二〇一九年・嗟蔑

 過去に二階、二階、そして現在は一階と低層階に慣れている承にとっては、ちょっと想像の出来ない暮らしである。しっかりしたセキュリティ、天井高く植木鉢の配されたホールからエレベーターに乗ると、途中で耳が詰まった。家賃がどれぐらいか知らないが、……これがまさに身体で稼いだ金か、と圧倒される。

「引っ越して来るときに前の家にあったものは全部捨ててしまったので、何もありませんがどうぞ。すぐごはん作りますので、ごゆっくりなさっててください」

 玄関開けたら台所、右のドアを開けるとユニットバス、そして襖の向こうは六畳間、という暮らしに全く何の不足も感じていない承は、まず掃除が大変そうだなという印象を受けた。玄関に廊下、左手は洗面所とトイレだろうか、ドアが二つ並び、右にも扉がある。こちらは寝室だろうか。正面のドアを開けると広々としたリヴィングダイニング、オープンキッチン、大きなテーブルに、ソファ。

 小さな埃ひとつ落ちていない。

「……お前ここに独りで住んでるんだよね?」

 しばし呆然として、思わず訊いてしまった。台所に立って早速米を研ぎ始めた中寉は「はい」と応じたが、どう見たってファミリータイプの物件である。家賃、という考えを承はすぐに頭から掃き出した。立地を考えても、……三千、いや五千万……。テレビは、こんなもん部屋に置いたら俺寝る場所なくなるだろうなと思うほどのしろもの。

 目に映るあらゆるものと、しゃっこしゃっこしゃっことリズミカルに米を研ぐ音がそぐわない。

「いつか、友達が出来たら呼んで、ごはん作ってあげてって思ってたんですが」

 水を切りながら、自分の手元に向けて中寉は言った。

「先程もお話しました通り、友達はいまのところおりませんので」

 思うに、この男はずっとこういう部屋に暮らしてきたのだ。学校に通い、それが終わればどこかの「ティールーム」に寄って男の欲を身体に浴び、こんな感じの部屋に帰って身体を洗い清め、夜は好色な老人に貪食される。

 幸せだったのか、いまお前は、幸せなのか。中寉がどう考えているのか訊く気にはならなかった、……答えてもらったとして、どんな顔で聴けばいいのか判らないので。

「ごはんのスイッチを入れました。ああごめんなさいマスター、気が利かなくて。何かお飲みになりますか」

 一日外にいて、しかもトイレに長逗留してしまったので、ソファに座るのも何だか憚られて、フローリングの上にぺたんと座った承は、「おかまいなく」と返した。

「あんまり、マスターのお口に合いそうなものはないですけど」

 感情というものは、粘土に突っ込んだ指をぐりぐりと回して幅を広げていくようなものなのだろうか。今日の夕方までは、無表情を基準に控えめな笑顔を少しばかり覗かせるだけだったのに、あのトイレで怒った顔を見せたことで孔が広がったのではあるまいか。スーパーを歩く辺りから、中寉の笑顔の数は明らかに増えていた。

「……独りのときに呑んでるのか?」

 店では、休憩時間と上がりには何でも好きなものを一杯呑んでいいと言っているが、いつも烏龍茶ばかり呑んでいる。もう一人のアルバイトは上がりにカクテルをねだるのが常だから、中寉は下戸なのだと思っていた。

「成人ですから、呑めますよ。ですが、あまり強くないもので、外では呑まないことにしています」

 冷蔵庫から出してきたのは可愛らしいフルーツの絵が描かれたの缶チューハイだった。

「マスターは、いつも美味しいウイスキーを呑んでいらっしゃるのでしょう」

 とんでもない。勉強のためには身銭を切ってでもそうしたものを口にしなければと思っていたのは何年も前までのことで、場末の居酒屋で出て来るようなヤカン酒だって美味いと思って呑んでいる。承がいつまで経ってもソファに座らないからだろう、強くすすめることもしないで、「リンゴとパイナップルとどっちがお好きですか」なんて、自身もフローリングに正座して訊く。アルミ缶同士のぶつかる空虚な音と、太さの違う喉が鳴らす音が続いて、溜め息までも重なった。ほとんどジュースだが、不味いとは思わない。

 一缶呑んだだけで、中寉の頬は酒の精の口付けを享けたみたいに紅に染まった。こんな顔で夜明けの電車に乗っていては、あの発展場のような場所でなくとも危なっかしい。自覚があるから外では呑まないことにしているのだろう。軽やかな足取りで台所に戻っていって、鍋に湯を沸かし、冷蔵庫から取り出した何か菜物野菜を湯がいている。おひたしでも作ってくれようとしているのだろう。

「なんか手伝うことあるか」

 声を投じた承に、

「では、僕の独り言を聴いていただけますか」

 なんて答えを、中寉は寄越した。

「いつも、こうして家でごはんを作るときにはぶつぶつと独りで色々なことを言っているのです。歌を唄うときもありますが、マスターのお耳に入れるのは心苦しいので、それは自重します」

 男としては高いが、それでも落ち着きのある声をしている。音痴であるとは考えにくいが、本人がそう言うものを強いて聴かせろとも言えない。

「マスターは人を差別したことがありますか?」

 台所までやって来た承に、手元の計量カップに調味料を合わせつつ中寉は訊いた。独り言という前置きがあった、答えるべきかどうか迷っているうちに、

「僕は、差別をされる側でした」

 中寉が言葉を継いだ。

「僕が畑村先生の『書生紛い』であることは、僕がどれほど隠そうと努めても、必ずどこからか漏れて知られてしまうことでした。僕は小学校のときから五回転校をしています。どこに行っても僕は汚いこどもとして差別されていました。しかし、僕は周囲を恨むことは一度もしませんでした。何故なら僕は、僕のような境遇のこどもを見たとして、きっと彼のことを差別するに決まっているからです。僕と同じ環境に、例えば学校にそのこどもがいたなら、僕は自分に差し向けられる差別の刃がどうにかして彼に向くように知恵を搾っていたに違いありません」

 穏やかな表情、痛々しい言葉、小さじを用いて計量カップに注いでいく。出汁はさすがに鰹節からひいたものではないようだが、それで十分である。

「先程電車の中でお見せしたように、僕はあのトイレのような場所で、自分の身体が大人としての機能を持つか持たないかぐらいの頃から遊んできました。彼らからお金を貰うことはありません。どうしても貰って欲しいと言われて仕方なく受け取ることもありましたが、そのお金は恵まれないこどもたちのために寄付しています」

 悪いことではないが、耳に生温かい水を流し込まれたみたいな気持ちに、承はなった。片足で跳ねてもなかなか抜けないで、中寉の言葉が脳の近くで膨らんでいる。

「とても楽しいと思うのです。僕はどう頑張っても清らかな生き方は出来ません。僕に触る人たちは、僕と同じぐらい汚いと思います、そして、畑村先生のように汚いと。僕が差別的な扱いを受けていたのは畑村先生のせいでした。先生が僕を欲したから僕は汚物としての扱いをされなければならなくなったのに、先生は僕を転校させる手続きをしながら、僕をかさかさの手のひらで撫ぜて言うのです」

 お前は可哀想、可哀想。お前はこんなに美しいのに、何故辛い目に遇わなけりゃいけないんだろうね。

 中寉了の人生を歪めた男は、中寉了が与えられた絶望に蹂躙され静かに悶え苦しむ様を見て憐憫するという愉悦を謳歌した末に死んだ。支配するものとされるもの、明瞭なコントラストだ。

 酒を帯びても中寉の手元の動きは正確だった。バットに横たえた小松菜を調味液に浸して、ラップを掛ける。細い指先が、ぴっ、と小気味いい音を立てた。酔いによって作動しているのは舌だと思った。

「思えば僕は昔から、思いきり意地汚く生きることにそれほど躊躇いを抱いたことがないのでした。僕はたくさんの愛を食べて成長しました、他のこどもたちと同じように。僕が受け取った愛の量というのは、ひょっとしたら他のこどもよりも多いぐらいだったかもしれません」

 そうかもしれない。

 この住まいが、中寉の手にしたものだ。その美貌によって、老いて死ぬのを待つばかりの宰相から掠め取ったものだ。のみならず、あの発展場のような場所で、中寉は数えきれないほどの愛を受け取ってきた。

 これは想像に過ぎないが、中寉の美しさに魅了されて、本気で中寉を得ようとした男だって少なくないはずである。事実、一晩店で働いて中寉が誰かに口説かれない日などありはしない。

 彼は自分の身体を、金ではなく愛を得るために用いた。手にした愛を、ばりばりむしゃむしゃ音を立てて貪食する。

 そして可愛らしくげっぷをする。

 自分の美によって得たものを、この上なく粗雑に扱うこと、……が中寉の趣味なのだと承は思った。

 それが自身の美に対する冒涜であることには、きっと自覚的だろう。

 ……いまは、何をしているのだろう? 脂の乗った鰤の切り身に、醤油を振り掛けて、すぐにキッチンペーパーで丹念に拭っている。

「こうすると、臭みが取れるのです」

 承に向けられた顔は、心なしか得意気で、何より家庭的なものであるように見えた。ふと、承はこの男が色々な表情を顔に立ち上らせないできたのは、まだ多少は自分のしているふしだらで背徳的な趣味に後ろ暗さを抱いていたからではないかと邪推した。中寉が例えば店で、もう一人の、仕事熱心とは言い難いが愛想はよくてしょっちゅう客とのおしゃべりに花を咲かせているアルバイトぐらいの半分でも表情豊かであったなら、中寉はもっともっと大量の愛を食べることが出来るようになるのではないか、彼の趣味はますます充実するのではないか。それをしないのは、さすがに自分の悪食をはしたなく思う気持ちが残っているからではないか。

 中寉はキッチンペーパーで丹念に醤油を拭き取った鰤の切り身に、こんどは刷毛で片栗粉をまぶし始めた。調理用の刷毛なんて、実家で見た以来である。ムラにならないよう丁寧に、両面に。それを終えると、醤油と砂糖と酒と砂糖、どれも匙できちんと計って合わせていく。その所作の一つひとつには無駄がなく、優雅だった。これから出来上がる美味なる食事へ、中寉が仕事をするというよりは、食材と火に仕事をさせる、コンダクターの厳しくも美しい所作である。

 独り言、という前置きがあったから、しばらく中寉が言葉を切っても承は続きを促すということはしない。相槌を打つことも、もちろん。ただ、仮に感想を求められることがあったとしたら、こう言っていただろうなと思う。

 お前は綺麗だね。

 それは、中寉にはもっとも呪わしい言葉として響くかもしれない。

 一日一緒に過ごして、これまで店で見てきた何倍もの表情の色彩を見せてもらって、こうして家に招いてもらえて、手料理を振る舞ってもらえて。中寉は自分と良好な関係を築こうとしてくれているのかもしれない。そうであったらいいな、とは思うし、少なくとも承はこの男を雇い入れて以降、オーナーの言を素直に容れて、仲良くやっていこうと努めてきた。成功しているのだとしたら、素直に嬉しい。

 しかるに、承が中寉の美しさを理由に中寉を褒めそやし、中寉から何か、煎じるための爪の垢でも得ようとした途端に、中寉にとって承は他のあらゆる男と同じほど価値のないものに落ちてしまうのではないか。

 中寉の背後の炊飯器がメロディを奏でた。

「もう炊けてしまいました。いま焼き始めてしまうと、小松菜に味が入らないので一旦ここで独り言を止めます」

 片栗粉をまぶした切り身を皿に取り、手を洗う。

「マスター、もう一本呑まれますか?」

 いいや、と首を振った。甘いジュースみたいな酒を食事前に何本も重ねようとは思わない。

「……差別をしたことがあるかって訊かれたな。あるよ、何度も」

 テーブルと、ソファ、それからテレビ、他にはあまりものがないリヴィングを眺め渡すと、枯山水の庭を見ているような気持ちになる。大海に浮かぶ島がそれらであって、フローリングに座ると漂流しているみたいだ、と。テーブルの近海に腰を下ろした承の向かいに中寉も膝を揃えて座った。

「俺は、元々ゲイが得意じゃなかった。苦手っていうか」

 おや、と中寉は目を丸くした。

「では、宿木橋で働くのはおつらいでしょう」

「いいや。いまは平気だ。知ってるだろ、他の店の奴と呑んだりするし」

 ミツルをはじめとして、周囲の店主たちとの関係は良好である。

「中三の、修学旅行のときにな、俺のところは公立で、京都と奈良だったんだけど。ついでに言うと高校も公立で、京都と奈良だったんだけど」

 気の毒そうに中寉は表情を曇らせた。

「僕のところは、中学は京都と奈良でしたけど、高校は韓国でした」

 中学のとき、二泊三日の食事のうち五回エビフライが出たという話はしないでおこうと思った。

「お前のところはどんな宿舎に泊まった? その、京都奈良のとき。順番は京都奈良?」

「奈良京都でしたね。どちらも、六人ずつの部屋でした。奈良はホテルで、京都は鞍馬のほうの温泉旅館のような場所でした」

「俺のところも奈良京都の順番で、奈良はいま思うとすごく『いかにも』って感じの、大部屋の宿舎だったけど、京都のほうが六人ずつの部屋だった。そこそこ仲のいい連中と同じ班で、畳の上に布団並べてさ、まあよくある話だけど、教師の見回りの目を盗んで夜更かししてくだらない話をするつもりでいたわけだ」

 ちょっとピンと来ない、という顔を中寉はしていた。ああそうか、友達がいなかったんだっけ。きっと独りでお行儀よくさっさと寝たのだろう。

「でもまあ、疲れてたんだろうな。あっちこっち歩き回った後だったし。だから京都の晩、俺はすぐ寝落ちした。班の他の奴らは起きてたのかも知れないけど、それもわからん。どうも他の班の奴らは女子の部屋に遊びに行って教師に見付かって大目玉食らってたらしいんだけどな」

 承は、夜中に異変を感じて目を覚ました。

 誰かが自分の身体に触っている、ということを理解したその次の瞬間には、同室の者たちどころか廊下で正座をさせられて大目玉を食らっていた連中も、食らわせていた教師にもはっきり聴こえるぐらいの怒鳴り声を上げていた。

 テメェふざけんじゃねえこの変態!

「……同じ班の奴がさ、俺の身体に触ってきたんだよ。寝ぼけてとかじゃない、しっかりと」

 布団を跳ねのけて飛び起きた承は、誰が、何をしていたのか、真っ暗な部屋の中で見抜くことは出来なかった。暗闇に蠢き、欲を携えた何者かが、承のパジャマのズボンを脱がしに掛かったのだ。いや、起き上がったとき承はボクサーブリーフが半ばまで脱げていた。異変を聞きつけて懐中電灯を手に飛び込んできた教師が最初に見たのは、暗闇に浮かび上がる承の半ケツであった。

 布団の上から見渡しても、誰が自分に狼藉を働こうとしたのかは解らなかった。しかし承の股間は、はっきりと、自分ではない何者かの手が、つまり枕を並べた同班の中の、友達の顔をした誰かの手が、下着の中のものを掴んだ感触が残っていた。

 中寉は表情を消して承の言葉に耳を傾けていた。

「結局、誰がやったかは判らなかった。いや、正直なところ『誰が』っていうのは、俺の中でそんなに大きくなかった。ただ、……怖いって思ったんだ。俺は一度だって自分が誰かの、そういう興味の対象になることがあるなんて思ったことはなかったから」

 教師には寝ぼけたと決めつけられた。承が上げた怒声と晒した半ケツで救われたのは大目玉がなあなあのぐだぐだに終わった別班の連中である。

 その夜、承がろくに眠れなかったことは言うまでもない。

「もちろん、そういう……、男が好きって思う男がいることは知ってたよ。でも、それからしばらくは、俺は差別をしてたと思う。それから高校行って、大学行って、……少しずつそういうのが柔らかくなっていった。付き合った彼女がオタクで、ボーイズラブか、ああいうのが好きって子で。初めのうちはそんなのの何がいいんだって思ってたけど、まあ……、勝手なもんでさ、惚れた相手の好きなものだと悪く言えないわけだ、だんだん抵抗がなくなっていった」

 中寉は静かに頷いた。

「創作されたものと僕らのような者は少々趣が異なるとは思いますが。同級生からそういった手出しをされた経験は僕もあります。学校のトイレで相手をするよう求められたり、裸の写真を撮られたり。彼らのことは、好きではありませんでした。僕で興奮しているくせに、自分の沽券のために僕を軽蔑する言葉を口にするので可愛げがありません」

「沽券?」

「心では差別し卑下する対象である僕を前に、身体の反応を止められないことを恥じるからではないかと」

 まさしくそれを見抜く眼力を備えているに違いない中寉だ。

「……まあ、宿木橋で働いてて、マイナスの感情がゼロになったとは言わないけどさ。でも、たまに古い知り合いから『いまどこで働いてるんだ』って訊かれて、宿木橋だって答えるだろ。相手が一瞬言葉を失う。それが面倒くさいっていうか、失礼だなって思うことはある」

 承の言葉の終わりに、中寉が立ち上がった。作り付けの棚を開けて、趣味のいいウォルナットのテーブルにクロスを広げた。

「白状します。僕は今日、山王駅のトイレにマスターが入っていく姿を見たとき、一瞬立ち止まりました」

「俺があそこで遊ぶつもりで足を向けたと思った?」

 素直に「はい」と中寉は頷く。

「そうであったら、僕が追い駆けて入っていくのはお邪魔になると思ったのです。しかし、万が一マスターが何もご存じでなくて、ただおしっこをするために入ったのだとしたら、大変なことになると思いました。こっそり様子を見て、心配がないようであれば出ていこうと思い決めて」

 中寉は様子を観察して、すぐに承があのトイレを、あらゆるトイレと同一視して、正当な目的のためにやって来たのだと察知した。だから駆け寄って、個室に誘った。

 中寉の顔からは表情が消えていた。

「僕の内心に、マスターがあそこのトイレに遊びに来たのならよかったと思っていた部分があったことを認めます。もしそうであったなら、どんなに素敵だろうと。もっとも、マスターが目的を持ってあのトイレを訪れていたなら、もっと早く、それこそ僕がマスターと出会うより前にトイレで鉢合わせていたと考えたほうが自然なのですが」

 声が、淡々としたものに戻っていた。そろそろ酒が抜けたのか、白い頬は石か氷のようである。

「申し訳ありませんマスター。酔っ払いのろくでもない独り言にお付き合いさせてしまいました」

 こうなると、涙袋のほの赤いことが、静かなものではあれ、やはり如実に人間の証明となるのだった。

「鰤を焼きます。お口に合えばいいのですが」

 立ち上がった中寉の足音を聴きつつ、承は少し、憂鬱な溜め息を吐いた。

 そうなのかな、と思ってはいた。それほど驚きはない。

 承は自分を鈍感であるとも思っていなかったし、簡単な話として中寉が女だったら、とも思うのだ。自分の店で働いているアルバイトが、休日に、わざわざ俺の遊び先に先回りしていたなら。ああそう、……へえ、ああそう、と思うに決まっているではないか。

 ただ解せないのは、金を与えられるわけでも愛を与えられるわけでもない自分のどこに中寉を惹き付ける要素があって、まだ誰も上げたことがないと言う、けれど、いつ誰が来てもいいぐらい丁寧に掃除されたこの住まいに招いたのかということだ。

「ごはんはこれぐらいでよろしいですか」

 頷いて、飯がよそわれた茶碗を受け取って、向かいに座った男の茶碗を見る。夫婦茶碗である。なめこの味噌汁の注がれた椀も、食欲をそそる色に焼き上がった鰤が正しい向きに盛り付けられた角皿も揃いのものだ。中寉はさっき、この部屋に越してくるとき、前の家で使っていたものは全て処分したようなことを言っていた。ということは、これらの皿を買ったのは早くとも面接を受けに来たよりも後だ。初めから自分を呼び招く日のために買い揃えたなどと、気持ちの悪い自意識を働かせるつもりはなかったが、茶碗を持ち上げる左手が少しぎこちなくなった。

 味に関しては、文句のひとつもない、素晴らしいものであった。

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