2. Gratification

 私を抱き締めた誰かの声は、聞き覚えがありすぎるほどよく聞いていた声。様々な感情があふれ、また涙が出てくる。声の持ち主が私の髪に顔をうずめている感じがしている。私は肩に回ったままの腕を頑張って緩ませ、振り向く。

「寧音くん……」

「やっと顔が見られた」

「寧音くんだ」

 泣いている顔を見られたくなくて、私は寧音くんの胸に抱きつく。

「なんだ、泣いてるのか?」

「ごめん……だって嬉しくて」

「いいよ、謝るなって」

 そう言って、頭の後ろを優しく撫でてくれる寧音くん。私のしゃくりが落ち着くまで、ずっとそうしてくれていた。

「ずっと見てた」

「やっぱり、あの結晶の中にいたの?」

「夏美が俺のために覚悟を決めてくれたのも、怖かっただろうに“野良”のところまで行ったのも全部見てた」

「そうだったんだ」

 彼は頷くと、私の首元に顔を寄せる。

「あー、夏美の匂いだ」

「ちょっと、くすぐったいよ」

「相変わらず美味そうな匂いさせやがって。今すぐ噛みつきたい」

「夢だから吸えないんじゃないの?」

「あー……そうかもな」

 困ったように笑う寧音くん。もしかすると彼も魂だけの存在で、ここでしか会えないのかもしれない。そのことに思い当たり、寂しくなる。

「また泣きそうになってるぞ」

「ごめん……」

「だから謝るなって」

 今までに聞いたどの声よりも優しいその声色にまた涙腺が緩む。その声が、もう聞けないかもしれない。

「もう、会えないのかもって思って……」

「……戻れる確証はないからな」

「だから……せっかく会えたのに」

 また、視界が滲む。

「大丈夫だ、ずっと見てたって言ったろ。もしこれが最後でも、俺はいつでも見てるから」

 その言葉は、慰みにもならない。ますます寂しさが募るのみだ。

「……突然で悪いんだが、少しの間、目閉じてろ」

「なんで……?」

「いいから」

 泣き疲れた私の頭は、考えることをしない。不安ながらも目を閉じる。

 片頬を大きな手で包まれる。すっと気配が目と鼻の先まで近づいた。その近さに驚き、少し体が震える。

「っと、ごめん」

「そ、そこで話されるとくすぐったい」

 ふっ、と寧音くんは笑った。気配が動き、唇に一瞬なにかが触れる。それと同時に頬を包む手の感覚が無くなった。それに驚き、私は目を開く。


「……あれ」

「あ、夏美」

 目を開くと、もう真っ白な世界からは解放されて屋敷に戻ってきていた。私は重い体を押して上半身を起こす。目尻に溜まっていた涙がぽろりとこぼれた。

 本当に、あれはただの夢だったのだろうか。もう寧音くんとは──。

「夏美、大丈夫?」

「……うん、だい、じょうぶ」

 まだかすかに、唇に感触が残っている気がする。キスというものはこんなにも儚くて、悲しいものなのだろうか。はぁと大きく息をつく。疲れた。

「……先輩」

「なんだい」

「お母さんは、解放されましたか?」

「あぁ、もうここにはいないから、きっとね」

「そうですか」

 よかった。

「お母さん、先輩のこと思い出したって言ってました」

 それを聞いて先輩は目を見張る。

「それは……」

「ずっと独りじゃなかった。月ヶ瀬さんがいてくれたから、って」

「……そうか」

 湊先輩はほっとしたようで、表情筋を緩ませる。心から笑った先輩の笑顔は、素敵だった。

「みんなもありがとう、戻ってこれた」

「うん、夏美おかえり」

「ただいま、あとおはよう」


 私たちはその後とりあえず寮に戻ることにして、私はまた大和くんの背中に背負われて帰り道を進む。眠ったはずなのに、その夢で疲れてまた眠たくなるという不思議な状況だ。

「夏美、眠そうだね」

「うん……疲れちゃって」

「精神に負荷がかかるって言ってたよね」

「疲れたなら寝たら?」

 私はこくんと頷いて、大和くんの肩に顔をうずめる。心地よい揺れと柔軟剤の匂いにまぶたは段々と落ちてくる。幸せな夢が見たいと思った。


 私が起きたのは、ゆらくんの驚いた声が聞こえた時だった。

「夏美、夏美起きて」

「──ん……?」

 眩しくて目が開けられない。明るさに目が慣れた頃、私は寮の門にたたずむ人影を見た。

「……あ」

「夏美」

 門のところで微笑むのは、もう会えないと思っていた、彼だった。私はよろよろと大和くんの背中から降りる。彼のところまで走っていきたいけれど、私の疲れた体はそれを許してくれない。転びそうになりながら門のところまで近づいていく。やっとのことで、彼の胸に飛び込む。

「……ねおん、くん……!」

「俺はここにいるぞ」

「ねおんくん、だ」

 優しい声も、柔らかい笑顔も、少しはねたブルーグレーの髪も、紅い瞳も。私が知っている寧音くんが、ここにいる。それだけのことがこんなにも嬉しいことだとは、当たり前がこんなにも幸せだとは思わなかった。

 また涙が込み上げてくる。ひゅっと息が詰まり、私はうわっと泣き出してしまう。それを見てか巳雲くんが駆け寄ってくる。

「センパイ……!」

「巳雲も久しぶりだな」

「ほんとに、いろいろ大変だったんだから」

「世話かけた、すまん」

「センパイは悪くないから大丈夫っ」

 それに倣うように、寮の全員が寧音くんを囲う形で集まった。

「寧音、無事でよかった」

「おう、ほんとに戻れてよかったよ」

「寧音……僕は」

「今言うことじゃないだろ、ゆら。後でゆっくり聞くから今は再会の喜びに浸ってろ」

「……そうする。おかえりなさい」

「おう、ただいま」

 口々にそんなことを言っていく。

「寧音」

「なんだ、博人」

「戻れなかったらどうなるか、考えなかったのですか」

「夏美が助かればそれだけでいいって思ってたけど……結局寂しい思いさせたからな」

「──まぁ、そういうあなたの無鉄砲なところもあなたの美徳ですね。なにはともあれ、おかえりなさい」

「……ただいま」

 私は一言も発しなかったけれど、みんなの言葉に優しさと安心を見つけて顔が綻んでいた。

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