7
せっかく咲いた桜も一週間ほどで散ってしまう。桜並木のある河川敷は、すでに夜桜用の提灯を片付けていた。見物客も、もうほとんどいない。黄緑色の新緑が、枝の隙間から芽吹き始めている。
散り落ちた花弁は至るところを飛び回り、時には人々に踏まれ、時には川の表面を埋め、離れた位置のわたしの家まで、やってきた。
カゲロウのような花だ。とてもしずかで、とてもはかない、と見せ掛けて毎年あらわれる。終わらないまま繋ぎ続けている生き物たちだ。力強くて、頼もしい。カゲロウを、今度一羽くらい飼ってみたい。
庭先に舞い落ちた花びらは、ご丁寧に虫たちの墓前にいた。盛り土を飾る薄桃色は春らしく柔らかで、ねむっている虫たちは喜んでくれている気がした。
手をきっちりと合わせてから、出掛ける準備をした。玄関を出る前、いってきますと無意識に投げていた。返事は当然なかったけれど、それでよかった。わたしは伸びをして、久しぶりに家を出た。足取りは案外と軽かった。
途中の花屋で花束を買い、昼下がりの明るい日差しの中を歩き続けた。葬式後にしか来た覚えのない家族の墓は、町外れの墓地の中にあるのだ。車どころか自転車も持っていないので、ひたすら歩くしかない。
道すがら、何度か通行人の視線を受けた。左目に嵌めたままの眼帯のせいか、ろくに洗っていない絵の具まみれの手のせいか、常に赤い蝶々にまとわりつかれている男性のせいかは、定かではない。
暮野さんとは家から一緒に出てきた。あのまま家に留まっていたからだ。
「春だなあ、って思ってるあいだに、桜も終わっちゃったな」
「そうですね、もったいなかったです。来年は描かなければ」
「透子さんの描いた桜、見たことないかもしれない。画集にも載せてないよな?」
「載せてますよ。花の部分を燃やしたので、桜に見えなかったんじゃないですか」
暮野さんはちょっとショックを受けたような顔をした。お団子のように縛っている長い髪をわしわしと掻き、不勉強ですみません、と苦笑気味に言った。
彼の顔をじっと見た。髪がかなり伸びているので、すこし鬱陶しそうだった。わたしは邪魔になった頃に自分で切っている。暮野さんもそろそろ切ればどうかと言えば、蝶々が嫌がるように羽根をバタバタさせる。
聞き分けのなさに呆れてしまう。わたしの子供っぽさがそっくりそのまま蝶々には備わっていて、それなりに恥ずかしい。
暮野さんは蝶を宥めてから、
「忠告通りに、少しは切ろうかな。坊主やらスポーツ刈りにはしないけどさ、さすがに暑くなってくるし」
と前向きな検討を口にする。
「でも暮野さん、夏場はショートカットよりも伸ばして縛っている方が涼しいらしいですよ。そろそろ切ればどうかと思うのは本当ですが、蝶が嫌がるということは、長い状態も素敵だと心の底では思っているからかもしれません」
「……、いや、そう言われると余計に悩むんだけど……」
顎を擦りながら唸る暮野さんを横目に見つつ、墓地に向かう細い上り坂へと足を向ける。木立の並びが影になっていて、潜り込むとすこし肌寒い。
ついくしゃみが出た。わたしの肩に、暮野さんが上着を乗せた。
「ありがとうございます」
「うん、そのまま着てて」
うなずいて、ありがたく上着を借りた。やり取りするわたしたちの横を、墓参り帰りらしい乗用車が一台通り過ぎる。
坂道をゆったり下っていった車体を見送りつつ歩いていけば、墓地の姿がふっと現れた。町中と思えないほど閑静な一角だった。
家族の墓は案外綺麗だった。娘はわたしひとりだけれど、親戚や友達がいないわけではないからかと、多少生気を保っている献花を見下ろしながら思った。もしくは事故相手の遺族だろうか。わたしがろくに相手をしないので、死んだ三人に許しを乞うのかもしれない。わたしみたいに。
作法がよくわからずうろうろしていると、暮野さんが準備を済ませてくれた。萎れた花を新聞紙につつみ、水を替えて、わたしが購入した花を生けた。水は墓自体にもかけられた。濡れて艶めく墓石は、なんだか満足そうだった。
暮野さんは断りを入れてから手を伸ばした。藤宮純太と刻まれた箇所をなぞり、その爪先には蝶がさっさと止まった。空気を読んだのか読んでいないのかわからない蝶々の行動に彼は苦笑した。
黙って光景を眺めていると、暮野さんは不意に鞄を開いた。
「これをさ、ずっと探してたんだ。見つけたから、透子さんに渡すよ」
差し出された紙をとりあえず受け取った。印刷された絵を見て、一瞬固まったけれど、察した。
暮野さんが慎重に息を吸う。
「前に話した、純太くんが賞に応募してくれた絵だよ。会社のデータ引っ掻き回したから、けっこう怒られたけど、まあ、見つかってよかった。渡したからどうなるわけでもないけど、もしかしたら透子さんには、見て欲しかったのかもしれないなって、思ってさ」
どうしてですか、とは聞けなかった。
キャラクターデザイン募集の賞に向けて描いた純太の絵はやっぱり才能が感じられなくて、技術も普通で、飛び抜けて目を引くデザインではなかったけれど、わたしだけはこれを握り潰せなかった。
たぶん、いやぜったいに、憧れの姉を模したキャラクターだった。
「ありがとうございます、暮野さん」
絵を鞄にしまい込んで、深々と頭を下げた。彼は何度か頷き、また墓へと視線を向けた。
わたしは手を合わせた。合わせた手の先端に、無遠慮な赤い蝶が降り立った。ほどくと即座に飛び上がり、飽きもせず暮野さんの肩に乗った。
本当に好きらしかった。
わたしと同じだ。
「描いてる絵は、ちゃんと仕上がりそう?」
墓地を出て道を歩きながら、暮野さんがあらたまった様子で聞いてきた。
「それなりです、あらゆるところを描き直していますが、そのうち仕上げたい気持ちはあります。絵の具が足りなくなったので配達待ちです」
「ずいぶん大きな絵だし、仕方ないか」
「サイズもですけど、……塗りたい色が前とは違って」
もう夕方前だ。落ちゆく太陽に生み出された斜めの影が、コンクリートの上でたよりなく揺れていた。横目で見つつ、ゆっくり歩いた。
なんだかとてもそぞろだった。遠慮しあうような空気の中、暮野さんが先に動いて、何かを言いたそうにわたしを見下ろした。でも、言わなかった。黙ったまま肩の蝶に視線を移し、指先で赤い羽根を撫でていた。
「暮野さん」
わたしの家に着く前に、意を決して立ち止まった。まっすぐに向き合うと、彼は燃えているくせに穏やかな目でわたしを見つめた。去年の夏からずっとこうやって、不定形にわたしを見つめ続けていた。
この人はわたしのために傷つくだろうし、わたしのために死にかけるだろうし、わたしのためになにかしら、砕き続ける生活を望んでいた。
それがいいなら、それでいいけど、わたしにはまだ足りないものばかりだった。
「……暮野さん、色々、感謝しています」
やっと言葉を絞り出す。暮野さんは頷いて、わたしは深く息を吸う。
「描いてはいますが、本当にちゃんと描き切れるかは、自信がありません。わたしはまだ、試行錯誤しなくてはいけないと思います。止めていた仕事も、少しずつ再開したいとも、考えています。……それから、止めたままだった時間を動かしたい。五年前から触れていない純太の部屋や両親の私物を、この機会に解凍していこうと思います。だからまだ、時間が要ります。暮野さん、わたしはあなたが好きですが、しばらく待たせることになります」
「うん、わかってる」
「すみません。でも、今描いている絵をちゃんと完成させられたら、前よりも好きだと思えるものとして生み出せたら、それがいつになるかはわかりませんが、もしかするとやっぱりだめでまた違う絵を描くかもしれませんが、完成したのであればその時は暮野さん、あなたにわたしの絵を見て欲しいです」
暮野さんは考えもせずに頷いて、楽しみにしてると、笑いながら言い添えた。本当に屈託なく笑われて驚いた。わたしが万全になると信じきっている顔だった。
「透子さん」
「……はい」
「俺は、なんていうか……」
「なんていうか……?」
暮野さんは言い淀み、顎を掌で擦ってから、つよい瞳でわたしを見た。
「俺は、なんていうか、自信がなかったのかもしれない。透子さんに惚れたけど、俺よりも遥かにすごい、芸術そのものみたいな、人でさ。あんたがダメになるくらいなら、俺はどうなってもいいってぐらいには、思い詰めていたと思う。今も思いはするけど、ちょっと変わったよ。透子さんの絵がいつか完成して俺に見せてくれるときには、俺は俺で、透子さんの隣りにいても釣り合う人間になっていたいと思います」
だから、またいつか。暮野さんはそう締めくくり、片手を上げながら体を傾けた。わたしは頭を下げてから、歩き出した姿をじっと見た。いつも見送ってばかりで、追い掛けもしないわたしはずるいのだろうけど、今はやっと、冴えた気持ちで立っていられた。
それに、ひとりで放り出すわけではない。暮野さんの周りを、赤い蝶々がひらひらと飛んでいる。
蝶々は迷いもなく、そのまま暮野さんについていった。暮れ切って青い黄昏の中に、ひとりと一匹は溶け込んだ。
暮野さん。ひとりになってから、呼びかけた。かすかに疼いた左目をおさえ、しずかな黄昏を、焼き付けるようにつよく見つめた。
いつかがいつまでも来なくても、わたしから生まれた芋虫は、羽化した美しい一羽の蝶だけは、なにがあってもこの先ずっとあなたのものです。
今度こそ捨てられもしない、あなたのためだけの蝶なんですよ、暮野さん。
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