5.名前
喋って動くぬいぐるみと共同生活を始めて数日、こんな日常にも既に慣れてきたそんなある日の事だった。
「いつになったら名前を呼んでくれるんですか?」
リビングの真ん中にあるカーペット上でごろごろしているぬいぐるみは明らかに不満げに声を上げた。そんな声を聞きながら、私もカーペットに座ってテレビを付けた。
「そもそも、名前知りませんし」
バラエティ番組の賑やかな声が部屋に響く中、私の大きくない声は掻き消されそうだった。しかし動きを止め愕然としているぬいぐるみと目が合ったことで、しっかりとそちらの耳に届いていたことが確認出来る。
「名前、知らない……?」
「自己紹介とかしました?していませんよね。逆に、それで知っていたら怖くないですか?」
「こわい……」
チャンネルを変えていた影響もあり束の間の静寂があったが、すぐに声がした。
「じゃあ、今、つけてください。ご主人」
カーペットから起き上がり、私の方へと歩いてきた。
「あの、まずその“ご主人”って言うのやめませんか?」
もう何を言っても無駄そうではあるが、この主従感が凄過ぎる呼び名はどうにかしたい。人に対して名前呼びを強要する割にそっちは名前で呼ばないのか。自己紹介はしていないが、今までの言動からするに向こうはきっと私の名前を知っているだろう。それなのにあえてあの呼び方をするということは、何か意図があるのだろうか。
「そんなことよりわたしの名前です」
私にとっては全くもってそんなことで済む問題ではない。だがこうなっては名前を付けるまで他の事には聞く耳持たず、なのだろう。たった数日と言えども一緒に過ごしたのだ。何となくではあるが性格は理解しているつもりだ。
「文句言っても受け付けませんよ」
私の言葉に目の前のぬいぐるみが嬉しそうにしているのが分かった。身体を左右に揺らして「まだかな」なんて待っている。そんな様子を見ながら少し考えて、口を開いた。
「継ぎ接ぎの兎のぬいぐるみなので…継ぎ接ぎの継ぎの字と兎の漢字を合わせて
本当に適当に付けた名前だった。何故かぱっと思いついたから、それだけ。ただ、その割にはちゃんとした名前を思いついたなと自分でも思う。そんなぱっと出てきた名前だが、思いの外すごく喜ばれた。人だったら嬉しさのあまり泣いているのでは、というレベルでの歓喜である。そんな喜びの中「やっぱりご主人はご主人ですね」と言われた。その言葉の真意は分からないが、馬鹿にされているわけではない、はずだ。
「私のことをやたらご主人呼びしますけど、私としては名前の方がいいんですけどね」
あれだけ名前名前と言っていたわりに、私の名前には一切興味が無いらしい。こちらの名前について一切聞いて来ない。既に名前を知っているのだとしたら、全く名前呼びはしない。何となく釈然としない。
「いいんです。ご主人はご主人なので」
「はい?」
いまいち会話が噛み合っていない気がするのは気のせいなのだろうか。
「聞いても、言っても、意味がないんです」
いや、なかなかに酷いことを言っているのだが、このぬいぐるみ――継兎はそのことを理解しているのか。つまり私の名前には意味がないということか。もう継兎の中では私の呼び方はご主人で決定らしい。
「多分、今わたしがご主人の名前を呼んでもしっくり来ないと思うんですよね」
「つまり私には私の名前が合っていないって意味ですか?」
冗談で言ったつもりだったのだが、予想外の反応が返ってきた。
「あ!確かにそうとも言えるかもしれないですね!合っているか合ってないかで言えば、きっと合ってないです!」
明るい声で酷いことを言われている気がする。もう長いことこの名前と付き合ってきているのに、ここにきて合っていないと言われるのか。特別名前に愛着があるわけでもないが、少なからずショックはある。しかも言われた相手がぬいぐるみとは、こんな経験まず出来ないだろう。
「ご主人の名前はご主人です。わたしにとって、これが全てです。この名前は何よりも意味のあるものです」
追い討ちをかけるように放たれた言葉に、何も理解が出来ず、もう何も言う気にならなかった。ただ一つ分かったのは、今後も私はずっとこのぬいぐるみのご主人なのだろうということだ。
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