第14話 異変 1

 厳しく静かな眠りの冬が過ぎ、杏の花にマルハナバチが飛び回る季節が訪れた。秋に発見された豚について、少ない資料を調べ酪農や牧畜の知識が豊富な他のパックからも話を聞いた結果、やはりかつてのヒトによって改良された家畜の豚であると結論づけられた。


 解体したところ、異常な肥満体であり、それに比べて四肢は貧弱で、立っているのがやっとであろうということが察せられた。なぜ終局以前の家畜がそのままの姿で狩り場にいたのか、耳に付けられた番号札が何を意味するのか。疑問の多いそれらの点から、解体された豚は焼却され、その灰は住処から遠く離れた場所に埋められた。


 未知の何かが存在する可能性、それも含めて一連の出来事はごく一部の者を除いて極秘とすることで意見は一致した。例の狩り場はその後も観察を続けるため、この春に再びそこを訪れることになった。ティアはその狩りにも志願し、その狩り場へは前回のメンバー以外を連れて行く気のないオーウェンはすんなり承諾した。


 ティアはこの機会にもう一度あの扉を確認してみたいと密かに考えていた。夜明けと共に出発し、再び狩り場を訪れた一行は、まず周囲を観察し、人の暮らす痕跡がないかをくまなく調べた。


 この土地はまばらに生える低木がある程度で、森のような巨木は育っていない。日当たりが良く比較的乾いた土で近くに大きな水場もない。見渡す限り建物も残っていなければ、一時的に人が滞在していた痕跡すらなかった。


 ティアは秋に見つけた扉の周囲を探索したがあの扉は土で覆われていて、長年開けられた形跡がなかった。何者かが存在していて扉の中と外を行き来しているのであれば他にも扉があるはずだ。埋まった扉から半径二キロほどの範囲を調べて歩き回り、なだらかな丘を登ったティアが見たのは、一面の草の海だった。

 

 見渡す限り、ただ延々と膝の高さほどの緑の草が豊かに生えているのみだった。




——ただの草原、それだけであればティアをこれほど警戒させはしなかっただろう。ティアの目の前に広がる草原とティアの間には、高さ二メートルほどの鉄製の柵があり、それがティアの世界と、その未知なる世界を明確に隔てていた。


 右を見ても左を見ても、何キロにもわたって柵が立てられている様子だ。錆びてもいないそれは、明らかな拒絶を表していた。ティアの知らない、そしておそらく他の誰も知らない何者かが存在する、それだけの事実だがティアを呆然とさせるのには十分だった。友好的とは言い難いその鉄の柵のそばをティアは警戒しながら歩いた。


 柵の中には誰もいないようだし、建物らしき影も見当たらない。一キロほど柵に沿って観察したがこれといった変化はなかった。ティアが単独での調査を諦め、一度仲間の元へ戻ろうとしたその時。ティアの頭上に大きな鳥の影が近づいた。


 なぜ近づいてきたのか、逆光ではっきりとは見えないが小鳥ではない。ティアは警戒して鳥から目を離せない。狙う獲物もないこの場所になぜ近づくのか、不審に思い観察すると、その鳥は羽ばたかない。旋回する軌道も不自然だった。


「鳥じゃない」


 ティアがそう呟くのと、目の前の草が揺れて妙な匂いと共に薄い煙が上がるのが同時だった。それが何なのか、ティアには分からない。だが考えている暇もない。ティアは咄嗟に矢をつがえて鳥を狙った。草むらに仰向けに倒れながらのその一矢いっしは狙いを外し、鳥のようなそれはティアに向かって垂直に高度を下げた。ティアはその照準が正確に自分の胸にあると悟る。


「間に合わない」そう判断しても、恐ろしいほどに研ぎ澄まされた生存本能がその予感を打ち消して、次の矢に手を伸ばす。視覚以外の官能を切り捨て、見開いたティアの瞳に映るのは青空を切り抜いた鳥の影だけだった。





 その視界を遮ったものが額から滴る汗なのか涙なのか分からないまま、ティアは押し潰されるように何かの下敷きになった。重くて熱いその塊の下で、喘ぐように空気を吸い込んだティアは、嗅ぎ慣れた血の匂いに正気を取り戻す。


 ティアを庇って飛び込んだのはルーファスだった。ティアを覆い隠すようなルーファスの肩越しに鳥を視界に捉え、ティアは腰に差したナイフを抜いて一度深く呼吸をする。そしてドアをノックでもするように小さく前腕が動くと、鳥が鋭い金属音の悲鳴を残して墜落した。


「ルーファス!」

 

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