3.似ているもの
私の耳がおかしくなったのか。
確かにこれから音が、正確には声が聞こえたのだ。先程までぐったりしていたはずの兎のぬいぐるみの顔が、じっと私の方を見ている。このぬいぐるみ、目が真っ黒なフェルトを縫い付けただけなので顔を向けられると地味に怖い。謎の圧を感じる。
思わず力が抜け、兎のぬいぐるみは重力に逆らえず手から滑り落ちる。
「わわっ」
兎のぬいぐるみは呻き、顔面を床にぶつけていた。見た目通りの間抜けさである。その動作をじっと見つつも、我に返り、急いで荷物を持って部屋を出ようとした。
私が今日ここに来たのはただ、この家にある自分の思い出と呼べるものを持ち帰りたかっただけだ。その思い出というのはもちろん、祖母との思い出だ。それ以外は特にない。そして、今後もうこの家に帰らなくてもいいようにする。その目的は果たせたのだから長居は無用だ。
そして私がドアノブに手をかけたその瞬間、ぬいぐるみの長い手は既に私の足を掴んでいた。さっさと行くには足蹴にすれば一発だろう。蹴ってやろうか。
「どこに行くんです」
ぬいぐるみが言葉を発したところで驚かなくなった。我ながら適応能力が高いと思う。足を掴むへんてこなぬいぐるみがこちらに向かって問いかける。無視したところですごい話かけてくるのだろうと思い、諦める。
「私の家に帰ります」
ぬいぐるみに何を話しているんだと自分自身に呆れつつ、何故だか懐かしい気持ちになる。このぬいぐるみに見覚えはなかったが、もしかして昔遊んでいたのだろうか。
「ここがあなたの家ではないんですか」
ぬいぐるみが首を傾げた。その仕草がちょっと可愛く見えたのは多分錯覚だ。そうであって欲しい。
「昔はそうだったかもしれませんけどね」
口から出た声音は思いの外自嘲気味であった。
「そうなんですか。じゃあわたしも準備するのでちょっと待ってください」
ぬいぐるみはそういうと長い手で腕組みをし「何がいるかな」等と言ってうろうろしている。
ちょっと待って欲しい。どういうことなのだ、これは。このぬいぐるみのこの言動、どう考えても付いてくる気ではないだろうか。
「何を、準備する必要が?」
ぬいぐるみと話しているこの現状にここまですぐに順応している自分を褒めたい。
「何って、ここを出るならちゃんと準備しないと。と言ってもそんなにものはないんですけど。ほら、ご主人がさっき荷物整理してたみたいなことですよ」
今の言葉で確信に変わった。このぬいぐるみ、付いてくる気だ。しかも何故か“ご主人”等という恥ずかしい言葉をさらっと言っていた。もしかしなくてもその言葉は私に向けての言葉なのか。
「当たり前のように付いてくる気みたいですけど、連れて行きませんよ。あとその“ご主人”ってなんですか。これからお世話になるからってことですか?図々しいにも程があります。さっきも言いましたけど、絶対無理です」
「なんでですか。いつか来てくれるって、ずっと待ってました。それに“ご主人”っていうのは―」
「ああもういいです。ちょっと黙ってください」
よく喋るぬいぐるみだ。少しでも可哀想だからと相手をしたのが悪かった。やはり無視だ。無視するに限る。そもそも喋るぬいぐるみなんてどう考えてもおかしい。呪いの人形ならぬ呪いのぬいぐるみなのか。
「わたし、ここでは嫌われものなんです」
微かなその言葉に、思わず私の動きは止まってしまった。
「ご主人なら、わかりますよね。この気持ち」
そう言われてしまえば、私は反応しないわけにはいかなかった。それが例えへんてこなぬいぐるみの言葉でもだ。別にこのぬいぐるみに情があるわけではない。もし連れて行ったとして、絶対に面倒な事になると目に見えている。
「まるで、人の気持ちが分かるみたいですね」
今更無視しても会話しても変わらないだろうと思ったことを素直に口にした。
「わかるみたい、じゃないです。わかるんです。だってわたし、なんでもわかっちゃうすっごく可愛くてお利口なうさちゃんなんです」
そう言ったぬいぐるみは、ぬいぐるみのくせに、表情なんて全然変わらないのに、何故か私よりも幸福そうに見えた。
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