ドッグ・ファイト
パルネ・リッカーというご令嬢の話をしよう。
お嬢は、地獄の番犬たるワガハイが若輩であった時分に、リッカー家の長女として生を受けた。待望された息女であったが、母親は身体が弱く、お嬢を産んですぐに亡くなってしまう。
父親は憔悴し、お嬢に「母親の生き写しになること」を求めた。どちらかといえば父親似の彼女に――髪色から所作に至るまで――完璧を追求した。
リッカー卿の狂気は結実したといえるだろう。
「準備は良いかしら」
かつて卿が使っていた書斎の窓を開け放ち、淡い逆光のなか、お嬢が振り返る。白いカーテンとともに揺れるのは、縦にロールした金髪。全身をすっぽり覆った外套の上から、くびれのない腰へ両の拳をあて、ガキ大将めいた仰け反りポーズ……どれも母親を彷彿とさせる。病気がちなくせ脱走癖があり、貴族趣味なくせ豪放だった、あの女に……。
「ネネは準備おっけーです!」
ふだんと何一つ変わらないメイド姿で、長い耳をピンと立て、我が妹分が答える。
ヨシ! と指差し確認したお嬢は、角ばった旅行鞄を抱えて窓へ向き直る。後ろからネネがひょいと抱き上げ、ぴょいと跳ねて窓枠に乗っかる。
「じゃあ、ケルベロス――留守をよろしくね」
小柄なメイドの肩越しに、お嬢が視線をくれる。ワガハイは「バフ!」と短く答え、おすわりでふたりを見送る。飛び立つ直前のカラスといった体勢だが、テイク・オフにあたり何やら躊躇があるようだ。
「いったん庭に降りてしまうと、あいつに気づかれるわ」
一気に塀を越える! お姫様抱っこされたまま、お嬢が決意表明する。
「できるわね」
「あい!」
ネネがたのもしく即答し、そして窓枠を大きく蹴って跳躍する。結果はいかに。ワガハイが後ろ足で立ち上がり、窓から顔を覗かせると、ぎりぎり塀の向こうへ消える姿が見えた。その際、塀のてっぺんに並んだ槍状の柵に――ネネはエプロンドレスの裾を引っ掛けていた。確実に破れているだろう。まったくドジな妹分だ。
ワガハイは嘆息し、自身に課されたミッションを開始する。
(留守をよろしく――で、あるか)
あの女と出遭った、雨の日の出来事が思い起こされる。
びしょ濡れで凍えていたワガハイに、あの女は傘を立て掛け「契約をしよう」と提案した。
曰く。キミに安息の地を与える代わり、番犬をやってほしい。わたしがわたしの屋敷からいなくなった後も、留守を任せたい、と。
生きるか死ぬかの瀬戸際だ。選択肢はあってないようなもの。
精いっぱい鳴いて了承すると、あの女は悪戯っぽく笑って抱き上げ、追いかけてきたらしいメイドたちに紹介してみせる。――地獄の番犬、ケルベロスだと。
(お嬢に言われずとも、あの女との契約は続いている)
ワガハイは書斎を出て軽やかに階下へ、お嬢があいつと呼ぶ女を探す。すなわちピムのメイドはキッチンで発見された……朝食の準備をしているのか? 否である。棚という棚から食器をひっぱり出して調理台へ積み、執拗に棚の奥を調べている。
この者がピムから命じられているのは、お嬢の監視のほか、隠し財産の捜索も含まれる。おかげで……というべきか、お嬢の脱走は今のところ気づかれていない。
「さて困った。成果がなくては、ご主人に叱られてしまう」
ご主人、がピム・リッカーを指しているのは明白だ。
「形見という名目で見逃してやった指輪が、一つあったか……あれを没収してご機嫌をとるしかなさそうだ……そこの犬はどう思う?」
尻尾を振って機嫌をとるのは得意だろう? ぐるりと首を回し、ピムのメイドがワガハイを捉える。とっくに気配を察知されていた。一連の台詞は独り言でなく、いや、本人にとっては独り言に違いないが、ワガハイに向けて語りかけていたのだ。
痴れ者と語らう言葉は持たぬ。牙を剥き、唸り声をもって応える。
「ケルベロス号、とかいう大層な名前だったな。お前がいるということは、あの娘も朝食を漁りに来る頃合いか……」
キッチンの後始末は押しつけるとしよう。などと勝手をぬかしてピムのメイドは立ち去ろうとする。実に腹立たしいが退場するなら願ってもない。この者がお嬢の脱走に気づき、追手が放たれるまでの時間を稼げる。
「いや、待て」
――ピムのメイドが動きを止める。
「お前は、なかなかの忠犬だった気がする」
あの娘を差し置いて腹を満たそう、と動きはしないタイプだ。お前がいて、あの娘がいない、これは偶然か? ピムのメイドは、調理台に突き立てていた肉包丁を抜く。
「パルネは今どこにいる」
いよいよ地獄らしくなってきた。ワガハイは姿勢を低く戦闘態勢をとる。
「爪と牙をもって答えるか。決闘でもしようというのか、この私と」
ピムのメイドは嘲笑して「躾けてやる」と肉包丁を構える。まるきり素人だ。得物が得物だけに流派など元から存在しないが、隙だらけで戦闘の素人だと分かる。
(これならば、ワガハイに時間稼ぎもできよう!)
伏せた状態から、全身をバネよろしく使い、ピムのメイドへ飛びかかる。肉包丁の一閃より疾く、ワガハイの牙が届く――ハズだった。
「キャイン!」
気づけば雪崩れに呑み込まれたように、ワガハイは壁へと叩きつけられている。突如として湧いた〝白い鳥の群れ〟が体当たりをかましてきたのだ。
「ふんっ――獣人が、なぜ虐げられているか知らんだろう」
エプロンの前掛けポケットから、まるで中は四次元といわんばかりに、次々と白い小鳥が飛翔し……ピムのメイドを守らんと羽ばたいている。
「獣人は魔法が使えず、ヒトは魔法が使えるからだ」
ただの獣でしかないお前が、私に勝てる道理などない! ピムのメイドが肉包丁を振るい、白い鳥たちは指揮者に従って群れを形成する。鳥群は一つの生き物であるかのように、さながらアートのように、鷹の、熊の、鮫の姿を形づくった。
(紙とインクの臭い――)
ワガハイは魔法の正体を看破する。ずばり【手紙を鳥に変える魔法】だ。最悪なのは、攻撃と防御以外の意味合いが果てしなく高いということ。ピムのメイドとして、この者がなぜ派遣されてきたのか考えれば、自ずと答えが出る。
「おや? 畜生の分際で気づいたか?」
調理台を回り込み、ワガハイが窓を背にしたことで、ピムのメイドが目を見開く。驚き二割、未だ余裕が八割といったところだ。
「お察しの通り、手紙を飛ばすが得意でね。あらゆる事態を想定した文を用意している」
「……」
とすれば、これら手紙鳥のうち――全てではないにしろ、内容の致命的なものがいる。例えばストレートに「脱走した、捕まえろ」という類、もっと言えば「殺せ」まであるかもしれん。
「犬と戯れるのは久しぶりだ」
キッチンの外へわずかに後ずさりしつつ、ピムのメイドが続ける。
「屋敷にいくつ窓があったか……果たして、私が窓を開けるのを止められるかな」
ワガハイめがけて肉包丁を投擲し、走り去る。
ゲームの火蓋が切って落とされた。
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