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平山芙蓉

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分厚い壁が目の前にある。とても分厚い壁。踏み入れる価値のない者を拒み、栄光の光を浴びるべき者を選別する、分厚い壁が。私は壁の前者側にいる。暗い影に覆われる舞台袖から、嵐の前の静けさを眺めるだけの、傍観者の一人。それでも、客席に座る観客よりかはランクが上だと言い聞かせている。もっとも、負け惜しみなんてつまらないものに浸っているだけかもしれないけれど。


 息を吸って、吐く。落ち着くためではない。覚悟を決めるためでもない。どちらも必要ないものだから。これは……、至って普通の呼吸。日常の上で、普段は意識しないものに対して、意識を向けるようなもの。つまり、あの舞台へ上がることができなかった私が、ただただ凡人であったという証拠だ。


 注意を促すアナウンスが会場に響く。均一的でのっぺりとした、感情のない声だった。壁の隙間から見える世界に、肌を粟立たせるような電気を感じる。事実、舞台にいるプログラムの合間に生まれた弛みが、徐々に張り詰めつつあった。間隙にあったざわめきが、何か得体の知れないものを孕む予感がする。

 雲だ、と思った。稲妻を内に秘めた不可視の雲が、ここにはある。なのに私は、それを壁越しに感じることしかできない。その資格を、あの人が認めてくれなかったから。ここに立てないことは、この一年を棒に振ったのも同然だ。


 何が足りなかったのだろう。雛壇の上。指揮者から最高峰に構える、同期のキナの横顔へ、答えを求めるようにして目を遣った。まだ舞台の照明は点いていないというのに、生まれ持ったブロンドの髪は、その闇を払い除けるかのように存在を示している。それは正しく、吹奏楽の花形を飾るに相応しい面持ちだった。


 ……いや、あれは花なんかじゃない。しなやかな肉体を駆る獣だ。天性の才能だけでは飽き足らず、ストイックな世界にずっと身を投じ続けた、獅子の類。並みいる強豪の顔として、そこに座る存在。


 そんな相手を私はどうやって越えなければならなかったのか。分からない。努力だけでは埋まらない時間と恩恵の差が、私の答えを曇らせる。


「プログラム二十五番……」


 遂に、本番へと導くアナウンスが流れる。端から覗く舞台の温度は、一気に下がった気がした。誰も壁のこちら側へ視線を向けない。ただついて行くべき指揮者の顔だけを、みんなが見つめている。それは本番だから当然のことなのに、私のような敗者は眼中にない、と思われているようだった。

 そして、太陽のような照明がゆっくりと瞼を開く。会場を占めていた雲は決壊して、拍手の雨を降らせた。

 どうしてだろう。

 指揮者が指揮棒を振る瞬間にも、

 その瞬間を集中して見つめる他の部員の顔にも、

 視線は一切、動かなかった。

 ただ一点。

 キナの姿だけを、私は見続けていた。

 息が重なり、音を奏でるその様は、全く違うパーツだった個々が、一つの顔を形作っていくようだ。その中でも群を抜いて、キナだけが美しい。それ以外の全ての要素が、彼女を映えさせるためそこにいる。


 気付くと、私は壁に手を添えていた。低い振動が伝ってくる。でも、それは偽物だ。磨り硝子を通して月光を浴びるような、虚しい行為で得られるもの。顧問の言葉を思い出す。この舞台に立つ者の心は一つだ、と。ならば、それを傍から見ることしかできない私は……、選ばれなかった私たちは、一体何なのだろう。今までの努力に、去年の選抜を逃した雪辱を晴らすためだけの日々に、意味はなかったというのだろうか。


 私は問う。

 ここにいる私を否定したあの人に。

 ここにいる私を差し置いて音を重ねる奏者たちに。

 そして、

 舞台の上でも練習と変わらない表情で吹くキナに。

 努力だけで埋まらないものを、どうやって埋めればいいのか、と。

 誰も答えてくれない。

 だって、その姿たちこそが答えなのだから。

 私たちを隔てるこの壁の厚さこそ、問いの答えだから。


 課題曲が終わり、自由曲へと移るために譜面を捲る音が束の間に響く。それはあまり必要のない行為だ。彼女らの頭の中に楽譜は全て叩きこまれているから、今更目を遣る必要さえないだろう。そんな些細なことを気にしている私が、なんだかちっぽけに思えた。


 準備が整うと、指揮者が指揮棒を構える。ここからが本番と言っても良い。譜面を譜面のままに演奏するための課題曲なら、自由曲は更に違った実力を量られる。その出だしを飾るのが、キナのソロだ。何年も研鑽を積み上げてきた彼女が罵られ、瞳を潤わせる様を、何度も目の当たりにした。良いと認められた次の瞬間に、否定される様を、私は隣で見ていた。私とは比にならない辛さが彼女の肩には乗っている。

 それでも、


 失敗すれば良いのに。


 指揮棒が振られ、呼吸が聞こえた時、私はそう願った。心に射した翳りは、簡単に拭えなかった。ハーフとして持つ美しい相貌が歪み、認められたこれまでを最後の最後に否定されてしまえばいい。ぼんやりと、湯に浸かる時のような感覚で考えていた。そんな汚い感情はもちろん届かない。足元に伸びる影が何を考えているのか、窺い知れないみたいに。

 だからだろう。彼女は最初のソロを吹き通して、最高のパフォーマンスを見せた。


 それからは、強豪校としての矜持を保つべく、完璧とも言える演奏をやりきった。ライトが消えて、再び舞台の上が暗転しても尚、私は彼女の姿から目を離せないでいた。


​​◆


 全てのプログラムが終了し、結果発表が始まる頃。私は一足先に会場を出て、広場のベンチに座っていた。続々と出てくる他校の生徒たちの表情は、泣いているか笑っているかの二つしかない。そんな人々を、蟻を見るような感情で眺めていた。私には知る由のない気持ちだ。悔しさも、喜びも、始まる前からへし折れていたのだから。半ば無気力な心持ちの私は、酷く場違いな存在に違いない。


 見上げた空には月が昇っている。その光は、ホールで目にしていた照明のものよりも、弱々しい。それでも、金色に満たない月の光は、祝福と慰労を放っているようだ。ただ、そこにこの虚しさを受け入れるだけの優しさは、感じ取れない。

 夜風が髪を梳く。涼しい風が、私の肌の上を奔る。着てきた意味もない夏服を脱ぎ捨ててしまいたい。さっきから時折、私は畏れを含んだ視線をぶつけられていることに気付いていた。それを向けられるべきは私ではない。中で結果を聞いている彼女たちだ。そう伝えたいけれど、事実を伝えなくとも察せられる者は、察せているだろう。

 視線が気になるのなら、中にいればいい。頭では分かっているけれど、共に結果を聞けるだけの勇気はなかった。私はどこにいても、部の行く末を見つめるだけの存在だ。聞こえの良い言葉で言えば観測者。飾らずに言うのなら傍観者。そんな人間が結果発表の場にいることは、自ら自尊心を傷つける自傷行為と変わらない。


 だから、この背負った薄い枷から、解き放たれたいと願ってしまう。今このコンクールが完全に終わるまでの時間は、ただの辱めと同じだ。それでも帰れないのは、まだ一抹の期待を持っているから。何かの間違いで、あの完璧な演奏が否定されるかもしれないと、信じているから。金賞という通過点に傷が付いて、唯一の汚点となってほしいと、浅く祈っているから。


「香蓮」


 ふと、私を呼ぶ声が背後から聞こえた。振り返ると虫の群がる街灯の下に、キナが立っている。ブロンドの髪は、舞台上とはまた違った美しい光を反射させていた。私はさっきまでの卑しい気持ちを必死で振り払って、どうしたの、と聞く。

「なんか、ホールの中、冷房が効きすぎてて暑くってさ」

 思わず出てきちゃった、なんて続けながら、彼女は何食わぬ顔で私の隣に座る。もちろん、断りなんて口にしていない。


「聞かなくていいの? 結果」早く独りになりたくて、私は聞いた。さっきから飛ばされていた視線の数が、もっと多くなっている。キナ自身の容姿もあるだろうけれど、あの演奏を見せつけられた結果も、少なからず要因としてはあるはずだ。

「いいの。どうせ今年も金賞だよ」屈託なく笑いながら、彼女は何の躊躇いもなく言った。

「凄いね……、自信」私は苦笑いを隠せないままに、そう返した。キナには私が自信なさげに笑っていると思っているのだろう。大丈夫、と自分の胸を叩いて視線を集めた。


「まあ、うちは代表も確実だろうね」


 キナはその実力を辺りに誇示する。前を通り過ぎる他校の生徒には、私たちを睨む者もいた。私はただ目を背けて極力、自分はそう思っていない、という意思表示を表す。実際、睨んできた人々の気持ちは分かる。この世界は、選ばれなければ意味がないのだ。耳を傾け、聞いてもらえなければ、それは虫の鳴き声と同じ。そう分かっていたとしてもきっと、割り切れない部分があるのだろう。キナは今、絶対的な自信で、自覚もなくその気持ちを踏み躙ったのだ。


「来年はさ、香蓮も一緒に舞台へ上がれるかな?」

「え?」急に彼女が話題を変えたので、つい素っ頓狂な声を出してしまう。

「だって、来年で最後の年でしょ? だったら、最後くらい一緒に出たいじゃん」

 だからさ。

 キナは立ち上がる。その動作には少しの澱みもない。演奏が終わり、観客の拍手を受ける時と全く変わらぬ動きだ。

 私は目を奪われた。

 私の前に屈んだキナに。

 彼女の輝く、金色の髪に。


「香蓮も、もっと頑張ろう!」


 風が私たちの間を揺れながら吹き抜けていく。そこには何もない。ただ空隙が挟まっているだけだ。手を伸ばせばキナの頬に触れられるし、彼女も私に同じことができる。

 なのに、そう考えても私から手は届かない気がした。ずっと遠い位置に、彼女の存在がある。その障害はあの舞台と舞台袖とを隔てる、あの大きな壁と同じものだった。

 目を伏せて、私は自分のスカートを見つめた。

 もっと頑張ろう。

 その言葉が、鐘の残響のように頭の中にあった。鳴り止まない。息が苦しくて、吐きそうだ。

「何なのよ……」

 埋まらない。努力や時間だけで、彼女の持つ才能という壁は埋まらない。どれだけ練習を積んだとしても、絶対に。それと同じ量だけ鍛錬を積まれれば、簡単に追いつけなくなるから。

「香蓮……?」

「なんでキナは、私が頑張ってる、って認めてくれないの?」心配そうに顔を覗こうとした彼女を、拒絶するように言った。自分でも背筋が凍るくらい、冷たい声音だった。網膜には焼けるような感情が張り付いている。それでも、目の表面は乾いていて、涙は出てこない。

「なんでそんな怖い顔してんのよ」キナはクスリと笑った。私を見つめる瞳は、無邪気な子どものそれと変わらない。

 そして、そんな純真無垢な顔のまま、

「認められないのは、ただの実力不足でしょ」

 と、彼女は言った。

 もう音はなかった。

 何かが壊れる音がした。

 それは錆びた金属が折れる時のような、

 楽器を誤って落としてしまった時のような、

 酷く滑稽な音色に聞こえた。

 嫉妬も畏怖も、憧憬の眼差しでさえ、キナにとってはただの風景と変わらないのだろう。

 覆せない精神の眩しさを、まざまざと見せつけられて、私はただ茫然としていた。

「ねえ、頑張ればいいだけなんだよ」

 キナは続ける。

「だって、私たちは努力したからあそこに立ったんだよ」

 持ちえない人間の気持ちを踏み躙っていることに気付かぬまま。

 高嶺の花に手を伸ばすために、後から続く者を踏み台にいることに、気付かぬまま。

「努力したから金賞を取れるんだよ」

 至って真剣に。

 至って単純に。

「欲しいものが手に入らないから他人を呪うなんて、ただの甘えじゃないかな?」

 彼女の正しさという邪悪が、私を叩きのめした。黄金に輝くその硬い精神が私の心を、ただの鉄屑へと変えた。

「だからさ、頑張ろうよ」


 ね?


 キナは口角を上げた。笑っている。しかしそこに、嘲笑も軽蔑もない。傷の手当てをした後のナースのように、柔和な笑顔だった。

「おーい、キナー!」

 彼女の背後から声が聞こえた。キナから目を離すと、先輩がこちらへ向かってくる姿が見えた。私はすぐさま目を逸らし、明後日の方向へと視線を遣る。キナは立ち上がると先輩の方へと元気よく手を振った。


「キナ、何してたのよ……」息を切らしながら、先輩が言った。相当急いでいたらしい。

「ごめんなさい、ちょっと冷房が効きすぎてたから、風を浴びに来たんです」

「なら、一言言ってから生きなさいよ。もう発表終わったのにいないからさ、びっくりしたんだよ」立ち上がったキナと話す先輩が、こちらを一瞥した。目が合ったけど、私には何も言わなかった。もしかしたら、部員として認識さえされていない野かもしれない。


「で、結果だけど……」先輩は、その結果を顔で示した。

「やった!」勝ち誇った笑顔から察したキナは両手を挙げて喜ぶ。辺りの人間は何事か、という視線を向けてから、その意味を知った。そこにはやはり、良く思わない視線も少なからずは混じっている。

 それに気付いているのはやっぱり、傍から見ている私と先輩だけで、当の本人は気にしていない。

「金だ! 次は全国だ!」

 夜空に彼女の声が響き渡る。

 ブロンドの髪は何度も跳ねて、乱れても尚、美しさを保っていた。

 そんな折、彼女は私の方へと突然振り返って、手を取った。

 熱の籠った手が私の手を振り回す。

「ねえ! やったよ香蓮! 次は全国だよ!

 姦しく叫ぶ彼女の喜びを、

 されるままに受け入れながら、

 その金色の矜持に傷が付いてしまえばいいのにと、

 私はただただ、静かに願った。

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blonde 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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