――院内ではお静かに願います。

 エバーグリーンの掲示板に磔にされてまだ日の浅そうなポスター、そこに記されている注意書きの文言に反して、総合病院の廊下は賑やかなものだった。真新しいLEDの照明がシミ一つないクロス貼りの壁に反射し、廊下を行き交う忙しげな看護師、それとは対照的に足取りの重い患者やその家族、いずれの人影も等しく鮮やかに照らしている。

 八坂やさか和葉かずはは見舞いのために病院を訪れていたが、廊下を進む足取りは点滴台を掴みながら歩く老年男性にさえ越されるほどだった。

 今春から大学生になった彼女の体は至って健康的で、半年ほど前に骨折を経験した左足首もとっくに完治している。けれど目当ての病室が近づくにつれ、踏み出す足は見えない泥沼に沈んでいくようで、とうとう壁際でわけもなく立ち止まると、救いを求めるような目で窓の外を見下ろした。

 眼下には病院の中庭が在り、咲き誇る桜の木々が広々とした空間を彩っている。庭の隅々に置かれたベンチでは、小児科が近いのだろうか、病衣姿の子供たちが静かな歓談に勤しんでいる。

 見なければよかった――行き場のない後悔を覚えながら、その弱々しい眼差しは自然と在るはずのない人影を捜している。当然見つけられるはずもなく、早々と目を背けて再び歩き始めた。

「相も変わらず、ここは死の気配が強い」

 和葉の隣にぴたりとついてくる和服姿の少女――シキが、幽かな微笑みを湛えて言った。

「そなたは物好きだな。このような処に足繫く通うなど」

 草履を履いた小さな足が床に着く度、――リンと、聞こえるはずのない鈴の音が空気を震わせる。しかし誰も、その音色を不思議に思う者はいない。和葉だけにしか、聞こえていない。

 五月蠅いな、と和葉は眉根を寄せたが、湧き上がった不満を言語化することは控えた。衆目がある中でこの少女に話しかけるわけにはいかなかった。

 日本人形のような風貌に加え、常に左目を瞑った状態で闊歩するシキの姿は、俗世の現代的な様相から浮き上がって異彩を放っている。本来であればなにをするでもなく、ただその場に在るだけで奇異な眼差しを向けられても不思議ではない存在である。

 けれど実際は、――誰もシキに気づくことはない。

 通りすがる看護師や医師、患者たちも、誰もこの異様な少女のことを気に留めない。シキはそういう存在だった。

 シキの言葉に耳を貸さないまま鉛色の床の上を歩き、和葉は一つの病室に辿り着く。入り口のネームプレートには『深山みやま夏樹なつき』という名前だけが掲示されている。

 心の中で読み上げ――やっぱり、女の子みたいな名前だ、と微かに相好を崩しながらドアをノックした。間もなく病室の中から「どうぞ」と返事が聞こえ、和葉は静かにドアをスライドさせて中へと入る。

「八坂さん。こんにちは」

 出迎えた夏樹の声は、声変わりを済ませているのかよく分からない中性的な音色だった。例によってベッドの上に横になっていたが、和葉が近づいていくと、夏樹は少女のような細い腕で掛け布団をめくり、緩慢な動作で上体を起こそうとする。

「いいのよ深山君、無理しなくても」

 和葉はそっと、彼の骨ばった背に手を添え、「具合、あんまりよくないんでしょう?」

「いや、今日はとてもいい日だよ」

 夏樹ははにかむように笑いながら、なんとか体を起こしていた。「八坂さんが来てくれる日は、具合がよくなるようにできてるから」

 くりっとした大きな目が茶目っ気たっぷりに微笑む。

 和葉は思いがけずどきりとしたが、すぐに誤魔化すような苦笑を浮かべてしまい、

「もう、都合のいい体ね」

 そうぶっきらぼうに答えて、ベッドの傍にある丸椅子に腰を下ろした。

「何度来ても殺風景な処よな、ここは。なに一つ、心惹かれるものがない」

 シキは宛てのない愚痴を零し、退屈そうに室内をうろついている。「そなたも相手にしてくれぬし、余は早く帰りたいのだが」

 和葉はまたなにも答えなかった。そのまま放っておくと、シキは痺れを切らしたのか窓をすり抜け、ベランダへと出ていった。

「八坂さん、どうかした?」

 シキを追っていた視界に夏樹の顔が映り込んでくる。頭のてっぺんで小さな寝癖が跳ねていて、そういうところも実年齢に比べて幼く感じられる。

「ううん、なんでも……」

 和葉は誤魔化すように苦笑して、「深山君は、幽霊って信じる?」

「幽霊? なんで?」

「別に、なんとなく」

「なんとなくで、幽霊? うーん……」

 夏樹は考え込んだのち、意図の読めない微笑みを零して、「昔は、信じてなかったと思う」

「昔は?」

「うん。というか、そういう話をあんまりしたくなかっただけかも。僕は怖がりだったから」

「今は違うって?」

「わ、なんだか意地悪な訊き方だ」

 夏樹はわざとらしくむっとしたが、すぐにいつもの笑みに取り換えて、「今は、変わっちゃったと思う。だからきっと、幽霊のことなんかも……」

「信じるの?」

「どうかな。信じるのとは少し違う感覚かも。なんとなく、いてほしいような、そんな感じ」

「どうして?」

「だって、もし本当にいるんだったら、僕もいつか、幽霊になってこの世界に戻って来られるかもしれないってことじゃない?」

 ――和葉は息を呑んだ。

 それから、自らの軽率さを心の内で悔やんだ。

「縁起でもないこと、言わないで」

「あっ……」

 夏樹は声を詰まらせ、「ごめん、そんなつもりじゃ、なくて」

 和葉はなにも言わずに目を逸らした。

 互いの間に確かな沈黙が横たわると、夏樹がそれを嫌うように「ねえ」と声を上げ、

「大会は、出てくれるか決めた?」

 ぎこちのない話題のすり替えだったが、和葉は咎めなかった。「いえ、まだ、ちょっと」

「呑気にしてると締め切られるんじゃないかな?」

「大丈夫よ。まだ四月になったばかりだし、締め切りは確か五月の終わり頃だったから」

「でも、早いに越したことないよ。それとも、やっぱり迷ってる?」

 純朴な両目に、悲しげな色が宿る。

 ――ええ、迷っている。

 しかし和葉は、素直には頷けず、

「まあ、そのうちね。最近は入学の手続きとか引っ越しとかで、色々と忙しかったから」

「そっか。八坂さんももう、大学生なんだよね。いいな、楽しそうで」

 パッと、夏樹の表情が明るくなる。物憂げな気配が失われたことに和葉は安堵する。

 その直後だった――「……ッ!」

 夏樹が途端に背を丸くし、辛そうに顔を歪ませた。

 和葉は青ざめ、とっさにナースコールを押そうとする。しかしすぐに震える細い指先に止められ、

「平気だから。少し、苦しくなっただけ」

 夏樹は呼吸を整えながら、ゆっくりと姿勢を直していく。「ずっと横になってるばかりだったから、疲れたのかもしれない」

「本当に大丈夫なの? 看護師さんを呼んだ方が……」

「おかしいよね、今日は八坂さんが来てくれて、元気な日のはずだったのに」

 微笑みで取り繕いながらも、夏樹の眼差しはどこか虚ろだった。

 和葉はなにも返せなかった。慎重な手つきで夏樹の華奢な体をベッドに寝かせることしかできなかった。

「なんだか、介護みたいだよね。そのうち、僕の体のことでも、僕以外の人の方が上手くできるようになっちゃうのかな」

「なにを言ってるのよ……」

「それか、マリオネットみたいな。その方が僕も楽なのかもしれない」

「怖いこと言わないで。大体、あなたの病気はそういうのではないでしょう? 弱っても、体は自由に動かせるんだから」

「動かせたって、ずっと病院の中じゃ、いいことないけどね」

 寂しそうに微笑む顔が、和葉の胸をざわつかせた。

「最近、よく昔の夢を見るんだ。前の病院の、あの樹の下で、八坂さんと話してたこととか」

「昔って言うほどじゃないわ。まだ一年も経ってない」

「ううん、昔だよ。だって夢で見るくらいだから」

「どういう意味?」

「子供の頃、お祖父ちゃんが言っていたんだ。人間、歳を取ると、昔のことを何度も夢に見るようになるって」

「それはお年寄りだからでしょう? 十七歳が気にすることじゃないわ」

「うん……十七歳。だからもうすぐ、十八歳だよね、僕」

 特別なことのように、夏樹は言った。「ねえ、八坂さん」

「なに?」

「約束はまだ、約束のままだよね」

 和葉はぎゅっと、唇を噛んだ。

 そんなためらいは、見せるべきではなかったのかもしれない。

 けれど和葉には、安易に即答する方が嘘らしく思われる気がした――いずれにせよ夏樹が悲しむように仕組まれていることなど、知る由もなく。

「当たり前でしょう? まだ果たせていない約束なんだから」

「……本当に、優しいんだね。八坂さんは」

 夏樹がふっと目を逸らす。視線の先は窓の外だった。

 和葉も彼の視線を追った。ベランダにシキの姿はなかった。

 ――しばらくして、夏樹は穏やかな寝息を立て始める。疲れさせてしまっただろうか、と和葉は思った。

 しかし今日ばかりは、彼が眠ってしまったことは都合がよかった。

「その男、眠りに就いたのか」

 リンと、鈴の音。波紋のように広がる。

 いつの間にか、シキがベッドの近くまで戻ってきていた。「で、そなたはまだ帰らぬのか?」

「頼みがあるの」

 和葉はぎゅっと拳を固めて、「前に言ってたわよね? あなたを媒介にすれば、見ることができるって」

「ああ、――その男の、死期のことか」

 少女の細い喉から鳴ったとは思えない深い笑みが、くつくつと響く。

 それからゆっくりと、シキは閉じていた左目を開いた。

 か黒い右目とはまったく違う、銀無垢の光を湛えた瞳が、色彩に乏しい病室の中で鋭い輝きを放つ。

 あの時と同じ目だ……和葉は息を呑んだ。

「では、余と同じようにするのだ」

 眠りに落ちた夏樹の手に、シキの小さな手が置かれる。言われた通り、和葉もそっと右手を載せる。シキの肉体には触れないため、和葉の手はシキの手をすり抜け、夏樹の温もりが直に伝わってくる。

「これで用意は整った。あとはそなたが念ずるだけだ」

「念ずる……?」

「そう難く思うことではない。目を閉じ、瞑想するでもよい。この男について想いを巡らせるでもな」

 怪訝な表情のまま、和葉は言われた通りに目を閉じる。なにも考えず、暗闇の中でジッと息を潜めるように黙り込んだ。

 刹那、――重力が失われる。

 和葉はハッと目を開いた。辺りに病室の風景はなく、在るのは玉虫色の空間、その中を緩やかに落下しているような感覚だけだった。いや、落ちているのではなく、どこかへ昇っているのだろうか。天井や地面が見当たらないため、確かな感覚を得ることができない。

 唯一はっきりしていることは、およそ現実的ではない体験をしている事実だけ――形容しがたい怖ろしさを感じ、和葉は祈るような思いで再び目を閉じた。

 やがて鈍い音が耳朶を打った時、和葉を重々しい目蓋を開けた。瞬間、眩い光が双眸に突き刺さる。けれど徐々に光が和らぐと、和葉は先ほどまでいた夏樹の病室に立っているのだと理解した。

 眼前には、ベッドに横たわる夏樹と、椅子に座って彼の手を取っている和葉の姿が在った。そんな二人の光景をすぐ傍で眺めているような視界だった。

 その景色自体は、先ほどとあまり変わらないように思える。

 けれど和葉の目の前にいるもう一人の和葉は、横たわる夏樹を前にして涙を流していた。誰が見ても悲しい涙だと分かるほど、胸を締めつけられる泣き顔だった。

 この光景、この瞬間がなにを意味しているのか――察するのはとても容易で、しかし受け入れがたかった。

 ふと、和葉はベッド脇の棚に置かれた時計に目をやる。

 表示されている日時を見て、愕然とした……同時に、彼女は精気を失っていくようにゆっくりと、温度のない床の上に昏倒した。



「――受け入れがたいか。そなたにとっては」

 リン、と鈴の音が聞こえ、目を覚ます。

 和葉は意識を失う前と同じように、椅子に座って夏樹の手に触れていた。同じく手を重ねていたはずのシキはいつの間にか離れ、また左目を閉じた姿でゆらゆらと辺りを歩いている。

 とっさに置き時計を確認する。盤面は間違いなく、今日の日付を表示している。

 それなら、今しがた見た、幻のような光景は……。

「そなたも、本当は解しておるのだろう?」

 シキは妖しく微笑み、容赦なく告げる。「いずれこの男が迎える今際の際――すなわち、死期を目の当たりにしたのだと」

 ――夏樹に重ねていた手が、力なく滑り落ちる。

 やはり、認めるしかないのだろうか。

 彼が迎えてしまう未来、運命を。

 それはあまりに残酷な宣告で、無慈悲な死期。

 夢のような景色の中で垣間見た時計、そこに表示されていた日付は――七月二十六日。

 夏樹が心から夢見ていた、十八歳を迎えるはずの日だった。

「あとは、そなた次第だ」

 再び、シキが微笑みながら告げる。「このまま、この男を見殺しにするか――余の力を借り、そなたの母君を殺めるか。

 余は、そなたの選択に従う」

 甘い誘惑のように囁かれる、優しい響きをした問いかけ。

 言葉を失った和葉は、まだ穏やかな寝息を立てている夏樹を見下ろしたのち、両の手で顔を覆った。強い拍動が体の芯を震わせ、渇いた嗚咽が喉の奥から込み上げていた。



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