6
しばらく呆然と見つめてしまった。そのうちに、赤い蝶が羽ばたいた。室内の光を存分に浴び、きらきら光って暮野さんの周りを飛び回った。とても綺麗な蝶々だった。わたしは空洞に戻った左目をおさえながら、暮野さんと蝶の様子を眺めていた。
「透子さん、あんたと離れてからも、離れる前も、色々考えてたんだ」
暮野さんが人差し指を差し出せば、蝶は迷うことなくそこに止まった。かぼそい手足が彼の指に絡んで、蝶は甘えるように頭を爪へと擦り付けていた。
「たとえばこいつ、今は赤い蝶になったけど、はじめは赤い芋虫だったこの、透子さんの虫。俺はこいつを、ずっと大事にしてたけどさ、その理由はやっぱり透子さんなんだよ」
黙ったままのわたしの隣に、蝶をともなって暮野さんが腰掛ける。そっと寄りかかったのは無意識だった。暮野さんは息だけで笑い、わたしは首筋に自分の手形を見つけた。
絞めた記憶はたしかにあった。でも、褪せた絵画のように掠れていた。あんなに本気で殺そうと思っていたのに、怒りと殺意がすでに遠かった。
諦めとも違うこの感覚は、なんだろう。虫が外に出て行ったからだろうか、いやに落ち着いている。
暮野さんがためらいがちに、わたしの体に腕を回してきた。やわらかい手つきで背中を撫でられ、見上げると優しい目にぶつかった。
「透子さん、この蝶はさ、好きな食い物とか嫌いな食い物が、全部あんたと一緒なんだよ」
どきりとした。パンの耳やキャベツの芯は、確かに虫もいやがっていた。
でも、それは、わたしの虫だから、当たり前なのだ。
そう伝えると、暮野さんは小さく頷いた。
「左目から生まれたってのは聞いたけど、どうして生まれたかまでは聞いてなかっただろ。それで、もしかして、透子さんにもわからないからかもしれないなって、俺は思った」
言葉の区切りを察知したように、蝶がふっと飛んだ。暮野さんではなくわたしの肩にゆっくりと降り立って、赤い羽根をしずかに休め始めた。
暮野さんは息を吐き、わたしにもたれかかった。まとめそこねている長い髪が、頬や首をくすぐった。
右と左に蝶と暮野さんの重みを受けながら、いちばんはじめを思い返した。
偶々寄った居酒屋で、暮野さんに出会った。注文するものが同じで、ついでに通せばひとつの器で届いた。わたしと彼はぽつぽつと話をしながら酒を飲み、オクラ納豆を混ぜて、時間を共にした。
暮野さんは昔に飼っていた蝶の話をした。いや、芋虫の話だった。彼はわたしをその時から気に入ってしまって、連絡先を聞いてきた。拒めたけれど拒まなかった。わたしだって彼を、気に入ってしまっていた。
蝶がゆっくり飛ぶ。忙しなく、今度は暮野さんのところへ戻る。暮野さんは当然のように腕を差し出して、蝶は嬉しそうに寄り添い止まる。
羨ましい。そう、口から漏れた。暮野さんは蝶を留めたまま体を起こして、わたしを無言で見た。彼の目は緩やかに冷えており、特技ともいうべき執筆方法を、思い出した。
彼はずっと、わたしの虫になり、わたしになり、心の中を探っていたのだ。
「羨ましい。……たぶん、それで合ってます」
暮野さんはわたしのようにしずかに話す。
「あなたは俺を気に入って、昔に飼っていた虫が羨ましかった。また会いたかった。でも、絵を描くのには、邪魔な気持ちだった。だから隔離しようとして、それが、」
これです、と言いながら、暮野さんは蝶をこちらへ差し出した。何度か瞬きをして、穏やかな表情に戻ってから、ごめんと挟んだ。
「俺のせいなんだなって、ずっと思ってた。芋虫と話してるとさ、本当に、ほとんど、透子さんだったんだ。家族の話とか、賞をもらった絵の話とか、飼っている虫の話とか、パンの耳が嫌いとかキャベツの芯が嫌いとか米焼酎が好きとか赤の絵の具が切れると苛立つとかね。……それに、山吹さんが苦手だけどすごいとは思ってるとか、俺のことが、居酒屋で会った時から気になってるとか。そういうの、芋虫は、こいつは話したよ。だから透子さんが潰そうとする度に怖かった。俺があんたにそこまでさせてるのかって、考えるのが怖かったんだよ」
暮野さんはゆっくりと腕を下ろした。蝶は手足だけで腕をよじ登り、肩までいってからぴたりと羽根を閉じた。
何を返せばいいのかわからなかった。ただ、奇妙なほど凪いでいた。芋虫ごしに暮野さんを見ては無意味に苛立っていた夏や、堪え切れず目に戻してしまって暮野さんしか描けなくなった秋が、客観的だけれど悪くはないものとして感じられた。路頭に迷ったような冬すらひつような時間だったかもしれないと、暮野さんにもたれながら思い返していた。
どのくらいそうしていたのか。いつの間にか、また眠っていた。ふと目を開ければ、暮野さんにもたれかかったままだった。
彼も眠っていたし、蝶もおそらく、眠っていた。寝息のようにゆっくりと開閉する羽根が、つけっぱなしの照明を受けながら、煌めいていた。それは孔雀の羽根のようだった。構造色の、暮野さんと見た鮮やかでどこか神聖な緑色が、まぶたの裏を過ぎっていって閃いた。
暮野さんに毛布をかけて、作業場へ向かった。眠っているのかと思ったが、蝶がひらひらついてきた。もう喋りはしないらしく、ただただ、一生懸命飛んでいた。
「あなた、わたしなの」
声をかけてみるが、返事はない。もう、訴えるひつようがないのかもしれない。
「それなら、一緒に来て」
わたしの要請に、蝶は当然とでも言いたげに揺れた。作業場につくと真っ先に画材へと飛んでいき、この間わたしが塗りつぶした、暮野さんを描いた絵の上へと止まった。羽をぱたりと閉じたので、動く気はなさそうだった。
蝶の頭を指先で撫でてから、作業を始めた。張っていなかった大きなキャンバスを準備して、イーゼルに立て掛けしっかりと固定し、油彩絵の具をパレットに出した。いつの間にか朝になっていた。窓から差す光は白くて柔らかかった。
思いつくままに色を乗せた。何も考えずに筆をすべらせ、ペインティングナイフで表面を削り、掻き混ぜた。赤色はあまり減らなかった。でもやっぱり基調は赤で、土台の景色は燃えていた。わたしの色だ。今までもこれからも、わたし自身の代わりの赤だ。
途中で蝶が飛び立った。わたしの周りを鼓舞するように、しばらくはひらひら舞っていたけれど、ふと気づくと姿がなかった。気になり、描く腕が一旦止まった。
窓辺からの光が薄くなっていた。夕方前だと気づいた瞬間に、急にお腹が空いてきた。
垂れた汗を手の甲で拭う。絵は、まだ半分も描き終わっていなかった。でも意識した空腹に気がぬけてしまった。
休憩してから、また描こう。パレットと筆を置き、振り向いたところで、目が合った。蝶を肩に乗せた暮野さんは、ふきだすように笑った。
「顔、汚れてるよ」
嬉しそうな声で言いながら、自分の頬を指し示す。
「気にしていたら、絵なんて描けませんよ」
「まあ、そうだろうけど」
「……、暮野さん、わたしは汚れていても綺麗ですか?」
聞きながら肩口で頬をこすると、紺色の絵の具が衣服を遠慮なく汚した。
暮野さんは顎の辺りをぐりぐり触りながら、頷いた。
「当たり前だろ、あんたやっぱり綺麗だなあ、透子さん」
首を絞められようが好きな女の目が虫だろうが、この人はそう言い続けるのだろう。
笑いたくなったけど、涙が落ちた。眼球のない左目も、新しい絵を焼き付ける右目も、平等にぼろぼろ泣いていた。
わたしにはまた絵が描けた。それがとても嬉しくて、暮れる日の中、泣き続けていた。
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