第4話 森の子供1

 ティアは十四年前、狩りに出たこのパックのリーダーであるオーウェンに森の中で発見されて保護されたのだった。だから正確な年齢ははっきりしないが保護された時は二歳程度ではないかと思われた。


 いったいどれくらい森の中で過ごしたのか、髪は絡まり合ってフェルトのようになっていたし、肌は色が分からないほどに垢と土にまみれて汚かった。何よりもその臭いは強烈で、近づけば鼻を刺すような獣の臭いでまともに息ができなくなるほどだった。


 はじめオーウェンは狼の子供か何かだと思ったが、よく見るとそれは二本足で立っていた。特に怯えるでもなく、ただまっすぐにこちらを見て微動だにしなかった。オーウェンは仲間達に合図してその場に待機させると静かに近づいて二本足の獣の前に片膝をついた。するとその獣はオーウェンに向かって右手を伸ばしたのだった。まるで許しを与えるような仕草で。そうしてオーウェンはその垢まみれの獣を抱き上げると右腕に抱えて話しかけた。


「お前の名前は?」

 

 大男の腕の中でその獣は暴れもせず鳴きもしなかった。じっとオーウェンの瞳を見返し、落ち着いた、そしてはっきりした口調で答えた。


「ティア」

 

 オーウェンはそれを聞いて驚いた。まさか返事があるとは思わなかったのだ。抱き上げて真近に見てさすがに狼ではないと分かったが、どう見てもそれは二歳になるかどうかの幼い子供だった。それがこれほどはっきりと、物怖じもせず名乗るとは。


 ははは、と声に出して笑うとオーウェンは周囲の仲間に問題ないことを身振りで伝えた。


「変わった名前だな」


 そう呟いてティアを抱え直すとそのまま仲間の待つ住処への帰路についた。仲間と暮らす、以前は病院だった建物に戻ると出迎えた人々は自分たちのリーダーが連れ帰って来た汚らしい獣の子を珍しげに眺めた。


「オーウェン、今日の獲物はこのチビか」


 赤い顔に深い皺を刻んだ老人がそう声をかけながらティアの近くへ来て顔を覗き込んだ。


「こりゃまた汚い子供だな。どこで見つけた」


「北に二十キロほど行った空港跡の近くだ」


 狩りから帰った男達は病院の入り口すぐの広い待合室で背負った荷物を降ろし、土と汗で汚れた顔をシャツで拭った。数人の男女が手伝いにやって来て、女達は果実や木の実を手早く籠に取り分けてキッチンへ運び、男は五人がかりで獲物の鹿を「手術室」へ運んだ。


 この森にいる生き物はみな一様に大きい。鹿なら最も小さいオジロジカの雌でも二百キロはあった。もしも間違ってヘラジカなどに遭遇すれば狩りどころではない。一トンを軽く超える巨体でこちらに死人が出る恐れがあるし、その場で捌かなければ持ち帰ることもできない。森の中でそんなことをしていては肉食獣を呼び寄せることになる危険な行為だ。


 いちばん手頃な獲物はウサギやキツネ、ウズラあたりだった。今回は雄のオジロジカの成獣で三百キロ近い個体だ。パック内でも特に身体能力に優れた者がこうして月に数回狩りに出て仲間が食べていくだけの食料を命がけで集めてくる。


 残った老人や女達は、畑や飼っている鶏の世話をしたりと皆それぞれが自分の務めを果たしていた。子供達は十歳になると役割を与えられ、そこには大人と同等の責任が求められた。この森での暮らしではこうして協力し合っていかなければ生き延びることができないからだ。

 

 オーウェンはキッチンに戻る女達に、妻のレイチェルを寄越すように言い、しばらくして背の高い女が待合室にやって来た。強く縮れた暗い赤毛が印象的な、肌の白い女だった。女は清潔な布をオーウェンに手渡し、彼の傍にじっと立っている汚い子供をちらりと見やって、無言でオーウェンに説明を求めた。オーウェンは布を受け取ると、目の周りや喉元を拭ってから肩にかけた。


「森の中で拾ったんだ」

 

 オーウェンは手短に答えた。レイチェルは子供に向けていた視線を夫に戻すと、眉を寄せて訝しげに言った。


「拾った、――ってこの子の親はどこなの?」


「いない。こいつだけだ」


「まさか、こんな子供が森にいたらあっという間にクマの餌だわ」


「ずいぶん長く一人でいたようだが、怪我ひとつないようだ」


「……どうして森の中なんかにいたのかしら」


「さあな。周りを調べたが親の死体も見当たらなかった。まあとにかくこの通り、臭くて仕方ない。こいつを風呂に入れてやってくれ」


「ええ、そうね。お湯の用意はできてるわ。あなたも、みんなと一緒に体を洗って来て」


 そういってレイチェルは子供の傍にしゃがみ、汚くもつれて額に張り付いた髪を指でかき分けてやりながら、あなたも綺麗にしましょうねと言って子供の脇に手を差し入れて抱き上げた。子供はレイチェルの肩に頬を乗せ、右手はレイチェルの鎖骨のあたりで彼女の赤い髪の毛を一房握りしめてじっとしていた。


 レイチェルは子供を浴室に連れていき、かろうじて体にまとわりついているばかりのボロ布を剥がすようにして脱がし、静かに湯をかけてやった。子供は浴槽の湯をじっと見ている。初めて見るのだろうか。ずいぶん長い間森にいた様子だし、一度も風呂に入ったことがないのかも知れない。


 レイチェルはそう思った。狭い浴槽に湯を溜めながら、まずは顔にこびりついた垢と泥の汚れを柔らかく使い古した布で拭ってやった。拭いても拭いても黒い汚れが顔中に伸び広がるばかりで一向に綺麗にならないのを根気強く洗い流して、ようやく肌の色が見えてきた。子供は固く目をつぶったまま、ぐずりもせず大人しくされるままにしていた。

 

 レイチェルは自分の子供達とずいぶん様子が違うのに感心した。彼女の子供達はいつだって大人しく顔を洗わせたりしなかった。嫌がって逃げようと暴れ回るので、レイチェルはいつも子供達以上にずぶ濡れになるのだった。どうにか顔と体の汚れを洗い流すと、次の問題は髪だった。恐らくは生まれた時から一度も鋏を入れていないであろう髪の長さは胸の下までありそうだったが、ここまで酷く絡んでいると解いてやるのは無理だった。


 洗おうにももつれた髪が引きつれて痛みもあるだろう。レイチェルは諦めて、塊になってしまった髪を切ることにした。不潔なままにはしておけない。洗ってやれるようにするには耳の上まで切る必要があった。思い切って短くしてやると、ようやく頭皮に指が触れるようになり、髪の根元まで流すことができた。そうして一時間以上も格闘してどうにか洗い上げると、子供はようやく人間の子供に見えた。



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