3.似ているもの

 私の耳がおかしくなったのか。確かにこれから音が、正確には声が聞こえたのだ。先程までぐったりしていたはずの兎のぬいぐるみの顔が、じっと私の方を見ている。このぬいぐるみ、目が真っ黒なフェルトを縫い付けただけなので顔を向けられると地味に怖い。その目とされているフェルトは正円では無く楕円形で、綺麗にカットされているとは言いがたい形である。

 この不気味な目が真っ直ぐこちらを向いていると、謎の圧を感じる。驚いたせいか思わず力が抜け、兎のぬいぐるみは重力に逆らえず手から滑り落ちた。

「わわっ」

 兎のぬいぐるみは呻き、顔面を床にぶつけていた。見た目通りの間抜けさである。その動作をじっと見つつも、我に返り、急いで荷物を持って部屋を出ようとした。どう考えてもこの状況は長居すべきではない。

 私が今日ここに来たのはただ、この家にある自分の思い出と呼べるものを持ち帰りたかっただけだ。その思い出というのはもちろん祖母との思い出であり、それ以外は特に用が無い。思い出と呼べるものについては、引き出しの中にあった道具などを持って行くことにしていたので、細々としたものはいろいろあるがたいした量ではなかった。ついでに自分の荷物も軽く確認したが、特に必要そうなものは無かった。既に一人暮らし中で必要な荷物は持って行っているのだから、それは当然かもしれない。

 改めてそんな確認をしたのは、今後もうこの家に帰らなくてもいいようにする為だ。その目的は果たせたのだから長居は無用。すぐに裁縫箱などを入れた袋を持ち、部屋の扉へ足早に向かう。そして私がドアノブに手をかけたその瞬間、ぬいぐるみの長い手は既に私の足を掴んでいた。さっさと行くには足蹴にすれば一発だろう。蹴ってやろうか、なんて物騒なことが頭に浮かぶが一旦止まって様子を見る。

「どこに行くんですか?」

 ぬいぐるみが言葉を発したところで驚かなくなった。こんなすぐに慣れてしまうとは、我ながら適応能力が高いと思う。とは言え、明らかな異常事態に心臓がドキドキしているのは事実だ。このぬいぐるみが自分に害を加えないとも限らない。足を掴むへんてこなぬいぐるみがこちらに向かって問いかけるが、無視したところで結局は話かけてくるのだろうと思い、諦める。

「私の家に帰ります」

 ぬいぐるみ相手に何を話しているんだと自分自身に呆れつつ、何故だか懐かしい気持ちになる。このぬいぐるみに見覚えはなかったはずだが、もしかしたら昔遊んでいたのだろうか。

「ここがあなたの家ではないんですか?」

 ぬいぐるみが首を傾げた。その仕草が少しだけ、ほんの少しだけ可愛く見えたのは多分錯覚だ。そうであって欲しい。もしかするとこんなおかしな状況のせいで、自分もおかしくなっているのかもしれない。そもそも、これが夢だという可能性だってあるのではないか。いろいろと思考を巡らせたが、最終的には話くらいしてあげるか、というところに行き着いた。

「昔はそうだったかもしれませんけどね」

 口から出た声音は思いの外自嘲気味だった。ぬいぐるみ相手に感情を揺さぶられているようであまり良い気はしない。

「そうなんですか。じゃあわたしも準備するのでちょっと待ってください」

 ぬいぐるみはそう言うと私の足を掴むのを止めて長い手で腕組みをし「何がいるかな」等と言ってうろうろしている。ちょっと待って欲しい。これはどういうことなのか。このぬいぐるみの言動、どう考えても付いてくる気ではないだろうか。さっきのやり取りの中で何をどうすればそんな結論に辿り着くのか教えてほしい。

「何を、準備する必要が?」

 ぬいぐるみと話しているこの現状にここまですぐに順応している自分を褒めたい。そしていつもの癖でぬいぐるみ相手でも敬語で話しているこの状況は、端から見たらとてもおかしな光景かもしれない。ただ、もちろん当の本人である私には笑えない。

「何って、ここを出るならちゃんと準備しないと。と言ってもそんなにものはないんですけど。ほら、ご主人がさっき荷物整理してたみたいなことですよ」

 今の言葉で確信に変わった。このぬいぐるみ、付いてくる気だ。しかも何故か“ご主人”という恥ずかしい言葉をさらっと言っていた。もしかしなくてもその言葉は私に向けての言葉なのだろうか。さすがにこれにはツッコミを入れざるを得ない。

「当たり前のように付いてくる気みたいですけど、連れて行きませんよ。あとその“ご主人”ってなんですか?これからお世話になるからってことですか?図々しいにも程がありますよ。さっきも言いましたけど、絶対無理です」

「なんでですか?いつか来てくれるって、ずっと待ってました。それに“ご主人”っていうのは――」

「ああもういいです。ちょっと黙ってください」

 よく喋るぬいぐるみに思わず頭を抱えた。少しでも可哀想だからと相手をしたのが悪かった。一時でも相手をしてしまったのは、自分の精神状態があまり良くなかったからかもしれない。きっと普通ならこんなもの相手にしないだろう。やはり無視だ。無視するに限る。そもそも喋るぬいぐるみなんてどう考えてもおかしい。呪いの人形ならぬ呪いのぬいぐるみかもしれない。それがずっと実家にあったかもしれないという衝撃の事実については一切考えたくない。改めてドアノブに手をかけ、回す。

「わたし、ここでは嫌われものなんです」

 ドアノブの回る音とほぼ同時の微かなその言葉に、思わず私の動きは止まってしまった。さっきまでの自分の感情を思い出せ。無視を決め込んだばかりじゃないか。

「ご主人なら、わかりますよね。この気持ち」

 そう言われてしまえば、私は反応しないわけにはいかなかった。それが例えへんてこなぬいぐるみの言葉でもだ。別にこのぬいぐるみに情があるわけではない。もし連れて行ったとしても、絶対に面倒な事になると目に見えている。連れて帰ったら夢落ちでしたなんて展開になってくれるものならそれほどありがたいことは無い。残念ながら今のところ、そうなってくれる展開では無さそうだ。

「まるで、人の気持ちが分かるみたいですね」

 今更無視しても会話しても変わらないだろうと思ったことを素直に口にした。

「分かるみたい、じゃないです。分かるんです。だってわたし、なんでも分かっちゃうすっごく可愛くてお利口なうさちゃんなんです」

 そう言ったぬいぐるみは、ぬいぐるみのくせに、表情なんて全然変わらないのに、何故か私よりも幸福そうに見えた。


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