Op.10 Kindness

1. Hurt

 * * *


 私が起きたのは、真っ白い空間の中だった。明らかにあの屋敷とは違う場所だ。手や足も、ちゃんと動かせる。これが、明晰夢というものなのか。

 周りを見回す。なにもないように思われた。先代──お母さんは、どこにいるのだろうか。

「……出てきて、ここに」

 遠くへ呼びかけてみる。

 この空間がどこまで続いているのかは分からない。どこまで行ってもただ白があるだけかもしれないと思った。

 ふと、右手に誰かが触った感触がした。体温が、その冷たい手によって奪われる。

「……誰かが、手を握ってくれてるのかな」

 そう考えたら、なんだかホッとした。

 目線を上げると、すぐ近く、のようで遠いような──そんな場所に、人影が見えた。小さく儚い、少女のような影。こちらがじっと見ると、向こうもこちらに気づいているのか視線を感じた。

『……あなたは、だれ?』

 頭の中に、声が反響する。

『しらないひと……だれなの?』

「私は、あなたを助けに来たの」

『わたしを、たすけに?』

 ぴんと来ない様子で、人影は口ごもる。私は近づこうと、1歩足を踏み出す。

『こないで!』

 ぴしゃりと、高い声が響いた。きん、と耳鳴りがする。それと同時に、心臓のあたりに痛みを感じた。

「っ、う……」

 夢だというのに、痛覚が働いている。今の痛みは、なんだったのだろうか。

『しらないひと、きらい!』

 また、声。

 痛み。

『あっちいって』

 声。

 痛み。

『ここからはやくでてって』

 声。

 痛み。

「っ、あぅ……」

 胸を貫く痛みは、きっと彼女の敵意。知らないものに向ける、拒否の本能。

 左胸を押さえる。深く呼吸し、痛みをやり過ごそうとする。近づかないといけないのに、このままではただ一方的に攻撃されて私が倒れるだけだ。

 敵意がこんなに痛いものだと、私は初めて分かったのかもしれない。痛みに少しずつ慣れてきた頃を見て、私はもう一度、足を踏み出そうとする。

『こないでっていってるでしょ!』

「大丈夫、私は……」

『だいじょうぶじゃない! とつぜんやってきてなにがしたいの!』

 黒い、細く鋭いものが飛んでくるのが見えた。一直線に、こちらに飛んでくる。避けようにも、避けられない。素早さのまま、それは私の胸に突き刺さった。

『あなたのたすけなんていらない』

『でていって』

 新たな2つの痛みと共に、私の視界は真っ黒に染められた。



「……っ」

 私はがばっと身を起こす。無理やりに起きたからか、頭がガンガンと痛んでいるのが分かる。

「だ、大丈夫? 夏美」

「あ……えっ、と」

「少し待った方がいい。混乱しているんだろうから」

 そう湊先輩が言ってくれる。私は目をつむり、深く長く呼吸する。おおかた頭がすっきりした頃、顔を上げて説明を始めようと思った。

「えっとね……、一度起きた時、周りは真っ白でどこまでも続いてるような空間だった」

 ゆっくりと思い出しながらそう言う。

「先代──お母さんは現れてくれた。でも」

 あの痛みのことを思い出して、胸がまた痛んだ気がした。

「知らないものに対する敵意。それが実体を持って、私に刺さった」

「刺さった、って」

「黒くて鋭い、針のような、やりのようなものが、心臓に向かって」

 精神の痛みというのだろうか。そんなものを直接感じた気がした。

「……なるほどね。その黒いものは、彼女の敵意に同調した黒印病のもとかもしれない」

「それが、夢の中で、夏美に危害を?」

「きっと」

 湊先輩はそう言って、目線をまたデスクの方へ向ける。

「彼女も、夢から引き剥がされたみたいだ」

 先輩には、見えているんだ。まだ傷ついた姿のままの、お母さんが。

「……まだ解決できてないんですね」

「また眠るのか?」

「だって、お母さんが」

 まだ辛いままでいる。その事実がどうしようもなく許せない。

「今日はもうやめておいた方がいいと思いますよ。明晰夢は精神的な疲弊ひへいが大きいと聞きますから」

「でも」

「今また夢に戻っても、二の舞を踏むのみ」

 そうキッパリと博人くんに言われてしまい、返す言葉もなくなる。

「次は今日の夜にしようか。それまで、館に戻るでもここにいるでもいい、ゆっくり心を休ませておくといいよ」

「……ありがとうございます」


 * * *

 

 いつの間にか、またいつもの部屋に戻ってきていたようだ。私はまだ、体は重いままである。辛そうな気配がする。あの、唯一私と目を合わせられた、あの人だと思う。──辛そうなのは、もしかしたら、私のせいなのかもしれない。

 しばらく心が幼い頃に戻ったような気がしていた。ただ心のままに任せて、嫌なものを嫌だと喚いていたような。その結果、彼女が辛い気持ちになってしまったのだろうか。

 ……どうして私は、人を傷つけることしかできないのだろう。彼を傷つけて、そして彼女も──いや、彼、って誰だ?


 ぽつぽつと、話す気配がする。誰かがこちらを見た気がした。私は申し訳なさに目を伏せ続ける。その直後、はっきりと耳に入ってきた言葉があった。

『だって、お母さんが』

 お母さん。ここにいるのは、男性ばかり。だとしたら、彼女の言うお母さんというのは、誰のことなのだろうか。

『わた、し?』

 その声は、声になることもなかった。

 あの子の母親が、私? だとしたらさっき、彼女が実体を持って、しかもこちらのことも視認できたということもなんとなく納得がいく。理由は、『血縁があるから』だと思う。

 あの、こちらが見える人のことは、こちらからは気配しか感じられない。でも視線だけは、こちらを捉えているのが分かる。

 でも彼女のことは、私の方へからもきちんと人の形なりをして、そしてこちらのこともきちんと見えていたのだ。

 私は、実の娘を傷つけてしまったんだ。いたたまれなさに目をぎゅっとつむった。

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