第30話 チェイス
「僕はてっきり、君たちが恋人同士なのかと思っていたんだ」
エアはそう言って、チェイスにグラスを差し出す。チェイスが微かに眉をひそめるのを見てエアは困ったように微笑む。この地下施設の自治体制についてチェイスはエアから話を聞いていた。ルーファスとティアは広大なトウモロコシ畑を視察に行っている。
毎日の昼食は五人とエア、時々エアの側近などが同席してエアの私室でとった。だが今日は珍しく護衛もなくチェイスはエアと二人きりだった。
「天然のものほど美味しくはないのだろうけど、――合成ワインだよ」
チェイスはグラスを受け取り、ソファに腰を下ろす。グラスのワインを嗅いでみると妙に甘い匂いがした。エアもチェイスの隣に座ってワインを一口飲むと、僅かな沈黙を挟んで、君は、と続けた。
「ティアのことをどう思っているの?」
単刀直入にそう言ってチェイスを見つめる、ティアと同じ顔をした人物の視線から逃げるようにチェイスもグラスを口に運ぶ。
「子供の頃からずっと家族として暮らしてきた。ティアは大事な妹だ」
自分に言い聞かせるようにそう言って、甘いだけのワインを無理やり飲み下す。エアはその美しい碧の瞳を伏せ、グラスに揺れる赤いワインを見つめながら言う。
「――血の繋がりは無いよね」
「だから何だと言うんだ。血が繋がらなくてもたった一人の妹だ」
「そう、大切な妹。――だけどチェイス、君はティアを愛しているだろう?」
「当然だ」
「ひとりの女として」
一息に急所を貫くその言葉に、チェイスは目を見張り、苦しげに開いた唇が震えて吐息が零れる。そんなチェイスに見せつけるようにエアはグラスを煽る。真っ白な喉をチェイスに晒し、コクリと微かな音を立ててワインを飲んだ。チェイスはその喉の白さに目が眩みそうだった。ティアよりも更に白い、青ざめたような肌に漆黒の髪が揺れる。
十六歳になる少年だと言うのにその肌には毛穴ひとつ見えない。髭など生える可能性すら感じられなかった。無防備な襟元からは鎖骨が覗いていたが、それもチェイスの小指ほどの細さで、首筋に影を落としていた。
チェイスは目頭を押さえる。ずいぶん強いワインなのだろうか。フワフワとした心地で、何もかもを打ち明けてしまいたい欲求に駆られる。目の前のエアは、相変わらず絵のような微笑みを浮かべ、チェイスのグラスにワインを注いだ。チェイスはまるで条件反射のようにグラスを口に運ぶと、その甘い液体を飲み干した。
「――ティアも君のことを愛しているよ」
「知ったような口をきくな」
「分かるんだ。――僕たちは一卵性双生児、もともと一つの魂だったんだよ。ティアの心は僕の心でもあるんだ」
*****
「チェイス、チェイス! こっちだよ、早く来て」
チェイスの頭の中に声が響く。聞き慣れた恋しい声が。いつもその声に名前を呼ばれたいと思っていた。――幼い日、突然現れた美しい妹。
兄のルーファスは父のカリスマ的な魅力を受け継いでいる。老若男女が愛さずにはいられない強さと優しさ、素直さを持ち合わせている。物心ついたときにはルーファスは兄として常にチェイスを庇った。
チェイスが泣いて嫌がったウサギの解体も、ルーファスは涙一つこぼさずにやり遂げてみせた。最初のナイフをウサギの体に突き立てるとき、ルーファスの手は微かに震えていた。それでもチェイスのように母親の背中に隠れたりしなかった。そうしてチェイスは常にルーファスの弟だった。
チェイスは感受性が強く、人の気持ちに敏感だった。だからこそ両親も兄も、純粋に自分を愛してくれているとよく分かっていた。強く優しく正しい家族に愛されているのに、いつも何か満たされない葛藤を抱えている自分の醜さに、チェイスは怯えていた。
ティアは、可愛い妹は、そんなチェイスを兄と慕った。何も疑わず、何も失望しない。自分もルーファスのように誰かを守ることができる、その自負がチェイスの心を軽くした。兄を真似て幼い妹の世話をし、いつも隣りにいてその小さな手を握った。
ティアが実の妹ではないとはっきり気づいたのがいつなのか、チェイスは思い出せない。もしかしたら最初から分かっていたのかもしれない。ただその事実から目をそらして兄と妹という絆に縛り付けたかったのかもしれない。
だがその欺瞞もティアが誰よりも美しく成長し始め、思春期を迎える頃には終わりを告げた。他所の男たちがティアの名前を尋ねる度、少女たちがティアに辛く当たる度、チェイスは心の底に隠してきた思いが日に日に大きくなるのを止められなかった。その思いを確信させたのは、皮肉にもルーファスだった。
ルーファスは少年から大人の男に変貌しつつあり、少女たちからのアプローチが絶えなかった。中には年上の相手もあったがルーファスは特に拒みもしないので、常に恋人らしき存在があった。だがその中の誰ひとりとしてルーファスの心は手に入れられずにいた。
チェイスは、そんなルーファスとその恋人たちとの別れを度々目にしている。彼女たちは必ず泣いていて、ルーファスはただ、俺が悪いんだと言うばかりだった。チェイスにはそんなルーファスの交遊関係が全く理解できなかった。なぜ愛してもいない相手と、そんな時間を過ごすことができるのか、自分ならばただ一人の愛する人がいれば、それ以外の誰も必要ないのに、と。
ある日、チェイスは弓矢の練習をするティアとルーファスが言い争っているのを目撃した。狩りに出たがるティアと、それを諦めさせようとするルーファスの、もう何度目とも知れぬ、いつもの口論だった。いつもと同じくその言い争いは決裂して、ティアはルーファスの元を去った。それだけのことだったが、一人立ち尽くすルーファスの表情は、今までどんな相手にも見せたことのない苦しげなものだった。そんなルーファスを見て、チェイスは痛感したのだ。
――兄は自分と同じ顔をしている。
*****
「チェイス、僕は君とティアが結ばれるべきだと思っているんだ」
エアのその唐突な宣言に、グラスを持ったチェイスの右手が止まった。そんなチェイスの戸惑いをよそに、エアは一層無邪気な笑顔を浮かべて続ける。
「君たち二人はこの世界の
ティアと同じ顔の少年が嬉々としてチェイスに語る。チェイスはその内容に違和感を覚えずにはいられない。新しい人類の始まり? それではまるで今この世界に生きる人々が終わりを迎えるようではないか。
「エア、君の目的は一体何なんだ。何故そんなにティアにこだわる? キングにクイーン? どうかしてる。ティアは普通の人間だ。自分で選んだ人生を生きるだろう」
「君こそどうしてわからないんだ。ティアは普通の人間なんかじゃない。すべての始まりになる母親なんだ」
「そんな馬鹿げたこと、ティアが承知するわけない」
「なぜ?」
「なぜか、だって? そんなの決まってる。ティアはこんな地下に閉じこもって暮らすのを望んでない。ティアは、みんなと一緒に――」
「ルーファスと一緒 に?」
唇からグラスを離し、エアは口角を小さく持ち上げて微笑んだ。チェイスはハッとして顔を上げると、次の瞬間にはエアを睨みつける。
「彼はいずれ君からティアを奪っていくよ、永遠にね。――チェイス、彼さえいなければティアは君のものだよ。僕は君こそティアに相応しいと思ってる」
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