3. Entropy

 オレは駆に退室してもらい、夏美の横に立った。夏美の顔は青白く、頬に刻まれた黒の爪痕がくっきりと浮かんでいる。……痛ましい。

「あの血を、吸うのか」

 正直、あれを吸いたいとは思わない。

「……ためらってたらだめか」

 枕元に膝をつき、夏美のシャツのボタンを外した。黒い血液がうっすらと、肌を通して見える。その色が、自分の心を揺らがせる。ぶんぶんと頭を振って、夏美の上半身を起こす。嫌だと訴える体を気力で押して、首筋に噛み付く。

「────……っ、にが……」

 これが、負のエネルギーなのか。苦くて、苦くて。耐えながら吸い続ける。しばらくすると、なぜか耳元で声が聞こえた。そのことに驚いて目を開くと、目の前にはただ、漆黒が浮かんでいた。

「なん、だここ……」

 夏美は腕の中にはいない。本当にただ、暗い。

『グルジ……ィ』

『イタイッ、イダイィッ』

『ニクイ……アイツガ……ッ』

「なんだ、この声」

 苦しそうな声がわんわんと反響する。きっとこれが、負のエネルギー。それに犯された血液によって、オレもおかしくなっているのか。顔をしかめたオレの前に、なにか黒に包まれた白いものが浮かんでいた。よく目をこらして見る。

「───……夏美?」

 そう呟いたところで、オレの意識はふっと消えた。


 * * *


 まぶしい。陽の光が、閉じたまぶたを刺激する。あぁ、もう起きる時間か。そう思って、私は目を開く。

「──……ぅ」

「あ、夏美……!」

 私の耳朶じだを、安心したような声が揺らす。

「巳雲、くん?」

「よかった……っ」

 くしゃっと顔を歪ませた巳雲くんは、それを見られたくないのかぎゅうっと私の肩を抱く。肩に、はたはたと涙が落ちる感覚。一方私はいまいち状況が分からず、わたわたしてしまう。

「み、巳雲くん? どうしたの……?」

「ごめん、しばらくこのままいさせて……」

 そう言われて、私はますます困惑。恐る恐る、巳雲くんの背中に腕を回し、さすってあげる。

 なにがあって、泣いているのだろうか。頭が痛い。なんだかこういったことが、前にもあった気がする。

「───血、吸われたとき……」

 そうだ、寧音くんに血を吸われたあと、目が覚めたときも巳雲くんが傍にいた。まさかまたと思ったが、即座に頭が否定する。そんな記憶はない。じゃあ、いったい……。

「巳雲、くん」

「……っ、ふぅ。なに?」

 落ち着いたのか、若干涙混じりではあるが巳雲くんは返事をしてくれた。

「私、なにが」

「───……覚えて、ないの?」

「……うん」

 眠る前、なにが起きたか。思い出そうにも、なにもない。

「──黒印病を治したんだよ、夏美が」

「黒印病……」

 その巳雲くんの一言で、思い出せた。

 あの怖い空間。黒印病の原因は、人間の感情であるということ。麻酔。意識が飛んだあと。

 それからずっと眠っていたのか。でも、それならばなぜ。

「なんで、私……生きてるの?」

 その質問をすると、巳雲くんは傷ついたような顔をした。なにかあったのか。

「なにが、あったの?」

「……それが」

「言って。私は大丈夫だから」

 そう言った私の手に、巳雲くんは自分の手を重ねる。

「寧音、センパイが……」

「寧音くんが、なに?」

「夏美の背負ったものを、全部1人で……っ」

 思考がフリーズする。私が背負ったものというのはつまり、“姫”としての運命ということだろうか。だとしたら。

「寧音くんが、黒印病を……?」

 その呟きを聞いて、巳雲くんは目を伏せる。つまりは、それが、事実。

「寧音くんは、どこ?」

「センパイの部屋にいる」

「肩……貸してくれる?」

 巳雲くんは小さく頷いて、私が立ち上がるのを手伝ってくれた。


「───あ、夏美」

 寧音くんの部屋の前には、寮のみんながいた。けれど、寧音くん本人が、いない。

「みんな……寧音くんは?」

「中で、寝てる」

 私はよたよたと寧音くんの部屋の中へ入る。そこには、いつものように眠っている寧音くんの姿があった。

「寧音、く……」

 その青白い頬には、真っ黒の、刻印。ひゅっと息が詰まる。

「ねお、くん……っ」

 視界が滲む。枕元に膝をつくと、ぴくりとも動かない寧音くんの顔をじっと見つめる。

 私は、目覚めた。でもその代わりに、どうして。なんだか悔しくて、ぎゅっと目をつむる。

「夏美……、起きたんだな」

 かすれた声が、聞こえた。

「寧音くん……!」

 薄く目を開き、こちらを見て話す寧音くん。

「よかった……、駆の言ってたことは正しかったんだな」

「寧音くん、なんで」

「ただ、オレがしたかっただけなんだ……、気にするな」

「気にするよ……! どうして寧音くんが」

 私が死ぬなら、それでよかったのに。涙が溢れる。

「すまん……悲しませるつもりは、なかった」

 私の頭を、寧音くんはぽんと撫でる。

「ありがとう……オレのために、悲しんでくれて」

 その一言以降、もうなにも聞こえない。頭の上の感触は、消えた。ただ怖くて、滲んだ視界のまま座り込む。

「夏美……」

 心配する声が聞こえた。頭をぶんぶんと振り、目を開く。

 寧音くんの姿は、なかった。代わりにベッドの上には、なにか黒いものがある。

「……なんだろう、これ」

 真っ黒の、石。正八面体の形をしている。

「……寧音くん、なのかな」

 ぎゅぅっと両手で握りしめる。冷たい感触は、手のひらにチクチクと刺さってくる。

「……みんな」

 私はみんなを見上げ、悔しさのままに決意を口にする。

「もうこんな気持ちになる人を増やしちゃダメだよ」

 この残酷な運命がなければ、寧音くんがこうなることはなかった。苦しむこともなかった。

「元を、潰さなきゃ。根源を」

 こんな、悲しい気持ちになる人を。今後、姫が生まれることを、ここで止めなければいけない。それが、寧音くんが命をかけて残してくれた私の使命、全うすべきことだ。

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