限りない無彩色

無頼 チャイ

日は照り返す

 この蒸し暑い夏のせいだ。八月三十一日に悪態を吐いた。

 石積みの台座に座って、見渡せる限りの風景を細かく書き込む。時より現れる蜃気楼が邪魔で仕方ない。夏の入道雲は日除けにはならない。風で揺れる背高草が鬱陶しい。

 目に映る全てに文句を付けたくなるような夏な日だった。蝉は泣いてるし、近くでトランペットの練習音も聞こえる。

 夏真っ盛りだ。永遠に夏休みが続いて、一生この光景が続けば良いのに。八月三十一日がずっと繰り返されるなら誰もが幸せだろうに。

 なんて、考えてみたけれど、終わらない日というのがかえって苦痛なのだと知った今、この日を恨むほかない。

 鉛筆の芯が削れていくたびに色鮮やかになる絵のように、人は、億劫を訴えながらも一日を彩っていく。

 走らせた黒い線が輪郭を作るように、結局人生ってのは進むことでしか実感できない。


 でもさ、今だけは、恨んでても八月三十一日を続けなければならない。

 終わってしまう前に決着を着ければ良いんだ。


 もう、答えだって分かってるのに。


「ねぇ、良太」


 スケッチブックに黒い欠片が飛び散った。


「良太は頑張ってくれたよ、ありがとう」


「まだだよ! まだ終わらせねぇからな! もう、覚悟は出来たんだ」


 困ったような、泣きたそうな、そんな表情を浮かべて彼女は僕が持つスケッチブックの端を摘んだ。


「上手だね」


「描かなきゃ、終わっちまうから……」


 「もう、終わっても良いと思う」


「それは絶対違う! こんなのに縛れてるのがおかしいんだよッ!」


 地面に投げつけたスケッチブックが弾みで数枚の絵をめくり、目の前の、短髪を揺らす少女の横顔を見せた。

 白黒と線、僅かな色を残す絵は、少しずつ色褪せる。まるで引き潮のように、まるで夕焼けのように、手を離した風船がどこまでも青空を昇っていくように、目に見える変化として起こっていた。


「僕がお前の代わりに死ねば、もう八月三十一日に縛られなくて良いんだよ……そうなんだよ……」


 幼なじみの彼女に、どうしても見せたかった絵。八月三十一日に見せると決めた絵は、完成したときよりも無彩になっていた。


「これは僕への罰だ。あの時車に気付いていれば、お前が身代わりになる必要なんて無かったんだ」


 動かない彼女が死んだなんて思いたくなくて、咄嗟に絵を見せた。もう遅いと分かってたのに。


「でもどういう訳か、事故なんてなくて、お前がいて、悪い夢を見たんだって思った。けど実際は、悪い夢の中だった……」


 日が沈む度に、暴走した車が彼女に衝突する。ぬいぐるみのように宙を舞い、振り回された人形のように着地する。

それを、ずっと、間近で見続ける。


「この絵から色が無くなったら、もうチャンスはないんだ。だから、もう決める」


「良太、推し活って知ってる?」


「推し活?」


「頑張ってる人を応援したりするんだって、何だか素敵だよね」


「急に、なんだよ」


「ふふっ」


 首に腕が回され、甘い香りがした。


「良太は頑張ったよ、だから、次も頑張れるよ。私、ずっと応援してる」


……え?


「私に縛られないで、色を無くさないで、良太の良いところを、悲しみで塗りつぶさないで」


「何言ってるんだよ……」


「……これは、良太の悪い夢じゃないよ。ちょっと筆を誤っただけの、良い夢」


 おい、待てよ……。


 日が沈む。早送りしたような速さで景色が変わる。気怠い熱気も感じない。


「良太のことを恨んだりしてないよ、だからさ――」


 夜が世界を包んだ。満天の星空が煌めいた。


「前向きに生きて、私が推してるの、そこなんだから」


□■□■□


 目覚めた。白いベッドと白い部屋、そして、心配する両親の顔。

 事故の時、頭を打ったらしい。地面に思い切り打って気を失ってたらしい。その時、ずっと手にしてた物があったとかで、親が後日それを持ってきた。


 スケッチブック。土埃に細かいすり傷が事故の酷さを物語っていて触れるのに躊躇した。

 でも、どうしても確認したくて、指を伸ばした。


「………………あ」


青空と背高草の真ん中で、嬉しそうにオカリナを吹く少女の横顔。

 絵は、記憶よりも鮮明で色鮮やかだった。


「ねぇ良太、あの子何だけど。重体で意識もいつ取り戻すかわからないんだって。可哀想に」


「ねぇ、母さん。彼女に会いたい」


「良いけど、どうするの?」


 夢で彼女が言ったことを思い出した。


「推し活。頑張ってる人を応援するんだ」

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