第36話 エア
薄暗い部屋の中、ネイサンは人の気配が消えるのを待った。首を動かし周りの様子を見る。グウェンとルーファスがネイサンと同じようにストレッチャーの上に横たわったまま、まだ意識が戻らない。反対側を確認すると、椅子に座った人物が微かに見える。男のようだがチェイスではない。ネイサンはぎくりとして動きを止めた。
「気が付きましたか」
椅子に座った男がネイサンに声を掛けてきた。ネイサンはしばらく息を殺して様子を窺ったが、起きているのは気づかれているだろう。
「あんた誰だ?」
「私です、アルトマンです」
「お前、俺達に何をした! ティアとチェイスはどこだ!」
つい声を荒げるネイサンに、アルトマン医師は首を振って項垂れる。
「私にもわかりませんが、おそらく――エアの元にいるでしょう。危害を加えはしないはずです」
よく見ればアルトマン医師も両手を背中で拘束されている。
「どうなってるんだ」
ネイサンは独り言と質問が混じった声を吐き出した。アルトマン医師はため息をつく。
「おそらく睡眠薬を盛られたのでしょう。……君は覚めるのが早いようだが」
「俺はワインが嫌いなんだ。ほとんど飲んでない」
「なるほど。君は運がいい……とも言えないか。すまないが私にも君たちを逃してやることはできそうにないんだ」
そう言ってアルトマン医師は背中できつく縛られた手をネイサンに見せた。
「あんた、このベルトを外してくれ」
ネイサンはストレッチャーにベルトで固定された右手を動かした。アルトマン医師は頷いて、よろけながら椅子から立ち上がりネイサンの横に立った。後ろ向きのまま不自由な手でベルトを探り、幸運にも単純な構造のベルトを緩めた。ネイサンは右手をベルトから抜き取ると左手と両足のベルトを外した。薬で眠らされたことで、拘束が甘かったのが救いだ。
袖の中からナイフを取り出すと、アルトマン医師の結束バンドをその鈍い刃で擦る。切れ味は悪いが、大して強度のないバンドは何度か根気強く擦るとやがてはち切れるように医師の両手を開放した。長時間拘束されていたのか、手首と肩をさすって、医師はグウェンの拘束ベルトを外してやった。ネイサンもルーファスのベルトを外す。
「どれくらいで起きる?」
「飲んだ量がわからないと何とも言えませんが、二、三時間は起きないでしょう」
「くそっ。それまでは何もできないのか」
「ここに運ばれてから――そうですね、一時間ほど経ったと思いますがまだしばらくかかるでしょう」
「この部屋はいったい何なんだ。気持ち悪いものばっかりだ」
「……この部屋は『
「はあ? 子宮? なんだそれ」
「クローンを生み出す場所です。——と言ってもそのほとんどが生まれはしませんが」
「クローンって普通の赤ん坊みたいに母親から生まれてこないのか」
「そう……もうクローンですらないのかも知れないな……」
「俺はそういのよくわかんないけど、あんたらなんかおかしいよ」
「……そうですね。私もそう思います」
「……なんだそれ」
ネイサンはそう言って壁にもたれて座り込み、俯いて黙り込んだ。アルトマン医師も静かに目を閉じて両手を静かに組んだ。時折ポツリポツリとお互いの様子を確かめるように、今何時だろう、そろそろかな、などと言葉を交わす。
やがてルーファスが低くうめいて寝返りをうつ仕草を見せたので、ネイサンは駆け寄った。
「ルーファス、気がついたか」
「……ネイサン? どうしたんだ、俺は寝てたのか?」
そう言ってふらつきながら体を起こそうとするルーファスの背中を支えてやる。
「気を付けろ、薬を盛られたんだ。ゆっくり」
「ネイサン……ドクター……ティアはどうした。チェイスもいないな」
「……二人は別のところへ連れて行かれたらしい。俺たちがここに来た時、ドクターはもうここにいた」
ルーファスが朦朧としながらも状況を確認していると、やがてグウェンも小さく咳き込み、覚醒の兆しを見せた。
「マムも無事だな」
そう言いながら、ネイサンとアルトマン医師に視線を戻し、ルーファスは説明を求めた。
「あの食事のとき、変なワインが出たろ? あれに薬が盛られてたんだ。何杯か飲んだあと、みんなぼんやりし始めた」
「お前は? 効かなかったのか?」
「俺は飲んだふりして捨てた。ワイン嫌いだし」
「なるほど、おかげで助かったな」
頷きながら、ルーファスは手首をさすり、アルトマン医師に質問する。
「あんたがここにいるってことは、敵じゃないと思っていいのか」
「私はあなた方に危害を加える気はありません。……むしろ私も同じ立場のようです。エアは私を不要と判断したんでしょう」
肩を竦め、自嘲気味にそう言うアルトマン医師は嘘をついているようには見えなかった。
「ドクター、あんたの考えを聞かせてくれ。……ティアとチェイスは無事だと思うか」
「……そう思います。エアは二人を利用するはずです。それが叶うまでは少なくとも殺しはしないでしょう。どちらかと言えば我々のほうが危ない」
「……同感だ」
三人はしばらく黙り込む。不意に身じろいだグウェンのそばへアルトマン医師は歩み寄り、その覚醒を見守る。意識を取り戻したグウェンを、アルトマン医師は起こしてやり、その背中を擦った。
「ゆっくり、深呼吸して。急に立ち上がらないほうがいい」
「……ああ、ドクター。あんたなのかい」
「そうです。申し訳ない。あなたをこんな目に遭わせるなんて」
「やれやれ、よく寝たとは言えないね。頭が痛いよ」
こめかみを押さえながら起き上がるグウェンを、三人はホッとしながら見守る。ようやく、明瞭な意識を取り戻し、全員の無事が確認できた。ルーファスは大きくため息をついて口を開く。
「ドクター、どうやらあんたも俺たちと同じ立場のようだ。あんたの知っていることを全て話してくれ。まずはあいつの言う『計画』とやらについて」
アルトマン医師は、小さく頷いて眼鏡を外し、疲れ切ったように目元を手で覆ったあと、ため息を付きながら顔をなでおろした。
「エアは、リリスの遺伝子を受け継いだ完全な子供を作り出そうとしています。健康で強い子供を。そのためにティアとチェイスを利用しようとしているのです」
「……どうして二人が? エアもリリスとやらの直系なんだろう? ここでの地位も有る。自分の子供を残せばいい話じゃないか」
ルーファスは率直な疑問をぶつける。
「エアは自分の遺伝子を残せません。何度もクローンを作ろうと試みましたが、彼の遺伝子を持った者が産まれることはなかった」
ルーファスとネイサンは腑に落ちない様子で何かを言いかける。グウェンが静かに呟いた。
「あの子には何か問題があるんだね?」
「……はい。エアは、染色体こそ男性ですが生殖機能を持ちません。そればかりかその外性器は女性そのものなのです。もちろん子宮も卵巣もありません」
「……それってどういう……見た目は女だけど、本当は男で、なのに男でも女でもない?」
ネイサンが混乱したように言う。アルトマン医師は無言で頷き、悲しげに続けた。
「そうです。永遠に子供のままのような体に、重い業を背負って生まれてしまった。同じ母から生まれた双子の妹には全てが与えられ、自分からは全てが奪われた、彼はそう感じていたのかもしれません。この閉ざされた地下世界に一人残された彼の絶望を思うと……私は、彼の言いなりになるしかなかった」
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