど読書とは呼ばないだろう。だが、そのことに気づきもせず、己が読書好きな人間であると錯覚し、一人薄暗い図書室に時間があれば閉じこもっていた。


 授業中にも読んでいた本の内容にばかり気が散った。結末を考えれば考えるほど心が熱を帯び、体は空を飛んでいくかのように高揚した。漫画や電子空間の遊戯に熱中する同級生とは共有できない世界で、誰の目も気にすることなく、登場人物がこれからどのような行動にでるのかと一人予想に興じていた。


 しかしやがて知ってしまった。どの冒険小説の登場人物も結局は生か死のどちらかしかなく、その選択肢に思想や意志、願いをまとわせて、そこに独自性を付け足しているだけであることを。結局熱中して読んでいた冒険小説は、生と死を克明に描くための道具でしかなかったのだ。そして熱意が動きを止めた。


 それから誰に勧められた訳でもなく、SNSを始めるようになった。共感や感動などを与えた言葉や、動画、絵が表示され、毎日それを確認しては笑ったり涙を目から感じたりして、己がこの電子空間越しの世界と同調できているのだと安心した。見ず知らずの人のことを覗き見るだけで愉快だった。その間、現実空間には誰もいなかった。


 いつからだろう。家族の誰も使わないような下卑た言葉をばらまくようになったのは。気がつけば簡単に、死ぬや殺す、うざいなどと口走るようになっていた。画像やネタになりそうな話を他人のごみ袋を漁るかのように血眼で探し回り、見つけては湧き上がってくる下品な感情にむしゃぶりついていた。


 しかしいくら下品であろうとも、魅力的な感情はそれ以外になかったのだ。


 学校では感情は噛み殺されてしまう。だから学校に行くことよりも画面に集中することの方が楽しかった。学校では端末が禁止され、友人など一人もいないため、休憩時間はじっとしていることを強いられる。その姿と、養鶏場の雛鳥と、いったい何が違うというのだろう。将来お金という卵を産むことを強いられている。


 学校で、泣いた奴がいた。そいつは陰口の対象となって事あるごとに馬鹿にされた。学校で、怒りのあまり暴れた奴がいた。そいつもあえなく雛鳥たちの餌食になり、学校を去った後もその名前は事あるごとに持ち出されて、あんな奴と同類になるのかと誰かを見下す道具にされた。


 教師らが生徒の感情を殺さずとも、生徒自らすすんで他の生徒の感情を食い殺そうとする。ここでは笑うこと以外は滅多に受け入れられない。友人なしでは、笑うだけでも奇異で陰気な奴だと陰口を叩かれるだろう。食い殺される予定の餌たちが、逃げる算段を立てることなく、餌になりたくないと抵抗するいくつかの餌らを好んで追い詰めている。


 その主犯格である女子生徒がいた。彼女はある男子生徒が気持ち悪いという理由で執拗にその男子生徒をいじめていた。水をかぶせるとか、物を隠すという証拠の残りそうなことは彼女はしない。彼女はそれとなくその男子生徒の近くで他の生徒と群れて、わざと彼に聞こえるように悪辣な言葉でそれとなく罵倒することに興じていた。


 特にその男子生徒に好意をもっているということはなく、特別な感情などなかったが、あの泣いた奴も暴れた奴も彼女は嬉々としてあげつらっていたこともあって、彼女に罰を下したい気持ちになっていった。人脈など皆無であるため無謀であることは自明だったが、彼女らがその男子生徒の近くに集まる度に嫌悪を感じずにはいられなかった。


 おそらくそれはその男子生徒をある動画の人物と重ねてしまっているからだろう。その動画では、怒気をはらんで言葉を向ける男が、端末を持つ者らに嘲笑されていた。下卑た言葉が怒る男に振る舞われていた。最初は撮影者らに同調していたものの、やがて撮られている男に同情してしまって見るのをやめてしまった。あの怒る男とその男子生徒が重なっていた。


 その動画を参考にして、ネットで拡散するということも考えてはみた。しかしそれは危険がありすぎた。第一、隠し撮りのできるほどの度胸がない。そしてその男子生徒が無抵抗であることが気がかりで、もしかしたら実はあの無表情の裏では喜んでいたりするのではないかという疑念もあった。要は理由をつけて先延ばしにしていたのである。


 決心がついたのはとある出来事があったためであった。その日もいつものようにあの女子生徒らが彼の近くで聞こえるように陰口を叩いている。それを見ないふりをしながら盗み聞きをしていると、不意に彼が乱暴な音を立てて立ち上がった。そして女子生徒らのそばにある机に、拳を力いっぱい叩きつけて教室を立ち去った。


 「なにアイツ。意味わかんない」


 あの女子生徒の声がなりやんだ教室で目立っていた。


 その一件があってから、ついもう悪質ないじめはなくなるだろうと考えていたのだが、それはなくならなかった。だが彼は喜んでなどいないと確信して、正義感に火がついた。そして閃いたのが彼女の私物を隠すということだった。


 彼女が教科書などを教室に置いていることは知っていた。また、教室は閉門時間まで閉じられることがないことも分かっていた。加えて部活動をしている人がいて時折教室を訪れることも調べて、もし彼女の教科書などの私物を盗んだとしても、目撃者さえいなければこの犯行が明るみにならないことも確認した。


 放課後になって先生の挨拶が済んでから、帰ろうとする人だかりにまぎれてトイレの個室に入る。そこで端末をいじりながら声が聞こえなくなるのを待つ。そして教室に入った。中にも廊下にも誰もいないことを確認して、鞄に隠していた軍手を取り出して、明日の授業で最も忘れ物にうるさい先生の担当する授業の教科書と、あの女子生徒がお気に入りと言って見せびらかしていたクリアファイルを取り出す。


 それらを鞄に入れて、軍手をしまってから素知らぬ顔で学校を出る。


 捨てる場所は決めていた。川だ。ほとんど人通りのない橋を目指して歩く。あの女子生徒に罰を下していると自覚する心情は、さながら正義を全うする英雄だ。日没が迫る。夜が来て職質などされたなら元も子もない。大軍列をなす雲らを目指す風船のようなすがすがしい心持ちで足を急がせる。


 橋に立った。日没に間一髪で間に合った。川の風は熱情でほてる体を涼やかにしながら通り過ぎていく。軍手をはめて鞄から教科書を取り出し、それを川へと投げ込めば、教科書はその一枚一枚を風にばらばらとはばたかせながら落ちていく。やがて教科書は川面に突入し、波紋としぶきをわずかに生じさせながら、沈んでいった。


 次にクリアファイルも取り出す。これはアイドルの写真を印刷したものだ。そのアイドルがライブやバラエティにも姿を見せていることは知っていた。しかしそれを売る気にはならない。だから橋から手を出して、その手を離す。風にあおられたクリアファイルは音もたてず着水する。そして流水がなにもかも押し流していく。


 私物がなくなって、あの女子生徒が学校で泣けばいいとほくそ笑む。何もかも晴れてきた。今は下卑た言葉の一つですら浮かんでこない。これは勇気ある行いだ。西日が満たされた心に届き、戦いを終えた戦士が兜をしまうように、軍手をおごそかに外していく。この武功を誰かに吹聴しようとは思わない。あの男子生徒にも伝えない。そもそも伝えられる人などいないだろう。


 帰りがけに、買い食いをしようと思った。戦勝を記念したい気分だった。歩くにつれて橋にいたときには感じていなかった罪悪感がちらついていく。しかし善行を成したという思いは揺るがなかった。誰かを馬鹿にして生きる人間が罰を受けない世界などあっていいはずがない。その言葉が確信を下支えしていた。


 店内で何を買おうかと悩んだ末、惣菜と甘い菓子を一つずつ購入した。近くの公園で食べようか。そう考えながら、出口まで歩いていく。ドアのそばにいる女の子がこちらを怯えたように避けた気がした。なぜそのような態度をとるのか見当のつかないまま、ドアの前に立ち、ドアが開くのを待つ。女の子は店の奥へと入っていった。


 店の外へと視線を送ると、透明なはずのドアの向こうに醜い人間がいる。それは表情をにごらせ、体は肥え太り、猫背がひどく、瞳には下卑た勇気がひそんでいるように見えた。知らず知らずのうちに一歩後ずさったが、ドアが完全に開くとそこにはあの醜悪な人間などいなくなっていた。その気味の悪い人は他でもない自身の姿だったのだ。


 そして悟ってしまった。この行動が、あの男子生徒と動画内の怒る男を重ねたが故の産物ではなく、薄ら笑いを続ける撮影者らと自身を重ねて、聴衆として誰かを小馬鹿にすることの嫌悪に耐えきれなくなって、彼らとは違う存在になりたいと願った末の行動でしかなかったことを。また、幼いころにあふれ出る勇気の矛先にしたかった敵がドアの向こうに映っていたことを。


 抱いていたのは、英雄の心などではなく、心の貧者の軽率な度胸でしかなかった。雛鳥はどこまでも幼く、餌の考えることなど五分の魂にすら値しない。いったいどうすれば正解だったのか。いったいどう生きたなら誰かに怯えられるような人間にならないで済んだのだろうか。もう取り返しのつかないところまで行きついてしまった。


 明日学校で最もむごく心身を殺されるのは、あの女子生徒ではないだろう。ましてやあの男子生徒でもない。それはここにいる。明日、おそらくあの女子生徒の泣き声で、罪悪感という勇者にこの養鶏場から飛び立ちたいと願うほど仲間外れにされる。しかし鶏の子は大空をはばたくことなどできないのだ。

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