第2話 ルール

 そもそも、教会は貧乏であるのがセオリー。

 ラクはダリアの後ろをついて歩きながら、まあそうなるよなあと心の中で頷いていた。住むところを提供してやると言われて、身長百九十はあろう男の後ろをついていった先。到着したのはその大男、ダリアの住処であったのだ。教会はおろか街を外れて森の中。泉を半周した先にポツンとある館。出迎えが一人もいない長い廊下を歩いて歩いて、案内された部屋はまるで倉庫だったのである。鉄格子のない牢屋だった。


「マジで俺、ここに住むわけ?」

「文句を言うなら今ここで首を落とす」

「断ればよかったじゃん。あんた、一人がいいんだろ?」

「仕事を請け負った以上、クライアントの条件は絶対だ」

「体もでかけりゃ頭でっかちってか。生きにくそうだなぁ」

「お前らほどでもないさ、吸血鬼」


 ダリアはラクの背中をポンと押す。ラクは面白いくらい蹈鞴を踏んで部屋の中へ。弱っているせいではなかった。誰だって、毎日肉体労働で鍛えられた大男に突き飛ばされれば、ぶっ飛んでしまうもの。ラクは閉まったばかりの扉にべぇと舌を突き出しておいた。

 ラクの手元には着替えと、輸血パックがある。この輸血パック一つで約一週間は食事の必要がない。しかしドクターはラクの栄養状態も考えて、パックを十二個用意していた。約四日分。一日に、三パック。朝昼晩。ここまでいい待遇とは思ってもみなかったラクは、早速一つ開けて口をつけた。パキッとキャップを回して、吸い付く。濃い、人間の血の味。鉄を舐めた時とはまた違う、いつまでも喉の奥に残り続ける錆びついた香り。ラクは久しぶりの食事ということもあってか、すぐに飲み干してしまった。

 渇きが癒やされたところでラクは、残りの輸血パックの処遇に困った。ある程度冷やす必要があるのだ。 部屋を出て、何処かに冷蔵庫がないか探す他ない。

軋む廊下を歩いて階段を降り、玄関前を通って光の漏れる方向へ歩いたラクは、先程己を突き飛ばした大男の姿を見つける。

ダリアは亡霊のように佇む白髪の男を目に留めギョッとしたが、手に持っていた銀のナイフをそっと鞘に戻す。


「冷蔵庫借りれるかなあって」

「お前の部屋になかったか」

「何もねえよ、あんなとこ。ベッドすらないんだぜ。あんた、吸血鬼だからって雑に扱いすぎ」


 輸血パックを冷蔵庫に詰めながら、ラクはダリアを盗み見た。

ダリアの手元、ナイフや拳銃を磨いているのを、ハンターの一日の終わりはこんなものなのか、などと勝手に感心していた。


「おまえ、警官だったってな」

「だったってか、今もまあ、半分くらいは」


 ラクはダリアと机を挟んで向かい合って座る。木製の椅子の上で脚を組んだ。


「なんて言えばいいのかな。今、警察内部ではアンタのとこの教会を捜査しようって話が上がってて、俺は潜入、的な?」

「言っていいのかソレ」

「だから半分って言ったでしょ。俺は吸血鬼だから、テイのいい厄介払いだよ。定期報告の必要無し。無期限潜入。ま、素直に受け入れるのも何だから、これだけはパクってきたけど」


 拳銃と警察手帳。机に放り投げるように出したラクを見て、ダリアは悪そうに笑うと、手帳を節くれだった指で開いた。目の前に座っている線の細い男とはまた違う、黒髪短髪の目つきのしっかりした男の写真があった。


「まるで別人だな」

「あんまジロジロ見ないでくれる? 俺も好きでこの見た目になってる訳じゃないの。相当いろんなもん抜かれてこんななっちゃったんだから」


 ラクは白髪の襟足を摘んで、ぷらんのダリアの前に吊り下げた。吸血鬼は体液の九割を失うと身体の至る所が白く変色することを、ダリアは知っていた。ラクは本来、削いだ頬や落ち窪んだ目をしていないのだ。成る程、と片眉を上げ、銃器の手入れに戻る。


「俺さ、ちょっとした人探しをしてんの」

「そうか」

「アンタのとこの教会にいると、いろいろ都合がイイわけ」


 物として扱われている自覚があったラク。電球すらない部屋に案内された挙句、寝具もなければカーテンもない。この男、ダリアが近々己を殺すだろうことは明白だった。いつ、その磨かれたナイフが喉元を通り過ぎても、おかしくない。

 ダリアは大きく音を立ててナイフを机に置く。


「吸血鬼、あまり図に乗るなよ。俺は仕事だからお前を預かっているが、使えないと判断すれば殺していいことになっている。言っている意味がわかるか?」


 ダリアの目には光がない。黒々と底の見えない深淵が二つ、前髪の隙間からラクを刺す。ラクは状況的に不味いと冷や汗を流した。此方に敵意がないことを示す為に、所持していた拳銃を差し出し、身分証まで出した。しかし、このハンターには逆効果だったのだ。


「警察もどうかしている。何故、吸血鬼と判明した時にお前を処分しなかったのか……ああ、そうか。警察内部に何年も前から吸血鬼が潜んでました、じゃ外聞が悪いからな。教会をゴミ捨て場か何かと勘違いしているんじゃないか」


 ラクの喉元にナイフの先が触れる。プツ、と皮膚が切れて、赤い体液が流れ出した。人間とよく似た色。殆どが魔力で構成されており、同じところといえば鉄分が含まれていることくらいだ。出血を止める作用はなく、吸血鬼は怪我をすれば体液を垂れ流す事になる。治そうと思わない限りは、治らないのである。


「……使えないモノ寄越されても困るんだよ。お前みたいに理性がある個体なんて尚更だ。中身弄りまくって、馬鹿になったやつならまだ使えたかもしれんが」

「俺、結構使えると思うよ。今はこんなだけど」

「お前、俺の仕事がどんなものか、知らないだろ」


 ダリアはナイフを下ろした。ひとまず危機は去ったので、ラクは軽く息を吐いて、震える刃先から目を逸らした。


「知ってる。ドクターってやつが教えてくれたよ。教会所属のハンターにはバディがいて、そいつは吸血鬼でなけりゃあならないって」

「どんな使われた方をしているのか聞いたのか?」

「あ? 警官のツーマンセルと一緒じゃねえの?」


 首を左右に振ったダリアは、机に広げていたナイフや拳銃を片付け、ラクを残してどこかへ消えてしまった。暫くポツンと座っていたラクだが、戻ってきたダリアに布団を押し付けられる。

人間の匂いが強い、もっと言えば、ラクにとっては腹が減る匂いのする寝具だった。


「明日の夜、お前を連れて行く。そこで使えるか使えないかの判断を下す。今夜は精々、人間様の血でも啜って体を元に戻しとけ」





 人の食い物を摂取できるし、鏡にも映る。日光は少し苦手だが、眩しい程度で、十字架もへっちゃら。吸血鬼といえどもラクは、人の血でなければ養分にできない、という点以外は殆ど人間の同様の暮らしができる。


「まあさ、俺さ、他の吸血鬼に会ったことほっとんどねえからさ。他の奴がどうかは知らねえんだけど」


 首輪。ラクの首輪には幅五センチ程度の首輪がつけられており、そこから連なる鎖はダリアが握っていた。誰が見ても、抑制剤などによる改造前の吸血鬼をバディに持ったハンターの姿である。

 夜中で人が少ないといえども、周りの目が気になるダリア。隣で聞いてもいないことをペラペラ喋る吸血鬼の頭を軽く叩いておいた。


「いてえ! まだ全快じゃないんだぜ、やさしくしろよ」

「静かにしろ。現場に着く」


 ここ日本で吸血鬼の存在が明らかになって暫く。世間には教会に所属しているハンターのする、吸血鬼狩りというものが浸透し始めていた。しかし、グレー。

人の生活を脅かすモノの対処は警察がすべきだという意見と、知識のある専門職が行うべきだという意見が対立し、制度や法の改正は滞っているのが現状である。

 かといって、吸血鬼を野放しにしておくわけにはいかない。

そこで動くのが、フリーのハンターである。教会より仕事を依頼されたという立場で働く、いわば契約社員。いつでもトカゲの尻尾切りできる存在が、現在日本で活躍しているハンター達の殆どであった。

 世間は冷たい。ダリアが汗水垂らして吸血鬼を狩ろうと、民間人の「不審者がいる」という電話一本で警察が集まり、ダリアは拘束される。その為ダリアは、こうもありありと吸血鬼と連れ立つのがどれほどハイリスクなことか、同業がしょっ引かれるのを何度も見ていたため、嫌というほど知っていた。


「とっちまえよ、こんな鎖」

「周りの人間を喰われてはかなわん」

「喰わねーよ。俺ってば昨日のうちに五パックも飲んだんだぜ? 今お腹すいてないもん」


 ダリアは思いっきり鎖を引っ張って路地裏に入る。ラクは引っ張られた首を突き出すように後に続いた。

 路地裏、割れたコンクリートから生える草を踏み潰して進んだ先にある、小さな扉。看板にはラクが読めない文字で何か書かれているが、ダリアには読めるようで、ダリアはここだと言ってその扉を蹴破った。

あまりに突然なことでラクは驚き、脚を止めてしまう。がしかし、鎖に引っ張られ、蹴破られた扉の向こうへ行く他ない。


「ハンターだ。お前ら、大人しくしろ」


 ダリアは声を張るでもなく、ただ静かに言った。

 扉の先は小さなスナック。カウンターとボックス席が二つあるだけの、よくある飲み屋だった。人は、今し方入店したハンターと吸血鬼を除いて五人。カウンターの向こうに店員と思わしき人物一人と、その目の前に二人いるが此方は客。ボックス席には客一人と、隣に店員一人。


「お前、わかるか」

「女。ソファに座ってる。鼻が曲がるくらいクサいぜ」


 ラクの返事を聞いたダリアは一人一人見渡した後、ボックス席に座って接客していただろう店員の女に近付いた。


「お前だな。大人しく教会までついてくれば、いまは殺さずにいてやる。どうする」


 声をかけられた女は唐突な質問に暫し瞠目していたが、ダリアに繋がれたラクを見るとにたりと、赤い唇の端を吊り上げた。

誰もが眉を顰める程の甘い花の香りが、あたりに広がる。


「はは、あなた、こんな夜更けに犬の散歩? 怖い顔してチワワ飼ってんのねえ」


 女は隣に座っていた客の腕を掴み、赤い唇を開いて噛み付いた。

客の男は悲鳴をあげ、腕を振って女を引き剥がそうとするが、女の力は男の予想を遥かに超えていた。掴まれた腕がミシミシと音を立てている。歯が食い込み、真皮を突き破り、脂肪組織までを穿つ。

 ダリアは拳銃を抜いて、すぐに発砲した。まっすぐ飛んだ弾丸は女の額に当たる。女はギャッと鳴いて机を跳ね飛ばし、噛み付いていた男を床に投げた。その際、男の腕からスーツのジャケットごと肉が剥がれる。


「チワワって、おれ?」


 ラクは何が何やら分からず、鎖を握ったまま銃を構えたダリアに耳打ちした。ダリアはラクが近寄ったのに気分を悪くしたのか、鎖を巻きつけた拳でラクの肩を殴る。


「いいから黙って見てろ」


 女は床に四つ這いになり、目をこれでもかと開いて、ダリアを見つめている。額にめり込んだ弾丸が、徐々に押し出され、ついにはころんと床に落ちた。

腕から血を流している男を除いて、この店にいた人間はとっくに逃げてしまっている。客の男は放心状態なのか、食いちぎられた腕を押さえたまま床に蹲っていて、可哀そうなくらい震えている。

 ダリアは二発目を撃った。しかし女には擦りもしなかった。女は四肢を軽く曲げただけで大きく跳躍し、天井に張り付く事で弾を避けたからだ。蜘蛛のように天井を走り回り、ストンとダリアの目の前、鼻先ギリギリに落ちてくる。ダリアの黒い目と女の血走った目が合う。


「あんた、不味そうね」

「そこに倒れてるやつよりかは美味いと思うが」


 女はにっこり笑うと右腕をダリアの腹めがけて思いっきり刺した。ずぶり、とダリアの腹に女の腕は肘まで突き刺さる。後方にいたラクは、ダリアの背中から女の指先、銀色のネイルが見えた。血に濡れて、錆びた鉄のような色をしていた。

ラクは驚いていた。ダリアが、腹を貫かれたのにも関わらず、一言も唸りをあげないからである。痛覚でも無いのかと思えるほど、この男は微動だにしない。


「そのまま動くなよ」


 ダリアは鎖を離し、腰に携えていたナイフを抜いて、女の喉を掻き切った。スパッと綺麗に一文字、女の首と胴体はさよならする。吹き出す血、吸血鬼の体液は飛び散り、ラクの顔とダリアの全身を汚した。

 ラクはうわっと顔を顰め、今朝拝借したダリアのシャツで顔を拭った。吸血鬼にとって、同胞の血は、腐った生卵にラム肉を混ぜ、牛乳に浸して放置したのちに魚にかけて食べるような、つまりは、とても酷い匂いと味がするのである。

 ラクが一生懸命に顔を拭いている間、ダリアは女の腕を引き抜き、胸元から注射器を取り出して自分の太ももに刺した。するとおかしな事に、みるみる腹の穴が塞がっていく。ラクはぐちゃぐちゃになったシャツを握ったまま、呆然とその様子を眺めていた。


「ほう。治りが早いな」


 ダリアは空になった注射器をラクに渡した。ラクは受け取った注射器の先を嗅いで、まさか、と目を見開いた。


「俺の、血?」

「そうだ。わかっただろ。俺らハンターが吸血鬼をバディに選ぶ理由。これを見ても、まだ俺のバディになりたいと言うのか?」


 吸血鬼。その血には人間と異なる部分がいくつかあるが、その一つに再生能力があった。人間は体内に血小板やフィブリンというものなどで止血を行うが、吸血鬼は違う。

体液、血に魔力が大量に流れており、その働きで急速に止血、再生を行うことができる。


「お前ら吸血鬼は俺たちハンターの止血剤。動く救急箱みたいなものだ」


 腹を撫でるダリア。先程まで穴が空いていたのが嘘のように皮膚には傷一つない。服までは元に戻らないのか、ダリアはラクに半ば強制的に持たせていた鞄から上着を取り出している。


「ついでに荷物持ちってとこ?」

「そういうことになるな」

「あのさ、吸血鬼の血だったら、誰でもいいわけ? その、回復に差があるとかさ」


 黒いシャツに腕を通す間も、ダリアは鎖を拾わなかった。周りに人間がいなければ、ダリアはラクを拘束する気がないのだった。


「いいや。合う合わないはある。全くもって魔力が含まれていない体液は使えないし、そもそも使う人間と体液の相性が悪いなんてこともあるな」


 最後のボタンを止めて、上着を羽織ったダリア。やっと鎖を拾いあげて、拳に巻きつけた。そこではた、と動きを止めた。これだけ回復が早い体液を持つ個体も珍しい。仕事に使うには十分すぎる能力なのでは無いか。そう思ったのはラクも同じだった。


「じゃあさ、今あんたの怪我が早く治ったのって、俺との相性抜群ってことなんじゃねぇの?」

「……そうだな」


 吹き飛ばした扉の上を歩き、ダリアはラクを連れて店の外に出る。外にはいつのまにか教会関係者が集まっており、ラクの姿を見ると皆一堂に顔を顰めた。改造されていない吸血鬼に対する風当たり。

 ダリアが出てきてすぐ、処理班が店の中へ入っていった。吸血鬼の死体の処分や、そのほかの掃除を担うのである。


「だったらさ、俺、あんたのバディ向いてるってことでしょ。俺の人探しもさ、協会のコネがないと難しいのよ」

「お前を採用するにしても、改造を施さなくてはならない。でないと、俺の左手が一生空かないからな」


 鎖を持った左手をあげ、軽く振るダリア。ラクはたっと脚を早めて大男の隣に並んだ。


「どうせ殺されるとこだったんだ。いまさら身体いじられるのが怖いなんて言わねえよ」

「失敗した時は、まあ。その時は大人しく死ね」

「最善を尽くしてくれよ、ハンター」


 このとき、ダリアが一瞬だけ難しい顔をしたのだが、ラクはどうせしょんべんにでも行きたいんだろうな、などと意図を測り損ねてしまった。





 選択肢は二つだとダリアは言った。

 一つは前頭葉に観血的治療を行う方法。これは数十年前までここ日本でも処方されていたロボトミー手術に似た、前頭葉白質を切断する事により、性格をまるっきり変えてしまうというもの。

人格変化や知能低下を引き起こすため、いくら超回復性をもつ吸血鬼も、脳を回復させようという思考すら働かない。

その後のカウンセリングで、これは所謂マインドコントロールを施すのであるが、精神的支配と投薬による吸血衝動の抑制により、完全な人形となる。

 ラクは一つ目の方法を聞いてすぐに首を横に振った。

 二つ目の方法は、ダリアが定期的にラクの血を採取するというものであった。

生命維持の要である魔力を含んだ血を抜くことで、故意に吸血鬼を弱体化させたままにするが目的である。

これには、安全措置として吸血鬼側にとある装置を付けることが義務付けられていた。とある装置とは、もし吸血鬼が狩人や周囲の人間に危害を加えようとした際、狩人の判断で吸血鬼の首をとばすことができるという、簡単に言ってしまえば爆破装置である。


「俺は一つ目をお勧めするが」

「自分が自分じゃなくなるなんて経験は、一度だけで十分なんだよ」


 きっと人間から吸血鬼になった時のことを言っているのだろうと気が付いたダリアは鼻で笑うと、キッチンの戸棚を開いて木箱を取り出して、ダイニングテーブルに置いた。

箱の中身は首輪である。金属で作られた、重たい枷。ラクは伸びた襟足が胸にかかっていたのを、背中側に叩き落した。白く筋張った喉。先日に比べれば、まだマシな細さ。吸血鬼は摂取した血液の分だけ、身体の回復に反映される。

 乾燥した大きな手はそっと首輪を持ち上げて、吸血鬼をギロチンで飾った。

首にはめられた鉄の塊に、意外と重くないのだな、とラクは肩を上げたり下げたりした。


「採取した吸血鬼の血は、保存期間が長ければ長いほど劣化していく。俺は直接現場で摂取するほうが得策だと考えるが、お前がどうしても爆弾を身に着けたいというのであれば仕方がない」

「頭ん中弄繰り回すなんて、人間様の考えることは素敵すぎると思ったんだよ。それで、採血の頻度は?」


 ダリアはワインを飲んでいた。決してグラスには注がず、瓶に口を直接つけていた。目の前に座った男に分けてやる気など、これっぽっちもない。ラクは血液以外は栄養にできないが、人間同様、食物の摂取は可能。ワインの味なんてものは人間であった頃にとっくに知っている。どうにかして一口貰えないだろうかと、机上に転がっているコルクを見つめていた。


「吸血鬼の体力を考慮して、本来なら毎日でもいいくらいだが……お前は栄養失調気味だからな」


 おかしなことに、化け物である吸血鬼にも、心というものがある。

人間と同じく嫌悪感を抱くこともあれば、喜びを感じ、怒りが込み上げてくることもある。ラクの身体の回復は順調だったが、精神が追い付いていなかった。まだ、仲間に裏切られたことによるショックが、真っ白な布に滲む墨汁のように、心に残っていたのだ。

ともかくラクは今、慣れないことはしたくなかった。余計なことを考えたくなくて、できればどこか静かなところで眠っていたい。そう思っていた。

得体のしれない大男に首輪を付けられ、犬のように飼い殺されるという展望を考えただけで、鳩尾のあたりから手を突っ込まれて、臓器を引っ掻き回され続けているような嫌悪を抱く。


「腕をだせ」

「……どっち」

「どちらでも構わない」


 ナイフを持ったダリアはラクに近付いて、左腕を掴む。横に一直線、すっぱりと皮膚を切り付けて、ぷつぷつと浮いた血を絞り出すように、手指で傷口を開く。

拷問でもするつもりなのかとラクは瞠目し、一連のダリアの行動から目が離せなくなる。

ダリアはさも当たり前と言わんばかりに傷へ口を付けると、じゅるりと血を啜り始めた。いよいよラクは、小さく悲鳴を上げてしまった。

同僚どもから受けた暴行の数々が脳内にフラッシュバックし、濁流のように全身を駆け巡る。ダリアの姿が上司と重なり、吐き気を催した。

これではどちらが吸血鬼か、分かったものじゃない。

しかしラクは一切抵抗しなかった。ア、だの、ヒ、だのを口にしたが、腕に力を入れることすらしなかった。首を飛ばされてしまっては、困るからだ。


「……やはりダメだな。まだ暫くは体液の摂取は難しいだろう。ドクターのやつ、本当に限界まで抜きやがったな」


 先日使用したラクの血を含んだ注射器。あれはドクターが採取し、ダリアに手渡したものだった。ドクターはラクの血を、生命活動のできるギリギリまで抜いていた。その分、輸血パックは奮発していたが、十分とは言えなかった。ラクはまだ本調子ではない。元気だった頃は、こんな粗末な首輪なんぞ、着けられる前に手首ごと切り落とすことだって出来ていた。

 ダリアは冷蔵庫を開き、輸血パックを端から端までとっ掴んでラクに投げてよこした。受け取ったラクは、腕の傷が溶けるようになくなったのを確認してから、ダリアを見上げた。


「今日はそれを飲んでもう休め。用がある時だけ声をかける。屋敷から外へは出るな。勝手に外出した場合、何があっても俺は助けない」


 ダリアはそれだけ言い残してワインを一気飲みすると、静かに瓶を置いてダイニングを出て行った。ラクの目の前には輸血パックがいくつも積み重なっている。腹に入れるにしても、時間がかかりそうだった。





 暫く。ダリアから声がかからない日々が続き、部屋に唯一ある窓からの眺めにラクが飽いてきた頃。ラクは丁度、ダリアが用意しているのだろう輸血パックを取りにキッチンへ向かったところ、久しぶりに男の顔を見た。

ダリアは大きな斧を抱えて冷蔵庫前に座っており、暗い目をしてじっとラクを見つめていた。

ラクはああ、とうとう斧で切り殺されるのだな、と身構えたのであるが、ぐわらんと音を立てて斧は床へ落ちた。ダリアは酷いけがをしていたのだ。

 ダリアの右耳の下から左胸部にかけて、ざっくりと裂けてた。血の匂いが濃く、丁度腹が減っていたラクは、こくりと唾を飲んだ。

高圧的な態度をとってくるいけ好かない男。今の彼は、ラクにはもう食い物にしか見えなかった。それでもラクは耐えようと、冷蔵庫の扉へ手を伸ばした。流れ出る血を見ないように、自分の指先にだけ意識を集中させた。

あと少しで取っ手に触れるところで、ラクのすっかり肉の戻っている手首を、硬い皮膚が包んだ。

ダリアの手はラクの手首を乱暴に引っ張り、ラクはダリアの上へと身を落とした。べったりと、ラクの白いシャツに血が染みる。ラクの頬はダリアの耳元にあった。


「大声出すなよ」


 低く小さすぎる声は、至近距離であったがためにラクの鼓膜を揺らすには十分な大きさだった。

 ダリアは口を大きく開き、人間にしては尖りすぎた犬歯をラクの首、耳垂の少しばかり下に突き立てた。

肉をぐじゅりと潰しながら、ダリアの歯の先はラクの首に刺さる。ダリアは一度歯を抜いて、穴より湧き出た血を、まるでストローでオレンジジュースを飲む子供のように、一心不乱に啜り始めた。

 ラクの動揺といえば、例えようのないものだった。吸血鬼であるこの俺が、という気持ちと、これが所謂、歩く救急箱の役割なのだな、とどこか冷静に理解する思考とで綯交ぜになり、ただ小さく唸ることしかできなかった。

 二分くらいはそうしていただろうか、ダリアはン、と喉の奥で絞るような声を出して、ラクを突き飛ばした。


「な、んなんあ」


 呂律が回らず、目を白黒させて、ラクは状況を飲み込むのに必死だった。


「注射器の用意がなくてな。直接貰った。なんだ、飯か。悪いが今日は我慢してくれ。まだ調達できていない」

「あ? なに、今の」

「注射器で摂取するのが、経口に変わっただけだ。文句があるのか」

「や、なんか。あれだよ。一言、言えよ」


 もっと他に何か言うことがあるだろうとラクは思ったが、血を吸われるという経験はこれが初めてではなかったので、耐えられないほどじゃなかったな、などと己を説得していた。

今吸われた血の量であれば、一晩あれば回復する。ラクにとっては、蚊に刺された程度のものだった。

 大きい口でありながら、薄い唇。血で染まったそこを、ダリアは前腕で拭う。傷口は塞がり始めていた。

綺麗に修復されるのを待たず、ダリアはゆらりと立ち上がる。ほとんど床へ張り付くようにしていたラクは大男の顔見ようと頭を上げたが、その目がヌルついて見えて、咄嗟に視線を外した。

 吸血鬼は同族の匂いに敏感である。主に餌場を被らせないことに役立つが、人間から同族の匂いがした際には、その人間がハンターであることを瞬時に判断するのにも重宝されていた。

ラクは鼻の奥を突き刺す臭いに、顔を顰めた。ダリアが吸血鬼を殺してきたことが分かったからだった。一体や二体ではない。もっと沢山、黒い髪が色を変えるほど殺していた。


「あんた、風呂入ったほうがいいぜ」


 首の鉄と皮膚の隙間に指を突っ込むのが、ここ最近のラクの癖になっていた。弄りながら素早く立ち上がったラクは、ダリアと距離をとった。


「お前、料理はできるのか」

「元人間だからな。ある程度は」

「俺が風呂から出るまでに、適当に作っておけ。それと、そこ。掃除しとけ」

「家政婦じゃねえんだぞ」

「ああ、血が足りない」


 ふらふらと、ダリアは暗い廊下の向こうへ消えていった。

近頃することもなく、屋敷内の散策ばかりだったラクは、久々にやってみるのもいいかと暇つぶしだと思って冷蔵庫を開いた。

肉をとって、油を敷いたフライパンに寝せる。ぱちぱちと弾ける音を聞きながらラクは、まだここへ来る前の生活を思い出していた。

 血を吸うのが本来の吸血鬼の食事といえども、人間社会に溶け込むためには、ある程度人間と同じ食べ物を食う必要があった。

ラクの所属していたコミュニティは警察であるからして、何かと飲みに行くこともあった。飲めど食えど、腹が満たされることはないが、味を楽しむ程度はできる。ラクは人間であった頃の習慣もあって、料理を苦に感じることはない。

 しかし男の料理。大雑把で、美味ければ良いではないかという味付け。塩と胡椒を振っておけば、大抵のものは食える。皿に盛った肉を、パンとともにテーブルへ。ラクはちゃっかり自分の分も用意していた。

 程なくして、ラクは冷蔵庫にあった肉をすべて調理し終えた。タイミングよく、ダリアがやってくる。いつも隠れ気味だった目は、濡れた髪を上げているせいでハッキリと晒されていた。目元さえ優しそうに垂れているが、吊り上がった眉や皺の寄った眉間が台無しにしている。水っぽい睫の先は、すべてテーブルの上の肉に向いていた。


「この家、米ねえの?」

「ないな」

「あっそ」

「不満か?」

「日本人としてはね」


 何が日本人だ、この化け物めと思ったダリアは、飯を作ってもらった手前で口論になってはいけないので、口を噤んで椅子に腰かけた。


「吸血鬼が食事をするのはどうしてだ。養分にもならない。お前らにしてみれば人間の食い物は石ころ同然じゃないか」

「あんた、何年ハンターやってっか知らねえけど、そんなこともわかんねえの?」


 俺はお前たち吸血鬼のことならば何でも知っている。知っていて、それら全てが気に入らないのだ。そう思っているに違いない。ラクがダリアに出会って抱いた印象である。しかしながら、ダリアは突くほどに埃の出る男であった。

 ダリアは、吸血鬼の生活に関して、知らないことが多かった。

日の光は別に、今時それくらいどうってことない。大蒜は雑草を食べるのと変わらないし、十字架なんてものは、ファッション次第では身に着けることすらある。

ラクはダリアと同じように肉を口に運びつつ、一つ一つダリアの質問に答えてやった。面倒などとは思わなかった。ただ、吸血鬼を殺して回っているくせに、殺害対象のことをほとんど調べずに、よくここまで生き残ってこれたものだな、と笑いそうなくらいだった。

 ダリアのグラスが空になる。ラクはすかさず赤ワインを注いでやった。社会人をしていたころの名残である。


「それでよ。ダリアさんよ。あんた、なんでハンターなんかしてるんだよ。木こり……林業ってんだっけ? それに猟師もしてんだから、食っていくには十分じゃない?」


 ダリアは返事をしなかった。ミスったかもしれないと、ラクはテーブルの木目を指先で辿った。バケモンごときが、人の事情にずかずか土足で入ってくるなと、ぶん殴られるかもしれない。こっそり奥歯を嚙み締めたラクだったが、意外にもダリアは何も言ってこなかった。ただ静かに、「知りたいのか」と呟くだけ。


「知りたいってか、気になるもん。気になったことは放っておけないの、俺」

「……理由は、お前と似たようなものだ」

「人探し?」


 先程注いだばかりのグラスは、もう空になっていた。ダリアは、酒は強いほうではない。ある程度の量を飲めば、さすがに酔いが回る。瓶を二本も空けるとなれば、いつもなら既に視界は滲んで、焦点も合わない頃だった。吸血鬼の血はこんなところでも役に立つのだ。ダリアは首をぐるぐる回してもちっとも揺らがない視界にありがたいと感じていた。


「つまらん話だ」


 話すつもりはない。距離を取られていることに気が付いたラクは、それ以上言及しなかった。

 ダリアは、早食いの質があり、皿の肉はすぐになくなってしまう。食い足りないかとラクが尋ねたところ、ダリアはもういいと答えた。


「あのさ。なんで今日の仕事、俺を連れて行かなかったわけ?」


 自分の仕事は救急箱になること。ラクがダリアより直接聞いた話である。自分はハンターの後ろを金魚の糞のように連れまわされ、嫌というほど血を啜られる運命なのだと予想していた。ラクの言葉に、ダリアはさも当然のように「お前は使い物にならない」と言い捨てる。


「俺について知りたければドクターに訊けばいい。あいつなら、訊かなくても勝手に喋るだろうが」

「訊けばいいって、俺、外出られないし」

「今から教会に行く」

「は?」

「報告だ。今回の報酬を受け取りに行く。お前も連れていく」

「そういうのはさ、先に言っといてくれないかな」

「用がある時だけ声をかけると言っただろう」


 ラクは急いで部屋着にしていた血がついてぐずぐずのシャツを脱ぎ捨て、勝手にダリアのクローゼットを開いていくつかサイズの合うものを身に着けた。

自分の服を勝手に着られたからといって、ダリアは文句ひとつ言わない。ラクが何も持たずここへ居候していることなんて分かりきっているため、服を拝借されるくらいは許していた。まあつまり、度重なる洗濯で縮んだシャツの使い道が捨てる他にあるのなら、勝手にしてくれて構わないということである。

 ダリアのシャツはその全てと言っていいほど、黒一色であった。ラクは自分の白髪がより際立つため黒は身に着けたくないと思っていたが、己は持たざるものである。文句を言える立場にないのだ。裸で外へ出るわけにもいかない。銀色の首輪も目立ってしまうだろうが、黒いシャツに同色のジャケットを合わせた。


「上を向け」


 いつの間にやら隣にいたダリアの大きな手が、ラクの顎を掴んで無理やり上に向けた。

ラクはがくんと後頭部を反らせて、天井を見た。新妻が愛しい旦那様にネクタイを付けてやるように、ダリアは救急箱の首輪に鎖を付けてやった。


「やややや、まってまって。鎖いらないでしょ、俺もうあんたにこの首輪つけられてるし」

「おまえ、ドクターのことが嫌いだろう」


 死ぬギリギリまで体液を搾り取ったのは、教会でさも善人ですよという顔をして、人間とさして変わりのない見た目をしている吸血鬼を平気で捌く、神父であり医者であるドクターと呼ばれる男。

胡散臭い笑みと薬剤の匂いを思い出して、ラクの背中に虫唾が走った。ダリアは口の右端を吊り上げる。


「俺の金蔓を食われちゃ困る。教会に行く時だけでも我慢しろ」

「別に恨みなんかもってねえよ。ずっと笑ってて気持ち悪いヤツだとは思うけど」

「違いねえな」


 ハン、と近くに息を捨て置くような笑い方をしたダリアを、この男の笑い方は嫌いじゃねえなとラクは首の鎖をいじりながら見ていた。





 ダリアは車を持っていた。これまた黒い色をした普通車で、ラクは当たり前のように助手席に座らされたのだが、車内の光景に目を見開き大声を上げたのは、仕方のないことだった。

後部座席に、血みどろの首がゴロゴロと転がっていたのである。一つ二つ三つ四つ。そこまででラクは数えるのをやめた。みんな男の顔をした首どもであった。ダリアは悲鳴を上げたラクをうるさいと叱った。何時だと思っているんだ、とも。現時刻、日付も変わって零時五十一分である。

ご近所さんに迷惑だと考えるほうが馬鹿げていた。孤立した山奥にある家に、ご近所も糞もない。

 山道を降り、公道に入ったその先の大きな十字路。ラクは匂いに耐えられないと言って窓を開けていた。小雨が降っていて、ラクの頬を撫でるように風が水を運んできていた。ダリアはただ黙ってハンドルを握っている。車内の会話なんぞ、あるわけが無い。この狩人、気の利いた世間話は点でダメだった。


「俺さ、また血、抜かれんのかな」

「それはないだろう。おそらく」

「おそらくって、もしかしたらあるってこと?」


 車は大通りから横道に逸れた。


「どうだろうな。前回の件で、お前の血が役に立つという情報は、向こうも知っている。実験でも検査でも、何か理由を付けてお前の血を欲しがるかもしれない。可能性は、あるっちゃあ、ある」

「あの人の注射、痛えの。ドクターって呼ばれてるくせに、注射が下手ってどうなのよ」


 ダリアはラクが治療薬を注射された時の光景を思い浮かべ、眉間に皺を寄せた。痛そうというよりも、確実に痛いだろう打ち方。振りかぶって、針の根元までずっぷり。

ダリアの渋い顔を横目で見たラクは、ああこいつ、注射嫌いなんだなと思いつつも、恐る恐る口を開いた。


「あんたさ、俺の血、今日飲んだでしょ。注射と経口摂取に違いがあるのか、とかってさ。あんたも血液検査されるんじゃないの」


 ダリアは絶句し、そうか、あの野郎、と小さく呟く。


「……だから一度に八体なんて無茶な案件を持ってきたんだな。俺が負傷して、血が必要になるのが分かっていて……畜生、やられた。採血用の注射器を頑なにくれようとしなかったのも、俺にお前の首を直接噛ませるためか」

「首から口付けて飲むのって、今時吸血鬼もしないんだけど。ハンターはそれが当たり前なの?」

「緊急を要する場合にのみ首を噛むが……くそっ」


 車はドリフトするように教会の駐車場に停まった。ダリアは鎖をもって運転席を降りたため、首を引っ張られたラクは助手席から運転席に引きずられ、そのまま車外まで引きずり出された。

ピンと張られた鎖のせいで、首輪の背中側のほうが皮膚に食い込む。ラクがダリアに近付いたことで、鎖は緩んだ。


「何があっても俺のそばを離れるな。針先が俺に向いたら、お前が身代わりになれ。何としてでも、俺は無傷で帰還する」

「俺が刺されちゃうじゃん」

「うるさい。首を飛ばされたいのか?」


 そう言われてしまうと弱い。ラクはわかったわかったと返事をして、ダリアの後についていった。

 教会の正門を潜って裏手に回り、いくつかの扉を開けて長い廊下をまっすぐ進み、突き当りにある階段を降りたまたその先。

深い深いところにドクターの研究室はあるのだが、そこへ行く途中、ダリアの文句は止まらなかった。

二週間も話しかけてこなかった男が、注射の話になるとこうもお喋りになるのかと、ラクは関心さえしかけるほど。

そもそも、前に自分で注射器使ってなかったっけ、と問おうものなら、自分でやるのと他人がするのじゃ、気の持ちようが違うんだとかなんとかと講釈を垂れるので、ラクは徹底して聞き役に回っていた。

 部屋は相変わらず薄暗く、先日に点滅を繰り返していた蛍光灯は、ついに事切れていた。


「ダリア、待ちくたびれたよ。君に訊きたいことがいくつもあるんだ。さあ、まずはそこに座って腕を出して。親指は握り込んでくれよ」


 ドクターは、腕に巻くチューブをぷらつかせながら二人を出迎えた。歓迎されたのにも関わらず、ダリアの表情は硬いままだった。

ドクターのチューブを持った反対側の手には、大きめの注射器が握られていた。機嫌よく、採血の準備をしている最中だったのだ。


「ラク」

「どうしろってのよ」

「少しくらいなら吸っても構わない。噛みつけ」

「無理無理。医者って不摂生なやつ多いって聞くし、神父ってまずそうなんだもん」

「いいから行け」


 ダリアに背中を突き飛ばされたラクは、トンと一歩前に出る。ドクターは目の前に立った吸血鬼の顔を見上げると、にっこりと口の両端を吊り上げて見せた。注射針の先端で、ラクの首輪を突いたドクター。カチカチという金属のぶつかる音に、ラクは眉を寄せた。


「久しぶりだね、ラクくん。ダリアと仲良くやっているみたいだ、うんうん」


 ドクターの手袋をした指先が、先ほどまでラクの首にあったダリアの噛み跡を撫でる。布の感触が耳の下から首輪の淵までを辿り、ぞぞっと身震いをした吸血鬼に、ドクターは喜んだ。


「悪いな、ドクター。俺は先の狩りで血を失いすぎた。血液検査はまた今度にしてくれ」


 ラクの背後より、いつもよりずっと小さな声でダリアが言う。白衣の男は残念そうに、注射器を膿盆へ放り投げた。


「そうか……まあいい。で、報告を聞こうかな」


 客をもてなす気はあるようで、ドクターはカップに入れた紅茶を診察台に二つ並べた。ここに椅子と呼べるものはあるにはあるのだが、その全てにガラクタが乗っていて、人が腰を下ろせる状態じゃなかった。立ち話もなんだから、というセリフは使えない。

 ダリアが報告を行っている間、暇だったラクはきょろきょろと首を回してあたりを観察した。

使い古されたビーカーに、いつから洗っていないのかわからないマグカップ。剥き身のナイフに、錆びたペンチ。申し訳程度の十字架が飾られた壁。全て胡散臭く思えてしまうのは、あのドクターの張り付いたような笑みのせいなのか。

 ダリアが車のキーを診察台に投げて、報告会は終了になる。


「まあ、待ってくれよ、ダリア」

「話は終わった。死骸は好きにしろ。車はきちんとクリーニングして返せ」

「まあまあ」


 医者と狩人は何やら揉め始めていたようだった。会話の内容を知らない吸血鬼は、あそこの輸血パック貰っちゃダメかな、などと空きっ腹のことを考えていたのだが、ヒートアップしていくそれを嫌でも聞いてしまうのだった。


「首、噛んだのだろう?」

「それが狙いだったんだろうが。この藪医者め」

「君の派手な怪我に合う個体がやっと見つかったんだ。手放すには惜しい。そうだろう?」


 ラクは丸椅子に乗っていた書物を床へ移動させ、埃をフウと吹き飛ばして座った。椅子は軋んで、音が気になったのかダリアが振り返る。ラクの顔を見て、それからドクターの顔を見て、そして顔を顰めた。鼻筋にいくつも皺をよせ、髪を搔きむしるくらいはしただろう。


「なあ、ドクターさんよ。さっきからそいつとさ、何の話してんの。俺に関係ある話なんでしょ?」


 キシキシギシギシとラクは揺れて、わざと椅子を軋ませる。何回軋んだか数を数えるようにしてラクの足元を見つめていたドクターは、ぱっと顔を上げて、笑った。その笑みの気持ち悪さに、ラクは椅子を軋ませるのをやめた。


「ダリアはね。君の血じゃないと怪我が回復しない体になっちゃったんだよ」

「どういうこと?」

「彼は君の血を吸いすぎた。彼の体内に流れている血のほとんどは、君、ラクくんのものに成り代わっている、成り果てているとでも言えばいいのかな。破裂した臓器もすべて、君の血液に含まれる魔力で修復されたからね」

「……難しくてよくわかんねんだけど」


 隣で腕を組んでいたダリアを見上げたラクは、きゅっと唇を尖らせる。目が合ったダリアは、ゆっくりと首を横に振った。


「つまりは、だよ。今後ダリアが大怪我をしたとして。手術も輸血も通用しない、ということなんだ。全てはラクくん。君の血液じゃないと修復できない」

「え、やばくね?」

「そうだね」

「俺が死んじゃったら、ダリアどうなんの」

「大病しない限りは、まあ生きていけるとは思うよ。治療できる私がその時、死んでいないという前提でね」


 難しく考えなくてもいいんだ、とドクターは続ける。


「解決方法はある。しばらくの間、ダリアにはラクくんの血液の摂取をやめてもらう。体内の血液が自分のものに戻るまで、療養。その間は狩りもなし。血球が果てるまで約二百日だから……」


 卓上にある小さなカレンダー。そいつを見ながらドクターは二百日を呟いたが、小さなカレンダーの一ページごときでは、二百日なんて数えられないのである。ダリアは踵を床に叩きつけるように歩いて机に近付き、カレンダーを伏せた。カレンダーは一昨年の西暦が書かれたものだった。


「俺がおとなしくしていると思うのか。二百日」

「まあ、無理だろう。君は優秀だからね。こちらが我慢できなくて狩りの依頼をしてしまうだろうさ」


 十字を切りながらケタケタと肩を震わせて笑うドクター。その肩は、今やラクのほうが厚かった。

ドクターは笑いの余韻を残しつつ、小汚い冷蔵庫と開け、中に保存されていた真新しい輸血パックをそこらへんにあったレジ袋に詰めた。口を縛って片手でぶら下げ、ラクの目の前に突き出す。袋との距離が近すぎて、ラクは寄り目になりそうだった。


「ダリアが死ぬと君の所有権は私に移ってしまうから、私はもちろん君を殺すよ。私の仕事は吸血鬼を殺すことだから、仕方がないね。それが嫌だったら、精々ダリアの救急箱として働くことだ。体調が悪かろうと、体がカラカラに乾いていようと、君はダリアが必要とするときに必要とする分の体液を惜しみなく提供しなければならない。これからの君たちに課せられたルールだよ。吸血鬼のラクくん」


 なんて理不尽なルールなのだ。ラクは思ったが、口には出さなかった。



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