第3話 置き梅香

 その女は家を追い出されることになった。家賃の重みに耐えきれなかったからだ。これから彼女は外で暮らすことになる。家具の売り払われた部屋には彼女の存在を残す物などない。彼女は両親に先立たれて以来、綱を渡るだけの生活を送っていた。その日々も消える。


 以前、彼女はまともな仕事にすら就けないことに焦りを感じていた。今は、変われないなら何も言わないまま立ち去ろうとしていた。彼女の知人たちはそれなりの人生を手に入れてるようだった。結婚した人もいると、亡くなる前の彼女の母から聞いていた。今の彼女は苦みしか味わっていない。


 部屋の窓からは梅が見える。彼女は冷たい風を一身に受けながら、梅になりたいと考えた。彼女にとって、数週間咲くだけで褒められる梅は何よりも羨ましかった。彼女には心身の不自由はなく、若いため梅のように水やりをしてくれる雨などなかった。また彼女には梅ほどの美しさがない。


 彼女は物思いを中断して紙と向き合う。そこに鉛筆で書き始める。これは彼女が、この部屋の次の住人に向けて送る手紙だ。彼女は既に管理人に了承を得ていた。書き残す言葉は試行錯誤の末、一言に決めていた。なぜか彼女はたった一つでも誰かの励みになったという事実が欲しかった。


 だが、彼女は頑張ってという言葉だけでは満足できなかった。泣かせたいと強く思った。しかしどんな言葉であってもごみになってしまいそうだった。何を書いても一ですら届かず虚空に埋没してしまう。彼女の苦しさが弾けて水になり、紙を濡らした。


 彼女は文字を跡になるほど強く消した。そろそろ管理人が指定した時刻だ。彼女はもう残す必要などないと考えた。何も言わず立ち去ろうと決意したよねと、彼女は反芻した。しかし彼女はそれが無駄であってもたった一人の精神に染み込みたかった。


 彼女はいつになく丁寧な字で再開する。彼女は、この部屋があなたの思い出になりますようにとだけ書いた。窓を閉め終えてから鞄を背負った彼女は、全財産でわずかに膨らんだ財布を手にして立ち上がる。鞄には最低限の生活必需品が詰まっている。紙を玄関に置いた彼女は戸口の扉を開ける。


 外に出る前に確認した部屋は、彼女のことを忘却したようだった。だが紙だけは玄関にある。紙は力を込めて消したせいでよれてしまったが、善人の彼女は確かにそこにいる。玄関先で彼女が去るのを待つ管理人に別れの挨拶をして、彼女は薄暗い晴天の只中を独りで歩き出す。

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