第19話 遭遇 2
「ひとまず戻ろう」
チェイスの言葉に、ティアはまるで止まった時計が再び動き出すように現実に引き戻された。この扉を開けることは諦めて、二人は掘り返した土を平らに均してから
小さな火を起こして鍋を火にかけ、朝のうちに仕掛けた罠に掛かったリスの肉を団子にし、摘んできた
黙々と食事の支度をしている間も、ティアの頭の中はあの扉のことで一杯だった。すぐそばで枯れ枝をちょうど良い長さに切って積み上げるチェイスも言葉少なで、やはりティアと同じことを考えているのだろう。食事を済ませた後、二人は同じく抱いている疑問について話し合った。
「あの中に人がいるってことだよね」
最初に切り出したのはティアだった。チェイスは驚かなかった。手の中のカップを見つめて、ゆっくりと瞬きをし、口を開く。
「——それしか考えられない。今まで誰にも知られずにいたことも説明がつくね」
「地下で人が暮らせるものだろうか」
「どうだろう……突然地下に閉じ込められたら不可能かもしれない。でも——始めからそのつもりで備えていたのだとしたら?」
始めから、とは一体いつからなのか、考えるほどに混乱して答えは出ない。二人はお互いに言葉少なく考え込んだ。
翌朝、二人は日の出と共に動き出した。馬を例の草原まで走らせる。
明日からは移動しながら探索することにして二人は道具をまとめ、眠りについた。翌朝もよく晴れて暖かく動きやすい日和だったので、沢に水を汲みに行き軽い朝食をとって
相変わらず延々と鉄の柵が続き、柵の近くで馬を休ませていると、数百メートルほど離れた森の木々から、一斉に鳥が飛び立った。ティアとチェイスは素早く馬に飛び乗り、注意深く森を見つめる。小鳥だけでなくフクロウまでも巣から飛び出している。ただならぬ様子にティアはチェイスの方を見る。
「様子がおかしい。ティア、ここを離れよう」
二人はすぐに手綱を握り直し、それぞれの愛馬に鋭く声を掛ける。走り出した馬上から森を振り返ると、大きな黒い影が転がり出るように木々の間から飛び出すのが見えた。
「チェイス!
ティアの叫び声にチェイスも振り返って確認する。遠くてはっきりしないが、灰色熊は怒り狂ったように、闇雲に走り出した。他の肉食獣に獲物を横取りされ怪我でもさせられたのか、とにかく興奮して見境がないようだ。この時期のクマは冬眠から覚めて間もないため、ろくに餌にありつけず気が立っているものが多い。視界に入ったティアとチェイスの馬が気に障ったのだろう、走り出した馬を追ってこちらに向かって駆け出してくる。
「まずい、ティア、こっちに来る!」
二人は腰を浮かせて馬を全速力で走らせる。だが灰色熊も足が速い。時速六十キロほどで走ることができる上、持久力もある。モナークもゴーストも足は速いが、二人を乗せたままそう長くは走れない。チェイスの決断は早く、迷いもなかった。
「ティア! 跳べ! 馬が疲れる前に柵を跳び越えろ!」
ティアは驚いてチェイスを振り返る。モナークもゴーストもジャンプは得意だがここまで高い障害を越えたことはない、せいぜい百七十センチ程度だ。
運良く飛び越えられたところで、二メートルあるかないかのこんな柵など、熊は容易く登って越えてくる。それにチェイスの方が荷物も多く、かなり重いはずだ。ティアは躊躇ったが、チェイスが再び叫んでモナークの尻を叩いた。
「モナークなら跳べる! 行け!」
モナークの意識が柵に集中するのを感じる。ティアは手綱を握った拳を緩め、愛馬の肩を軽く叩いて声を掛ける。
「跳べるか、モナーク」
モナークは柵に向かってタイミングを測っている。ティアは膝を緩め重心を前に傾けてモナークの躍動に呼吸を合わせた。迫る柵はやはり高い。人馬ともに転倒すればどちらも無事では済まないだろう。ティアは祈るような気持ちでモナークの踏切りのタイミングを測る。
モナークの後肢が地面を蹴った後、時間が止まったような長い跳躍があった。ティアはその頂点で後ろを振り向き熊を見た。モナークとティアが柵を飛び越えたことで熊が一瞬迷いを見せ、チェイスが柵に沿って走り出す。着地の衝撃でモナークの体が深く沈み込み、ティアはそれを助け起こすように体を後ろへ倒す。どうにか柵を飛び越えた。
そのまま数十メートルを勢い任せに走ったあと、モナークはバランスを崩して前のめりに転倒した。ティアはモナークが膝をつくのと同時に飛び降り、振り向いて走る。柵の向こうでは怒り狂った熊が前足を振り上げてゴーストに襲い掛かっていた。激しく振り下ろされる熊の爪がゴーストの尻を掠める。ゴーストが恐怖と怒りで更にスピードを上げた。
「チェイス!」
ティアが叫ぶのと同時に、あの鳥が現れて熊の頭上に動きを止める。
「ドローン……」
ティアが背負った弓と矢筒に手を伸ばした瞬間、そのドローンは熊に向かって発砲した。当然、熊に致命傷はないが飛び回る三機のドローンは熊を苛立たせ、その意識はチェイスから逸れた。このまま、熊を引きつけてチェイスが逃げ切る時間を稼ぎたい。
うるさい蝿のように飛び回って刺激するドローンに熊が気を取られている間に、ティアは矢筒から毒矢を取り出す。矢尻にゲルセミウムの毒をゼラチンで固めた毒矢で、虎や灰色熊も殺すことができる猛毒だが、酷く苦しませることと、肉が毒されてしまうこともあり、ティアは一度も使ったことがない。
柵の向こう側で怒り狂いこちらに向かって走ってくる熊から目を逸らさず、自分に言い聞かせる。殺せないなら、生き残れない。乱れる呼吸をどうにか宥め、息を止めて熊の目を見る。熊が後ろ足で立ち上がり、柵に手をかけたその時、熊の胸に狙いを定めて力の限りに引き絞った。
矢を放とうというその刹那、熊は柵の鉄骨を握って硬直し、数秒の間凍りついたように身動きできずにいたかと思うと、直後、まるで棒切れが倒れでもするように、どうという音を立てて背中から無防備に倒れた。
ティアは震える息を吐き出し、柵の近くに駆け寄って熊の様子を確認したが、死んではおらず気を失っているようだった。とにかくこれでチェイスは逃げ切ることができるだろう。訳がわからないが、あの柵は触れると危険らしい。高さではなくその仕掛けによって、熊や狼を寄せ付けないのだ。熊は賢い。もう二度とこの柵に触れはしないはずだ。
ティアはモナークの元へ戻ると、すでに彼女は立ち上がり冷静さを取り戻していて、脚は折れていなかったがかなりの熱をもって腫れていた。ティアは腹帯を緩めてやり、モナークを引いて歩いた。
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