2. Previous

 * * *


 驚いた。彼女が“姫”だったとは、知らなくて。それも、あの子がこのアジトの中にいて、記憶を失っているなんて。どんな因果の輪で、私たちは繋がっていたのだろうか。

 世話係を頼まれた私は、扉の向こうにいる人のことを思った。今さらながら、緊張する……自分のことを、相手はすっかり忘れているというのに。

 ドアノブに、手をかける。深呼吸して、扉を開けた。

「失礼いたします」

「──え……遥陽、先輩?」

 その言葉に、私は動きを止める。

「どうして……?」

 それは、こちらの台詞だ。


 * * *


「……先輩」

「なんだい?」

 心なしか青ざめた顔をして、先輩は返事をする。

「どうして、私はここにいるんですか。みんなはどこに?」

「俺たちとの勝負に負けたから、館に帰っていったよ」

「私を帰してください」

「ダメだね。アイツらが戻ってこなきゃ、君はずっとここにいる」

 薄く笑った先輩の顔を見て、息が詰まった。

「……出ていってください」

「どうして?」

「どうしても何も! いいから、もう私に構わないでください」

 どうしてこんな人に、記憶を失っていたとしても、一瞬でも気を許していたんだろうか。自分に対して、イライラする。


 次の日。

 私は食事を摂る気にもなれず、1人でぼうっと外を眺めていた。

 あの後、寝ようとしても怖くて眠れず、結局オールしてしまった。このままここにいても何にもならないけれど、一体どうすればいいのだろうか。

 その時、コンコンとノックの音が沈黙を破った。

 先輩だったら、どうしようか。そう思って、少し返事をするのをためらってしまった。いや、でも分からない。

「──はい」

「失礼いたします」

 私はめまいがするのを気力で追いやって、立ち上がり本を元に戻す。

「湊様が、朝食だとお呼びですが」

「行かないと、伝えてくだ……」

 私はメイドらしき人の顔、声、全てが視界に入った瞬間、違和感に眉をひそめた。

 なぜだろう。どうして。

「どうかされましたか」

「────え……遥陽、先輩……?」

 メイド──遥陽先輩が、息を小さく吸うのが分かった。

「どうして……?」


 * * *


 ある日、私は湊に呼ばれて、生徒会室にいた。

「どうされましたか、会長」

「あ、遥陽。こっちへ」

「……はい」

 私は書類に目を通していた湊様に近づく。

「会長じゃなくて、これは“野良”の話だ」

「……では、湊様。私になにか」

 書類の角を指先で弄びながら、湊様は話し始めた。

「“野良”の屋敷に姫がいることは知っているね」

「はい、存じ上げております」

 ついに、と瑠夏から聞いた。

 けれど正直、“姫”という存在が私たちの側にいることにどんなメリットがあるのか、“姫”とはなんなのか、よく知っている訳ではない。

「彼女の名前は?」

「───いえ」

 そうか、と小さく言って、湊様は私の瞳を見据えて、姫の名前を口にする。

「姫の名前は、涛川夏美」

「……え?」

 夏美。それは。

「あの新入生の夏美だよ」

「そんな、それは」

「嘘じゃないよ。彼女の血の匂い……あれは格別なものだというに相応しい、甘い匂いだった」

 血の匂いとかは分からないけれど、彼女が特別だとは思えない。とても驚いた。

「先々代の姫が、俺の夢に出てきたんだ」

「……はぁ」

「『私の次の姫はもう長くないみたいだから、その子供の涛川夏美が今回の姫だから』みたいなことを言われた。その時は夏美がどんな存在なのかは知らなかったけど、会ったら分かったよ」

 なにか、特別なことがあったのだろうか。

「なんとなく、似てた」

「先代に……ですか?」

「あぁ。あの子に、似ていた」

 少し寂しそうな顔をする、湊様。そういえば先代の話はあまりするものではなかった。湊様の悲しい顔は、私も見たくない。

「夏美は運命を果たすためだけに生まれた、あやつり人形だね。彼女は自分で、自分の人生を紡いでいるつもりなんだろうけど……どう足掻いたって最後には同じエンドしか待っていないんだ」

 そのエンドは、どういったものなのだろう。

「あぁ、話が長くなってしまったね。もう昼休みが終わってしまう」

「話は、これだけでしょうか」

「ちょっと待って、まだあるんだ。俺は今夜、夏美に“痕”をつける。もしかすると俺は嫌われるかもしれない」

「それで?」

「君をメイドにする。世話してやってほしい」

「……夏美の世話を、と」

「そう。できるね」

「──はい。承りました」

 私は腰から深く上体を曲げ、礼をした。



「……あの、遥陽先輩」

 そう呼ばれて、ぼんやりとしていた意識が戻った。

「───はい、なんでしょうか」

「その、あの遥陽先輩なんですよね?」

「いえ……存じ上げませんね」

「嘘をつかないで」

 冷ややかな、軽蔑の目に心が揺らぐ。でも、私は。

「人違いでは? 世界には、自分に似た人物が2人はいると言いますし」

 にこやかに返すが、夏美の剣呑な表情は変わらない。

「そんな白い髪の人が、私の周りに2人もいるだなんて考えられません」

 その言葉に少しひるむが、表情を崩さないように必死で押し留める。

「───あぁ、そうですか」

 なにかを悟ったように、夏美は呟く。この時、もう今までの関係には二度と戻る事ができないのだと思った。

「それなら、嘘をついたっていいですよ」

 心に深く、その言葉が突き刺さる。

「その嘘、私信じますよ?」

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