第二章
第41話 二度目の洗礼式
今日は良く晴れている。
いつも楽園のように美しいこの島だが、今日は特に空の青が深く、海との境目が分からない。
ポカポカした春の陽気とお日様の匂い。そこら中に咲き誇る可憐な花々は、一年後の風景と全く変わらなかった。
15歳の誕生日から1週間、クレアはリンデル島で1人、予定よりかなり早い洗礼を受けようとしていた。その原因は、遡ること3週間前に始まる。
―――――
クレアは狙い通り、無事過去に戻ることができた。
「……!!」
その日は、15歳の誕生日の2週間前。目覚めるとクレアは、マルティーノ家の自室のベッド上にいた。
クレアは飛び起きると、慌ててベッドから出てカレンダーを確認する。そこに書いてある日付は、明らかに1年半前のものだった。
「戻った……」
クレアはそのまま床にへたり込んだ。喜びの感情と喪失感が交錯する。まだ朝晩は肌寒い季節だが、興奮で冷たさは全く感じなかった。
「失礼いた……クレアお嬢様!? どうかなさいましたか」
ちょうど目覚めの紅茶を運んできた侍女が、クレアが床に座り込んでいることに驚く。
「ええ……少し寝ぼけてしまって……」
そう答えかけたクレアは、侍女の顔を見て自分の目を疑った。
「ソフィー……」
「はい、お嬢様」
侍女は、クレアが5歳の頃からずっと変わらず世話を続けてくれたソフィーだった。
ソフィーは丸顔をくしゃっとして笑みを向けてくる。
「ソフィー!」
クレアはもう一度呼びかけると、ソフィーに抱きついた。
彼女は、これから半年後に退職してしまうのだ。
クレアは洗礼を受けた後、王立貴族学院から帰省しても父ベンジャミンに同行して王宮や夜会に行くことは少なくなる。
その結果、ソフィーは専属の侍女としての仕事がほとんどなくなり、クレアが寄宿舎にいる間に暇を申し渡されたのだった。
(考えてみれば、ソフィーの退職の経緯もおかしいわ。何の知らせもなく急に、だなんて。シャーロットはまだ魔力を目覚めさせていないけれど、私が不在の間に何か動いていたのかもしれないわ)
ソフィーに抱きついて安心感を堪能しながら、クレアは考える。
「あらあら。お嬢様はまだまだ子供ですね。もうすぐ15歳になるっていうのに」
(……そうだったわ)
クレアは、ここに来た理由を思い出した。目的は、ノストン国とパフィート国の関係悪化を避けることだ。
クレアは寝巻きのままソファに腰を下ろす。ソフィーが朝用にブレンドした濃いめの紅茶を入れてくれた。
(……懐かしい香り……)
「今日のお召し物はいかがいたしましょうか。今日は暖かくなるようですから、薄手のレースが多めのドレスでも良さそうですね」
ソフィーがクローゼットを開けてコーディネートを考えている。
クローゼットに見える服は、レースやフリルが多めの、パステルカラーのドレスが多い。クレアはギョッとした後、自分がまだ14歳だったことを思い出した。
(1年半前の私……! さすがに、精神的にあの服は着られないわ)
「ソフィー、今日は一番シンプルな服を出しておいてくれるかしら。それと、この長期休暇中に街へ買い物に行きたいの。お兄さまの予定を確認しておいてくれる?」
「承知いたしました、お嬢様」
ソフィーはそう言って優しく微笑み、淡いオレンジ色のワンピースと揃いのストールを選んで並べると、退出していった。
顔を洗い、ソフィーが出してくれた洋服に着替えて窓辺に立つと、父ベンジャミンと兄オスカーが王宮へ出仕していくのが見えた。
ふと、クレアにはある考えが浮かぶ。
「金庫にあるというお母様からの手紙……まだシャーロットには見つかっていないのかしら」
クレアには、手紙が捨てられるのを防ごうという気は全くなかった。なぜなら、15歳時点で本当の洗礼を受けるつもりはないからだ。そんなことをしたら、王立貴族学園の追放はおろか、自由の身さえ手にすることができなくなってしまう。
(でも、お母様が15歳の私にどんなメッセージを残してくれたのか、気になるわ)
璃子は、この世界が『アスベルトルート』に進む前のセーブデータだと言っていた。まだシャーロットが動き始めていなければ、母からの手紙はベンジャミンの書斎の金庫に隠されているはずだ。
クレアは部屋を出るとエントランスに続くらせん階段をそうっと下りて、ロビーの様子を窺う。
ロビーでは、シャーロットと下の兄レオが親しげに歓談していた。
急に、璃子の声が頭に響く。
『あー、お兄ちゃんとの好感度を上げて動いてもらうのに苦労したわー』
クレアは、ロビーの2人の距離感から何か見てはいけないものを見てしまった気分になる。
既に手紙の存在を知っているのかを探ろうと思ったが、それは諦めて2階に戻り、ベンジャミンの書斎へと向かった。
「いろいろ動くよりも、金庫を開けてみた方が早いわ、きっと」
書斎に入ると、デスクの上にはたくさんの書類が積み重なっている。どの書類もインクが新しく、ホコリ一つない。
(お父様は相変わらずお忙しいのね)
ベンジャミンは、先の夜会でクレアのことを物として扱おうとした。それは完全に予想の範囲内だったため、クレアは全く傷つかなかった。しかし、昔の優しかった父に会いたくないと言えばそれは嘘になる。
この頃の父親と話せるならもう一度話してみたい、クレアはそう思った。
デスクの下に置かれた金庫を覗き込む。この金庫は魔法がかかっていないダイヤル式だが、開けることはめったにない。ロックを解除する番号はベンジャミンのほかオスカー、レオ、クレアが知っていた。
(……ええと、確かこうなはず)
レトロなダイヤル式のカギを解除すると、がらんとした庫内には一冊のアルバムにいくつかのカード、それとピンク色の封筒が入っていた。
「これだわ!」
クレアはピンク色の封筒を取り出す。
(開けてもいいかしら……)
(大丈夫、読んだ後封をして戻せば問題ないはず)
ほんの数秒間だけ躊躇してから、クレアは耐えきれずに封を開けた。
便せんに書かれていたのは、うっすらと記憶にある母の字だった。
―・―・―・―
クレアへ
15歳のお誕生日、おめでとう。
伝え忘れるといけないので、ここに記します。
洗礼式は、パフィート国のリンデル島で。
―・―・―・―
それは、伝えたいことだけが書かれたとてもシンプルな手紙だった。
クレアの母親は自分が娘の成長を見届けずに亡くなることを想定してこの手紙を残したわけではないのだろう。
その証拠として、兄オスカーやレオ宛ての手紙はなく、洗礼を受け損ねると国への重大な不利益が想定されるクレアの分しか準備されていなかった。現に、兄たちはノストン国で洗礼を受けている。
クレアは今でこそそれが母親の出自が明らかになることを遅らせるためだと理解できるが、一回目の人生でこの手紙を読んでいたら、兄たちに対して申し訳なさや心苦しさを感じていただろう。
ある日突然命が失われた母の無念がこの簡素な文面に映されているようで、クレアは悲しくなった。
「レオお兄様は……この手紙を読んで捨ててしまうのよね」
クレアは兄レオの心情を慮ると同時に、この母からの最後の手紙を取っておきたいという思いに駆られた。薄いピンク色の封筒と便箋を持つ手が震える。
(……内容を誰にも言わず、私が隠し持っているだけなら大丈夫。未来は変わらないはず)
クレアは、そっと母からの手紙を部屋に持ち帰り、机の奥に仕舞って鍵をかけた。
―――――
その翌週。15歳の洗礼式を間近に控えたクレアは、オスカーと共に街へ出かけた。
お気に入りの仕立屋さんで洗礼式後の夜会用のドレスを受けとり、他にすぐに着られるシンプルなドレスやワンピースをいくつか購入した。
そして、カフェで休憩していた時のことだった。
「お前、今度リンデル島に行くんだって?」
クレアの隣の席に座っている男性2人組の会話が聞こえてきた。盗み聞きはいけないと思いつつも、リンデル島という響きについつい意識が向いてしまう。
「ああ。聖泉と呼ばれるビーチの美しい景色が見納めだっていうからな。埋め立てられちまう前に一度観光に行きたいと思ってるんだ」
(……!?)
クレアは、あまりの衝撃に固まった。
(一体、どういうことなの?)
詳細を聞かなければ、と思うのに体が動かない。そうこうしているうちに、2人組は待ち合わせの相手が来たらしく、出て行ってしまった。
「どうかしたのか、クレア」
急に挙動不審になったクレアを見て、オスカーが優しく聞く。
先の世界では、洗礼式を終えるまで兄オスカーはとても優しかった。優秀な妹を誇りに思い、将来仕えるべき相手としてとらえていたのだとクレアは今になって思う。
まだ、オスカーは優しい。しかし、厳しいオスカーの視線を覚えているクレアには、安心して甘えることはとてもできなかった。
「……あの……オスカーお兄様は、リンデル島って行ったことはございますか」
「いや、まだないな。来月、公務でパフィート国に行く予定がある。その時に立ち寄りたいとは思っているが」
「最近、観光の開発が進んでいるとかあるのでしょうか」
「ああ。あの件か。どうやら、パフィート国で揉めているらしいぞ。リンデル島唯一のビーチを潰そうとしている貴族がいるらしい」
「そんな……美しい島なのに」
クレアは島の景観が失われることにショックを受けているように見せたが、心の中は大混乱していた。
(リンデル島の聖泉がなくなるって、どうして……! このままでは、王立貴族学院を追放された後に洗礼を受けられないわ)
何よりも、クレアには心配なことがあった。それは、1年と少し後に起こる魔力竜巻のことだ。
(魔力を目覚めさせないと、あの竜巻が消せない……世界が、大きな被害を被ることになってしまうわ)
「まぁ、大規模な工事には国王の許可がいる。ましてや、聖泉だ。どんなに力がある貴族の意見だったとしても、そう簡単に埋め立てられないとは思うぞ」
(……それでも、1年間埋め立てられないという保証はないわ)
急に元気がなくなったクレアを気遣って、オスカーはカフェオレのお代わりやデザートの注文を勧めてくれる。しかし、クレアはその全てに上の空で微笑みながら、覚悟を決めていた。
―――――
1週間後。
クレアは、人生で2回目のノストン国での洗礼式を迎えた。
結果は、当然ながら前回と同じもので、落胆の色を隠せない国王や父ベンジャミンを気の毒に思いながらも、クレアはホッとした。
(よかった、これで当分は安泰だわ)
「大丈夫か」
洗礼式後の夜会。アスベルトがクレアに声をかける。
誰もクレアを気遣って声をかけてこない中、わざわざあからさまな声掛けをするのはあらゆる意味でさすがアスベルトだ、とクレアは思う。しかし、クレアはそれがまるで不快ではなかった。
「大丈夫ですわ。魔力が弱くても、誰かのお役に立つことはできますわ」
クレアは、心の底から微笑む。先の世界では、クレアはかなり傷ついていた気がする。……が今は、無事淡いピンクの魔力を目覚めさせてすがすがしい気分だった。
「お姉さま、元気を出してください」
「ありがとう、かわいいシャーロット」
アスベルトの隣にはシャーロットがいた。
(この2人……この頃からこんなに仲良しだったかしら)
クレアは首を傾げて、ワインを一口飲む。ノストン国では、15歳になって初めて許されるワイン。やはり不味く感じるのかしら、と警戒していたが、すんなりおいしく喉を通ったことにクレアは驚いた。
「アスベルト殿下には、やっぱりシャーロットがお似合いだわ」
並んだ2人を見ていると、クレアの口からは自然に言葉が漏れた。
「「??」」
一瞬、時が止まる。
(……しまったわ)
クレアは、慌てて口を押さえる。この頃の自分は、決してこんなことを口にしてはいなかったはずだ。特に、この日の夜会では公爵令嬢としてのプライドが折れないように、精一杯張りつめていた記憶がある。
「クレア、お前は何を言っているんだ」
アスベルトは呆然としている。その横で、シャーロットは大きな目をぱちくりさせながら喜びを隠すように口元を隠していた。
「も、申し訳ありません、殿下。あまりにも、2人で並んだお姿がお似合いだったもので、つい」
クレアは必死に弁解する。全く弁解になっていないのは、初めて飲んだワインが回り始めたせいだ、と思った。
その様子を、ベンジャミンが遠くから憐みの目で見ていた。
―――――
夜会から帰ると、クレアは父親の書斎に呼ばれた。
(前の時は、呼ばれなかったはず。何か不手際があったのかしら)
恐る恐る扉を開けると、ベンジャミンが応接セットに腰かけて強いお酒を飲んでいる。
「クレア、来たか。座ってくれ」
「はい、失礼いたします、お父様」
目の前にいるのは、今朝、洗礼式に優しく送り出してくれた父親ではなかった。ここからどんどん変わっていくのだ、と思うと本来なら心が暗くなるところであろう。
しかし、今のクレアは未来が待ちきれず、晴れやかな気持ちだった。
ベンジャミンは、グラスに残ったお酒を数秒見つめてから、一気に飲み干す。そして、言った。
「クレア、王立貴族学院を辞めて、パフィート国の王立学校に留学しないか?」
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