学校の先生はみな催眠術師ではないかと思うことがある。大学教授も例外ではない。

 この日の講義も、ハッと顔を上げた時にはもう終了十分前となっていた。

「――では少し早いですが、今日はこれで以上とします。そろそろ前期試験の日程が出る頃なので、みなさん復習を怠らないように」

 壇上にいる中老の教授がパソコンなどの機材を片づけ始めている。和葉の周りにいた学生たちもぞろぞろと帰り支度を始め、教室の中に騒がしい声が広がっていく。

 和葉は深い溜め息をつき、再び机に突っ伏した。そのまま通路の混雑が解消されるのを待つことにした。

「おい、八坂!」

 雑踏の音ばかりだった中から快活な声が突き抜けてくる。聞き慣れた声音で、和葉は自分が呼ばれていることに気づいていながら返事をしようとは思わなかった。

「今日出てたのかよ。ラインしてくれりゃあよかったのに」

 再び耳を劈くような明るい声。和葉は仕方なく顔を上げる。

 やはりと言うべきか、目の前には友人である不破ふわ圭祐けいすけが立っていた。健康的に日焼けした顔にはやけに嬉しそうな笑みが浮かんでいる。

 圭祐は中学からの部活友達で、偶然にも高校、大学まで進学先が同じになった男子だった。大学では学部も同じであるため被っている講義がほとんどで、現在でもちょくちょく顔を合わせることが多い。

 眠気で頭が重い和葉は、圭祐の明朗な声が少しだけうざったく、

「なんでわざわざ、あなたにラインしなきゃならないのよ」

「や、席取っておいてやったのになと思って」

 屈託のない笑みのまま圭祐は答えた。「それに隣同士だったら、退屈な時とかに話でもして時間潰せるだろ?」

「潰せるって、なんのために講義出てるわけ」

「居眠りしてた奴が言える口かよ」

「別に寝てなんか……」

「ほっぺたに思っきし袖の跡がついてるけど?」

 指摘され、和葉はとっさに手で顔を押さえる。

 が、すぐに半袖だったことを思い出し、はめられたのだと気づいた。和葉はますます顔を不機嫌にさせる。

「別に誤魔化すことないだろ? 寝てたって怒られるわけじゃないんだし」

 確かに中学や高校と違い、大学の講義は寝ていても見咎められることは少ない。が、アルバイトと奨学金で学費を賄っている和葉にとっては、せっかく出席した講義で寝落ちしてしまうのはもったいないことだと感じていた。これではなんのために大学へ進学したのか分からなくなってしまう。

「とりあえずカフェテリアにでも行かないか? 八坂が寝てた分のノートも見せてやるからさ」

「あたし、二限も入ってるから。もう行かないと」

「人文地理学だろ? 今日は休講じゃん」

 初耳だった。和葉は慌ててスマホを開き、学内サイトの休講情報を確認する。

「ほんと、休みだわ」

「だろ?」

「でも、あなた、この講義取ってないわよね? どうして知ってるの?」

「や、たまたま朝見た時に覚えてたんだ。今日は休講情報も少なかったし、そういえば八坂、この講義取ってたよなぁって思って」

 圭祐はやや早口で言って、「で、行くだろ? 昼が近くなると混むし、どのみち今の方がゆっくりできるぜ?」

 強引な誘いだが、彼の言うことにも一理あった。加えて、休講で時間が空いてしまったことは確かだし、ノートを見せてもらえることは素直にありがたい。和葉は「そうね」と答え、ようやく重たい腰を上げた。



 本館のカフェテリアはまだ混雑していなかった。和葉と圭祐は窓際の席に着いた。窓の外では音を持たない小雨が霧のように広がっている。

「俺、コーヒー買ってくるけど、八坂はいいのか?」

「あたしは節約中だから」

「おいおい苦学生かよ。じゃあこれ、ノートな。勝手に写しててくれ」

 テーブルに水色のリングノートを置くと、圭祐はフロアの中央にある売店まで駆けていった。すらりとしたアスリート体型の背中を見送ったのち、和葉は差し出されたノートを開く。

 先ほどの講義は西洋哲学だった。教授がパワーポイントのスライドを見せながら説明する型式のため、ほとんどの学生は重要なスライドをカメラで撮影して板書代わりにしている。圭祐のように手書きしている者は珍しい気がした。

 ノートは無骨ながらも読み取りやすい丁寧な文字で綴られている。圭祐の生真面目さがよく表れた文字だった。

 見出しを書く欄には『許される殺人は在るか?』と記されており、和葉は思いがけず目を見開く。それが今日の講義のテーマであり、事例として『ミニョネット号事件』というものが紹介されていた。


 ――一八八四年、ミニョネット号という名のヨットが公海上で難破した。船長、船員二人、給仕の四人が救命艇で脱出したが、のちに食糧が尽きた結果、船長が給仕を殺害し、彼の死体を残り三人で食べて生き延びることができた……。


「お待たせ!」

 快活な声。和葉は弾かれたように顔を上げる。いつの間にか圭祐が席まで戻ってきていた。

「どうした、そんなびっくりして」

「ううん、別に……」

 和葉は手にしていたノートをテーブルに載せる。

 その横に、圭祐が紙パックのカフェラテを置いた。

「ほらこれ、八坂の分な」

「だからあたし、お金ないって」

「奢るから買ってきたんだよ。それくらい察しろよ」

「……そう。ありがと」

 素直に礼を言って、付属のストローを突き刺す。「そのうち、お金は返すわ」

「や、それじゃ奢ったことにならんじゃん」

「だけど、ノートも見せてもらってるし……」

「別にいいって。八坂が寝不足になるくらい色々頑張ってるのは、俺も分かってるつもりだから。どうせならもっと頼ってくれてもいいんだぜ? 中学から大学まで一緒の奴なんて中々いねえんだから」

 雨天にはもったいないほど爽やかな笑顔だった。和葉はますます申し訳ない気持ちを覚えたが言葉にはせず、目を逸らしながら冷たいカフェラテを口にした。彼女が好きな銘柄で、ほどよい甘ったるさが舌の上を流れていく。

「でも、なんか不思議な感じだよな」

 突然、圭祐は感慨深そうに言って、「昔は俺の方が、勉強教わったりしてたはずなんだけど」

「そうだったっけ」

「そうだったよ。中学の時とか、追試パスできなかったら中体連に出場できないってなって、俺、八坂に拝み倒したことあったじゃん」

「そうだったかも」

「や、かもじゃなくてさぁ……ていうか、ノート写さないのか?」

「別に、スマホで撮っておけばいいでしょ?」

「や、最終的にはちゃんと手書きで写しといた方がいいと思う」

「なんで?」

「写真部の先輩から教えてもらったんだけど、西洋哲学の試験、ノートの持ち込みありなんだと。ただし手書きのみって条件」

 なるほど、と和葉も合点がいき、「無駄に部員が多いだけあるわね。その手の情報には困らなそう」

「んだよその棘のある言い方」

「別に。ただ、なんで写真部なんかがあんなに人気なのか、あんまり理解できないから」

「や、大学生って結構、カメラ好き多いと思うけど」

 そういうものだろうか、と和葉は首を捻る。圭祐とは中学からの付き合いだが、彼がカメラに興味を持つような人間だったかと考えると疑問しかない。

 写真部はこの大学で最大の部員数を誇るサークルである。集まっているのはむしろ、出会い目的とか単位を楽に取るための情報を得るとか、カメラを趣味にしたい学生以外の方が多いのではないかと邪推してしまう。

「もしかして八坂、今までの講義もスマホで撮ってたとか?」

「大体はね。たまに眠気覚ましで、手書きでメモってたこともあったけど」

「なら時間があるうちにノートの整理とか、少しずつ始めておいた方がいいんじゃないか? 文章の量も多めだし、試験前日とかになってからじゃまとめ切れないと思うぞ」

「ええ、そうさせてもらうわ」

 和葉は圭祐からの提案を受け入れることにした。念のためにこれまでの板書分を撮影させてもらったのち、自分のノートへの転記を始める。

 圭祐はようやく缶コーヒーのプルタブを開けると、一口目を勢いよく流し込んだのち、

「にしても、哲学とかわけ分かんねえよな。答えのない問題を一生懸命に考えようって感じで、俺なんかいつも頭がパンクしそうになる」

 と、疲弊感を隠さない声で言った。「や、今日みたいな議題だと、やっぱ人を殺すとかダメだよなぁとかは思うけど」

 軽々しい言葉に、和葉は走らせていたシャープペンシルを止める。

「簡単に、そうとも言い切れないでしょう」

「ええ? 人殺しなんてめちゃくちゃ重い犯罪だろ。俺だったら殺されるとか絶対嫌だぞ」

「それは誰だって嫌よ。でも、この事例の場合は、仕方がなかったって話でしょう?」

「ああ、みにょなんとか号とかいう……」

「ミニョネット号事件。あなたがノートに書いてるんじゃない」

 和葉はノートを指し示しながら、「もしもこの給仕を殺していなかったら、給仕を含む船員全員が餓死していたわ。つまり一人を犠牲にすることで三人が生き延びた。四人全員が死んでしまうという最悪の事態を回避したのよ」

「ああ、教授もそんなこと言ってたけど。給仕を殺したのって、確か船長だよな?」

「そうみたいね。やっぱり船長だからこそ、できる限り多くの船員が生き延びる道を選択したんだと思う。みんなのことを考えた上での、苦渋の決断だったのよ」

「や、本当にみんなのためだって言うんならその給仕じゃなくて、自分を殺してみんなを助けようとするんじゃないか?」

 その問いに、和葉は少しだけ声を詰まらせ、「でも、給仕はすでに死にかけていたみたいだったから、それで犠牲にしたということでしょう?」

「死にかけだったからなんて、その船長やほかの船員が嘘ついてるだけかもしれんじゃん。給仕って四人の中で一番下っ端だったんだろ? 船長命令に逆らえなくて殺された、みたいなさ。

 結局、生き残った三人は自分たちが助かりたいから給仕を殺したんじゃないかって思うんだ。そしたらみんなのために仕方なくってより、利己的な、単なる人殺しと変わらないんじゃないかって……」

 和葉は驚いていた。圭祐がこれほど饒舌になるとは思ってもいなかった。

「や、隣にいたグループが議論してて、その受け売りもあるんだけどな……まあ俺も、この事例のあとに安楽死とか尊厳死とかいう話も出て、それ聞くと余計分からなくなったよ。人を殺すのが絶対に悪いのかどうかなんてな。だからあとは、ノートをまとめることだけに神経使ってた」

 彼の割に的を射た意見だと思ったが、種を明かされて和葉も得心がいった。

 が、彼女の心中にはやけにこの議題が重く居座っていた――許される殺人は在るのか、否か。

 考えたくないと思えば思うほど、強く考えてしまう自分がいる。和葉は一度カフェオレを飲んで気を紛らわせ、再びペンを走らせることに集中しようとした。

「八坂は、やっぱバイトが忙しいのか?」

 不意に、圭祐が訊ねてくる。

「なに、突然」

「や、講義中に寝落ちしちまうほど遅くまで頑張ってんのかなと思って」

 アルバイトの時間帯自体はそれほど遅いわけではなかった。辛くないと言えば嘘になるが、体を壊すほど働いているわけではない。

 寝不足気味なのはバイトのあと、どうしてもやらなければいけないことがあったからだ。しかしそれを圭祐に話すことはためらわれた。和葉はまた口癖のように「別に」とだけ答えてお茶を濁した。

「そうか……大丈夫ならいいんだけどな」

 珍しく不安げな声で圭祐は言って、「こないだの土曜、病院で八坂を見かけたから。市内の方の総合病院だけど」

 パチと、シャープペンシルの芯が弾き飛ばされる。和葉は思わず顔を上げていた。

 どうして圭祐が、そのことを……。

「俺その日、バスに乗ってて。バス停通過した時に、病院から八坂が出てくるのが見えたんだ」

 どこか弁明するような、後ろめたい声だった。「通院ってわけじゃないんだろ? 誰かの見舞いだったとかか?」

 和葉は、なにも答えなかった。

 残っていたカフェオレを飲み干すと、自分のノートを閉じて立ち上がる。「ごめん、あたし一度、アパートに戻るから」

「え?」

「忘れ物、思い出したから。もうすぐお昼ご飯だし、食べてからまた来る」

「おい、八坂……」

「ノートとカフェオレ、ありがとね」

 手短に言って、和葉は返事を聞くことなく席をあとにする。

 足早にカフェテリアを抜け、本館の外へと出た。雨はもうほとんど降っていなかったが、空にはまだ鉛色の雲が敷き詰められている。

 ――あの日も、こんな色の空だった気がする。

 和葉は校門を目指して歩き始めた。この時季特有の湿った熱気が、冷房で冷えていた肌をじんわりと汗ばませる。その不快感は初めて彼と――深山夏樹と出会った季節を恋しくさせるのに、充分過ぎるほどの微熱を抱えた初夏の気配だった。


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