二〇一九年・孔
さすがに眠い、あと二日の連休、部屋の掃除ぐらいはしておきたい。あるいは、余裕があれば改めて山王の楽器屋へ足を向けるのもいいかと。色々なことを考えながら、
「じゃあそろそろ行くよ」
と承は立ち上がった。
別にいい、と言ったのに、中寉は承を駅まで見送ると言った。「洗剤が切れそうなので、ドラッグストアに寄るついでです」と、もうすっかり笑顔を出し惜しみするようになった彼は、ごく淡々と。
何のために来たのかを考えたなら、目的はもう果たせたと言うことも出来るだろう。山王駅での出来事でかたくなったお互いの心を、会話をし、食事をすることで解すことが出来た。ちょっと緩みすぎた感もあったところから、また元通り。
マンションから出て少し歩くと、駅まで繋がる商店街。午後八時、仕事帰りの客を惹き付ける赤提灯の古い店が目立つが、コンビニやドラッグストアもある、小さな本屋もある。駅を降りて食材を買ったスーパーマーケットは二階建てだった。
「……このへん、住みやすい?」
「以前住んでいたところに比べれば」
言葉を向ければ、きちんと答える。ただ、目からは「独り言」を語っていたときの光は喪われている。何に対しての不機嫌かは判っているし、解消する方法も知っているのだけれど、そうする理由が承には思い付かない。連休明けに、また機嫌よく仕事をして欲しいから、と言うことは可能だけれど、あまりこの男に期待を催させるようなことはするべきではないと思う。要は自分の機嫌のためにこそ中寉の機嫌を損ねたままでいて欲しくないだけなのだ、我儘は自覚している。
しかし、自覚できるのは我儘だけで、他にある雑多な感情は、なかなか識別できない。喉元につかえている言葉があることは自覚しているのだが、例えば、
「……お前はまた、あそこの……、山王、行ったりするのか」
そんな大きなお世話を向けてみても、ちっともすっきりしない。中寉は表情を変えずに、
「行くと思います」
と答えた。不機嫌の勢いで「マスターには関係ありませんよね」とでも言われていたら、こっちも不機嫌になって、何だあいつはと家に着くまでの時間を全部使って憤然として、寝て忘れることも出来たかもしれない。
「お話ししました通り、ああいうことをするのが、僕は好きなので」
精神的な部分での愉悦だけが原因だと言われてしまうとお手上げだけれど、肉体に得る性的快感じたいも欲していなければ……、とは思う。
ずっと謝っていなかったな、と承は気付いた。
「ごめんな」
視界の左斜め下が白くなった。中寉が顔を、久しぶりにこちらへ向けたのだ。
「俺がいなかったら、お前いつものペースで遊んでたんだろ。俺が邪魔したんだよな」
視界から中寉が消える。二秒ほど立ち止まって、また左の隅っこに収まった。
「マスターが嫌な思いをせずに済んでよかったです。逆に」
はあ……、と物憂げな溜め息が、彼の歩く後ろを付いてくる。
「僕が不快な思いをさせてしまいました。耳ざとい人であれば偽物の音や声に騙されてはくれないと考えて、あれが一番効果的であると判断したのですが」
「すごいなと思った」
「さぞかしお厭だったのではないかと思って、つらいです」
声に表情が戻ってきた。
「まあ……、天井見てたから特別厭とも思わなかったけど」
わざわざ顔を向けて見なくとも、陶で出来ているみたいだった顔にも何らかの色が浮かび上がっていることが判った。
「何だ、その、声は聴こえたからさ」
駅横の踏み切りが見えてきた。ちょうど鐘が鳴り、下りの特急がガラガラで走り去って遮断機が上がる。
「……さっき言ってたけどお前、歌下手なの?」
渡って行く人、渡って来る人。承は渡った向こうの改札を潜って上りに乗らなければいけない。
「音痴を自覚しています」
「意外な気がする」
あとちょっと、というところでまた警報器が鳴り始めた。歩調を緩めた承に倣って足を止めた中寉の脇をすり抜けて、降り始めた遮断機を避けて急ぎ足に渡って行く人がいる、渡って来る人もいる。危なっかしいが、日常の光景なのだろう。山王行きの各駅停車が左からやって来て、ホームに滑り込んだ。遮断機が上がり始めるなり大急ぎで走れば間に合うのかもしれないが、承は黄色と黒のバーが上がり切るのを待ってからちんたらと歩き始めた。
靴底で四本の線路の窪みを捉えて越して、
「マスター」
駅入り口の前を素通りして歩く承を、中寉の声が追い駆けて、追い付いた。
「これは単純な興味で訊くんだけど」
「はい」
「お前は、カラオケに入ったことある?」
踏み切りの向こう側からも看板が見えていたカラオケ店の前で立ち止まって、承は訊いた。なさそうだな、と思って訊いたのだ。案の定、「ありません」と彼は答えた。誘ってくれる友達がいなかった、ということなのだろう。
「ドラッグストアってさっきのところだよな。何時までやってるの」
「十時半までですが」
承を見上げて、店を見やって。
よくないぞ、とは思っている。
身体は疲れている、だいぶ眠い。ぎこちなさを解消したいという気持ちは互いに共通のものを持っているにしても、いましがたの会話でも十分だったのではないか。
そもそも、そんなに気にする必要もないはずではないか。例えばもう一人のアルバイトと、休日を合わせて遊んだことなどあったか。向こうが家やら大学やらにいるとき、どんな顔で過ごしているかなんて考えたことがこれまで一度でもあったか。
それなのに、中学時代に帰り道が同じだった別のクラスの女子と、何となく話すようになって、用もないのに本屋に立ち寄って、「上之原くんそんなの読むんだね」なんて感心されたくて、初めてカクテルの教本だったりギターの雑誌だったりを買って帰るみたいな真似を。
部屋に通されても、中寉はきょろきょろと落ち着かない。また、表情の孔が広がる。
「こういう場所に来るのは不良だと思っていました」
承は自分が孔に指を突っ込んでいる気になった。
「ああいうトイレの方がずっと不良じゃないのか」
「そうかも知れませんが」
「あそこで知り合った奴に」
受付でオーダーしたドリンクがすぐに届いた。承も中寉もノンアルコールだ。
「……デートしようとか、もっと遊ぼうとか誘われることはなかったのか」
両手でグラスをもって、ストローでジンジャーエールを吸う。
「たまにありましたが、断るとあっさりしたものです。男の本能とも無関係ではなかったと思いますが」
少し考えて、「ああ、なるほど」と納得が行った。可愛くて綺麗で魅力的であったにせよ、一時の性欲の昂りに任せた結果として、後悔の念に苛まれる男たちは、これっきりである方が好ましかろう。
自慰のための道具を何度か買ったことがある。買うときにはどれにしようかとわくわくしながら選ぶのに、使い終えると一刻も早く捨てたくなる感覚は、承にも備わっていた。
「……どうして断ってた?」
「僕と興味の対象が違うと思ったのです。もちろん、そもそも相手にセックス以外の興味を抱けないという場合も少なくありませんでしたが」
個室だからと思うのだろう。声は抑えたものであったが、ラディカルな言葉を中寉は選んだ。
「でも、いま思うと損をしていたかもしれません。僕が相手の興味の対象に、同じほどの興味を向けられるようになればよかったのです」
再び戻ってきた表情と言葉。基本的に礼儀が正しい。これがこの男の肌に染み付いた振る舞いなのだろう、誰かが何か言えば、必ず何か、言葉を返さなければならないと思っている。何せ元首相の相手をしていたのだ。そのときの機嫌がどんなであれ、無視など出来はしないだろう。
承は更に想像を進めた。中寉の、整頓され過ぎた言葉遣い、基本的には希薄な表情、決して大きくない声、……をベースにして、原則ごく狭い幅でのみ表される感情。これもまた、畑村の相手を円滑にしていくために身に付けたものではなかろうか。機嫌の上下による表情のバリエーションを予め伝えてしまっては、相手に自分の感情を読ませることになってしまう。畑村の愛を食べることは、中寉にとっては仕事なのだから、あくまで淡々と、心の内側まで踏み込ませぬよう努めて来たのではなかろうか。
「何か唄えるか」
タブレット端末を渡してやると、不慣れな手つきで操作して、
「僕は本当に音痴ですよ」
とまた言った。
「自分で判るのは相当なレベルだよ」
「つまり、僕は相当な下手だと自覚しているのです」
「誰かにそう言われた?」
「ごはんを作っているときであるとかお風呂に入っているときであるとか、自分で聴いた上での判断です」
「あんまり言われると却って聴きたくなるけどな」
むっとした顔で承を睨んだ。感情を露にすると、この男はいっそう幼い顔立ちになってしまうようだ。
「他の店はカラオケ置いてるところも多い。うちも置こうかと思ったことがある」
「マスターのご趣味には合わないように思いますが」
そう。静かに落ち着いて過ごせる場所、ごく普通のカフェバーのように、ちょっとした待ち合わせに使う、ちょっと気の効いたシングルモルトを、オーダーが入ってからミルで挽いた珈琲を、呑むためだけに立ち寄る、あるいはそういったものを傍らに読書をして過ごす……、そういう雰囲気の店である。だか、思い付いた数秒後には打ち消した。
「でも俺、ギター弾くんだよ」
「そうなのですか」
とタブレットに視線を落としていた中寉が、
「そうなのですか?」
目を丸くして顔を上げた。時には生返事だってするらしい。
「ギターというのは、弦楽器ですね」
「そうだな、これぐらいの。小学校のときはピアノもやってた」
「ピアノ」
「鍵盤楽器」
「存じておりますが」
「意外?」
一秒余白。
「マスターは指がとても長くていらっしゃいますので、ひょっとしたらそうなのではないかとは思っていました」
自分の手のひらを見てみる。中寉は「僕はこの通りの手ですので」と開いて掲げて見せた。華奢で小さな身体であるが、手はどちらかと言うと幼さが強く出た印象だ。指はあまり長くない。
「マスターは美しい手をしていらっしゃるのです」
バーテンダーという仕事は、他の接客業以上に人からの視線に敏感でなければいけない。水仕事も伴うから、手の保護保湿には気を遣っている。
「左手の指の腹触ってみ」
恐るおそるの白い両手の指が、承の指に絡む。
「かちかちです」
「ギターの弦押さえるから。弾いてるうちにこうやってどんどん皮が分厚くなって固くなって行くんだ」
手のひらを開いて、中寉は興味深げに重ねた。ほう、とその唇から羨望するような溜め息が漏れた。
「羨ましいぐらいに長い指です」
「ガキのころからピアノ弾いてると指も伸びるらしい。そう、……それでな、何でお前をカラオケに連れてきたかって言うと」
「僕の音痴をお嗤いになるのでしょう」
「笑えるぐらい音痴だったらそれは逆に誇っていい。あと言っとくけど、俺も音痴だ。……お前に俺のパートナーをやってもらえないかなと思って」
「はい?」
中寉は承の左手を両手で握ったまま、呆気に取られた。また表情の孔の直径を拡張した感があった。中寉の口の中が覗ける、白い歯が行儀良く整列していた。
「昔、バンドやってたんだよ、大学のとき。就職を機に辞めちまったけど。そのころの知り合いに、今度やるライブに出ないかって言われてさ。でも、いま俺独りだし、俺自身は歌唄わないからいいよって断ったんだけど」
ぼうっとしていても、頭はいい。
「つまりマスターは僕を唄わせて、マスターが満足するぐらいの唄いか方が出来たなら僕を音楽活動上のパートナーにしようと」
いま、言葉をやけにゆっくり丁寧に切って強調した箇所があったな、と思った。
「そんな大袈裟なもんじゃないけどさ。あそこのトイレで、あーいい声してるんだなあ、唄わせたらどんな感じなんだろうって、興味持ったってだけ」
中寉はずっと承の左手を握っていたことを思い出したように、慌てて離す。ジンジャーエールをちゅーっと吸って、
「すみません、ちょっとお手洗いに」
と言って出て行った。そのまま十分近くも戻って来なかったから、さすがにどうしたのだろうと心配になっていたところである。
「お待たせいたしました。ちょっとトイレが混んでいましたもので」
すう、はあ、と深呼吸をし、テーブルの上、彼が部屋を出て行くときのまま置かれたタブレット端末を指でぽちぽちと操作する。横顔をタブレットの光が白や赤で照らす。唇をきゅっと結んで少し凛々しい。
「では」
力のある目をしていた。あの突撃面接のときなんて何の動揺もしていなかったのに、今は少なからずの緊張感を伝えてくる。
「唄わせていただきます。お聴き苦しいと思われましたらどうぞご遠慮なく止めてください」
中寉が入れたのは、ああ、五年ぐらい前に流行ったよな、なんてちょっぴり懐かしく思わせるガールズバンド、定期的に出てきては、もうちょっと定着してもいいのにと思うのに消えてしまう泡沫である。「天使の右手で待ち合わせ」というフレーズが印象的だった。宿木橋の最寄駅の、富緑駅東口広場を舞台に歌った曲である。
でもいいのか、これ、高いぞ。
マイクを握って、ソファとテーブルの間の狭いところに立って、天井の照明が安っぽく緑に光れば緑に、青く光れば青に、頬の色を凌辱させて、中寉はイントロ終わりを待っている。唄っているときはどんな顔をするんだろう、と指をぐりぐりしながら承は、自分の粘土質の感情の土壌に中寉の指が刺さり、いまこの瞬間も少しずつ少しずつ拡げられているという事実には全く無頓着でいた。
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